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第1話 牛乳を買いに出ただけだった

 その夜、風宮亜矢は牛乳を買いに出ただけだった。


 世界を救うつもりなんてなかった。 聖女と呼ばれる予定もなかった。 魔王と向き合う覚悟なんて、あるはずもなかった。


 ただ、バイト帰りの疲れた夜に、白い泡の浮いたコーヒーを一杯飲みたかっただけ。


 けれど次に彼女が足を踏み入れたのは、近所のコンビニではなかった。


 二つの月が浮かぶ、知らない世界。


 そして、倒れた少年を囲む、白い広場だった。


     *


「風宮さん、今日も助かったよ」


 閉店作業が終わる少し前、スーパーの店長がバックヤードでそう言った。


 亜矢は潰した段ボールをまとめながら、小さく頭を下げる。


「いえ、全然です。お疲れさまです」


「これ、持ってく? 自己責任だけど」


 店長が差し出したのは、値引きシールの貼られた惣菜の小さなパックだった。売り場から下げられた、今日中に食べなければいけないものだ。


「いいんですか?」


「まあ、捨てるだけだから。ちゃんと今日中に食べてね」


「ありがとうございます」


 亜矢は少しだけ表情を緩めた。


 ありがたかった。


 大学の近くで一人暮らしをしていると、こういう一品が本当に助かる。家賃を払って、スマホ代を払って、教科書代を残したら、食費はいつもぎりぎりになる。


 贅沢なんて、ほとんどできない。


 それでも亜矢には、最近の小さな楽しみがあった。


 休憩中に飲む、紙コップのコーヒー。


 砂糖は入れない。 ミルクを少しだけ入れる。 そして、友人たちが誕生日にくれた小さなミルクフォーマーで、ほんの少し泡立てる。


 安いコーヒーでも、白い泡が少しのるだけで、不思議と気持ちがやわらいだ。


 疲れた足も。 重たい頭も。 明日の一限への不安も。


 ほんの数分だけ、軽くなる。


 だから亜矢は最近、その小さなミルクフォーマーをバッグの内ポケットに入れたままにしていた。


 お守りみたいなものだった。


「じゃあ、お先に失礼します」


「気をつけて帰ってね」


「はい」


 制服から私服に着替え、エコバッグに惣菜を入れて、亜矢は店を出た。


 夜の空気は少し冷たかった。


 駅前から少し外れた住宅街。街灯は等間隔に並んでいるけれど、夜になると道の端は思ったより暗い。


 スマホを見ると、時刻は二十二時を少し過ぎていた。


「明日の一限、出られるかな……」


 思わず独り言が漏れる。


 心理学のレポートは、まだ半分しか終わっていない。 洗濯物も畳んでいない。 明日の準備もしていない。


 やらなきゃいけないことはある。


 分かっている。


 でも今は、とにかく座りたかった。


 帰って、惣菜を温めて、泡コーヒーを飲む。 それから少しだけレポートを進める。


 それが今日の予定だった。


     *


 アパートの階段を上がると、足が少し重くなった。


 築年数の古い二階建てのアパート。亜矢の部屋は二階の奥だ。家賃は安い。大学までは自転車で行ける。バイト先も近い。


 便利ではある。


 ただ、夜に帰ってくると、廊下の蛍光灯が少し寂しく見える。


「ただいま……」


 誰もいない部屋に、亜矢は小さく言った。


 ワンルームの部屋は狭い。ベッド、机、小さな棚、折りたたみのテーブル。それだけでだいたい埋まっている。


 机の上には大学の資料とノート。端には、昨日使ったマグカップが伏せて置いてある。スマホの充電ケーブルは床に落ちかけていた。


 亜矢は惣菜をテーブルに置き、部屋着に着替える前に、まず電気ケトルに水を入れた。


 疲れている日ほど、先にお湯を沸かす。


 そうすれば、着替えている間にちょうどよくなる。


 洗面所で手を洗い、髪をゆるく結ぶ。鏡に映った自分は、少し疲れた顔をしていた。


「まあ……今日も頑張った、よね」


 自分で自分に言ってみる。


 少しだけ恥ずかしくなって、すぐに視線をそらした。


 部屋に戻ると、ケトルが小さく音を立て始めていた。


 亜矢はマグカップを手に取り、インスタントコーヒーを入れる。高い豆を買う余裕はない。でも、これはこれで好きだった。


 お湯を注ぐと、部屋にコーヒーの香りが広がる。


「よし……」


 ここまでは完璧だった。


 あとは牛乳を少し入れて、ミルクフォーマーで泡立てるだけ。


 亜矢は冷蔵庫を開けた。


 そして、固まった。


「……あれ?」


 ドアポケットにあるはずの牛乳パックが、ない。


 いや、正確には、あるにはあった。


 けれどそれは、ほとんど空に近いパックだった。底にほんの少し、白い液体が残っているだけ。


 亜矢はパックを持ち上げ、軽く振った。


 ちゃぷ、と頼りない音がした。


「うそ……」


 昨日の夜、残りが少ないことには気づいていた。 朝に買えばいいと思っていた。 けれど朝は寝坊して、大学に遅れそうになって、そのまま忘れていた。


 バイトの帰りにも、買うつもりだった。


 でも閉店作業で疲れて、店を出た時には完全に頭から抜けていた。


「やっちゃった……最悪だ……」


 コーヒーの湯気が、むなしく立ち上っている。


 ブラックでも飲めないわけじゃない。むしろ砂糖なしの苦い味は嫌いではない。


 けれど今日は違った。


 今日は、泡コーヒーじゃなきゃだめだった。


 誰かに褒められたいわけじゃない。 何か特別なご褒美が欲しいわけでもない。


 ただ、白い泡が少し浮いているだけで、今日をちゃんと終われる気がした。


 亜矢はしばらく冷蔵庫の前で固まっていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……買いに行くか」


 時計を見る。


 二十二時二十三分。


 近くのコンビニなら歩いて五分。外に出るのは面倒だけれど、行けない距離ではない。


 亜矢はテーブルの上のマグカップを見た。


 湯気はまだ残っている。


「帰ってきたら、ちょっと温め直せばいいよね」


 惣菜はそのまま。 レポートもそのまま。 洗濯物もそのまま。


 でも、牛乳だけは必要だった。


 亜矢は小さな財布とスマホをバッグに入れた。


 バッグの内ポケットで、ミルクフォーマーが小さく鳴った。


 友人たちが誕生日にくれた、白い小さなお守り。


 これは、特別な道具ではない。


 バイト先の休憩中、紙コップのコーヒーを少し泡立てるだけのもの。 疲れた日に、ほんの少しだけ気持ちをやわらげてくれるだけのもの。


 それでも、バッグに入っていると少し安心した。


 スマホを持つ。 鍵を持つ。 財布を確認する。


 玄関に立ち、スニーカーに足を入れた。


 いつもの夜。 いつもの部屋。 いつものアパートの廊下。


 何も特別なことはなかった。


 ただ牛乳を買いに出るだけ。


 亜矢はそう思って、ドアノブに手をかけた。


「……寒いかな」


 薄手のカーディガンを羽織っておけばよかったかもしれない。


 でも、もう面倒だった。


 五分だけ。 すぐ戻る。


 牛乳を買って、泡コーヒーを作って、少しだけレポートをやって、寝る。


 それだけ。


 亜矢はドアを開けた。


 その瞬間、視界が白く染まった。


「え……?」


 廊下の蛍光灯ではない。 スマホのライトでもない。


 真っ白な光が、ドアの向こうからあふれてきた。


 眩しい。


 けれど、その白はただの光ではなかった。


 泡のように細かく揺れていた。 境界線のように、玄関の向こうとこちらを分けていた。


 まるで、黒い夜の中に、白い円が切り取られたみたいだった。


 亜矢は反射的に一歩下がろうとした。


 けれど、身体が動かなかった。


 足元の感覚が消える。 床がなくなる。 冷たい夜風の代わりに、知らない空気が肌を撫でた。


 どこか遠くで、鈴のような音がした。


 誰かの声が聞こえた気もした。


 けれど、それが日本語だったのかどうかさえ分からない。


「待って……なに、これ……!」


 亜矢の声は、白い光の中に吸い込まれた。


 次の瞬間、身体がふわりと落ちた。


     *


 石の冷たさが、膝に伝わった。


「っ……!」


 亜矢は手をついた。


 床ではない。 アパートの玄関でも、廊下でもない。


 ざらついた石畳。


 ゆっくり顔を上げる。


 まず見えたのは、夜空だった。


 月が、二つあった。


 大きな青白い月。 その隣に浮かぶ、小さな金色の月。


「……え?」


 亜矢は息を止めた。


 目の前には、石造りの広場があった。


 布の天幕を張った屋台。 丸い魔法灯のような光。 見たことのない文字が刻まれた看板。 夜空へ伸びる白い塔。


 足元の石畳には、円を描くように白い線が刻まれている。


 その線だけが、月明かりを受けてかすかに光っていた。


 人がいる。


 でも、普通の人だけではない。


 頭に獣の耳がある少女。 ローブを着た老人。 背中に小さな羽のようなものを持つ子ども。 角の生えた大きな馬に似た生き物。 腰に剣を差した男。


 誰もが、突然現れた亜矢を見ていた。


 ざわ、と空気が揺れる。


「……どこ?」


 声がかすれた。


 そうつぶやいた瞬間、近くで甲高い悲鳴が上がった。


「誰か! 誰か来て!」


 人垣の向こうで、誰かが倒れている。


 亜矢は反射的にそちらを見た。


 石畳の上に、少年が倒れていた。


 年は十歳くらいだろうか。


 顔色が悪い。 唇が紫色になっている。 腕には黒っぽい傷があり、そこから霧のようなものがにじんでいた。


 黒い霧は、石畳の白い線に触れるたび、じゅ、と小さく音を立てて薄くなる。


 周囲の大人たちが青ざめている。


「魔獣の毒だ!」


「神殿を呼べ!」


「間に合わない、もう広がってる!」


「白境の内側まで穢れが入ったぞ!」


 知らない言葉のはずだった。


 耳に届いている音は、日本語ではない。 けれど、意味だけが頭の中に直接流れ込んでくる。


 それだけではなかった。


 亜矢が思わず漏らした「どこ」という日本語にも、近くにいた人々が反応している。


 言葉そのものが通じているわけではない。


 たぶん、意味だけが届いている。


 そう直感した瞬間、亜矢の背筋が冷たくなった。


 看板の文字は読めない。 壁に刻まれた記号も分からない。


 それなのに、声だけは分かる。


 ここは本当に、自分の知っている場所ではない。


 少年のそばでは、母親らしき女性が泣きながら手を伸ばしていた。


「離して! あの子が……!」


「駄目だ、触ればあんたまで毒霧にやられる!」


 男が女性を必死に押さえている。


 少年の呼吸は浅い。


 ひゅう、ひゅう、と喉の奥で嫌な音がした。


 亜矢は自分の手を見た。


 震えている。


 怖くて、冷たくて、何もできない手。


 けれど、その指先に、淡い白い光がまとわりついていた。


「……え?」


 右手の指先から、白い湯気のようなものがにじんでいる。


 熱くはない。 むしろ、手のひらの奥がじんわりと温かい。


 それは、少年の傷口から漏れる黒い霧とは正反対のものに見えた。


「な、なにこれ……」


 亜矢は慌てて手を振った。


 けれど、白い光は消えなかった。


 周囲のざわめきが大きくなる。


「白い衣の……?」


「まさか、白境の外から来た方か?」


「いや、あの白は……」


 周囲の人々の目が変わった。


 驚きだけではない。 恐怖だけでもない。


 すがるような視線が、いくつも亜矢に向けられている。


「ち、違います」


 亜矢は慌てて首を振った。


「私、そんな……何もできません」


 日本語のはずなのに、意味は届いている。


 何人かが、一歩下がった。


 逆に、泣き崩れていた女性が顔を上げる。


 少年の母親らしきその人は、涙で濡れた目で亜矢を見た。


「お願い……」


 その言葉だけは、はっきり聞こえた。


「助けて……」


 亜矢の喉が詰まった。


 自分にできることなんてない。


 医者ではない。 看護師でもない。 魔法なんて使えるはずもない。


 それなのに、少年の指が、石畳の上でかすかに動いた。


 誰かを探すように。 助けを求めるように。


 亜矢の胸が、ぎゅっと痛んだ。


 バッグの内ポケットで、小さな音がした。


 かつん、と硬い音。


 ミルクフォーマーだった。


 奇跡を起こす道具なんかじゃない。


 けれど、その白い小さな道具の感触を思い出した瞬間、亜矢の頭の中に、いつもの光景が浮かんだ。


 紙コップのコーヒー。 少しのミルク。 白く立つ泡。


 黒く沈んだ気持ちが、ほんの少しだけほどける瞬間。


 白いものが、黒く濁ったものをやわらげる。


 ただのイメージだ。


 現実には、そんなことで毒が消えるわけがない。


 それでも、亜矢の指先にまとわりつく白い光は、そのイメージに反応するように小さく揺れた。


 亜矢は、倒れた少年を見た。


 少年の母親を見た。


 自分の震える手を見た。


「私……」


 何ができるのかなんて、分からない。


 ここがどこなのかも、どうして来たのかも、帰れるのかも分からない。


 ただ、目の前で子どもが苦しんでいる。


 それだけは分かった。


 亜矢はゆっくり、立ち上がった。


 膝が震えている。


 怖い。 逃げたい。 誰かに助けてほしい。


 けれど、足は少年の方へ一歩だけ動いていた。


 その時、ローブを着た老人が膝をついた。


 老人の視線は、亜矢の白く光る指先に向けられている。


 その声は震えていた。


「白境の聖女だ……」


 広場が、一瞬だけ静まり返った。


 聖女。


 誰が。


 自分が。


 牛乳を買いに出ただけの、自分が。


「いや、違……私は、ただ……」


 否定しようとした声は、最後まで出なかった。


 足元の白い境界線が、亜矢の光に呼応するように、かすかに明滅した。


 黒い霧が、少年の傷口からまたゆっくりとにじむ。


 少年の呼吸が、さらに浅くなる。


 助けなければ。


 けれど、どうやって。


 亜矢の中で、その二つだけがぐるぐると回っていた。


 牛乳を買いに出ただけだった夜は、その瞬間から、ただの日常ではなくなった。


 風宮亜矢はまだ知らない。


 自分の中に眠っていた白い光が、この世界で“白境魔法”と呼ばれることを。


 そして、その力をどう使えばいいのかを、これから自分自身で見つけなければならないことを。

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