12. 私たちにそんなもの必要ない
「ルシー嬢、あなたと話がしたいのです」
「ジラール子爵、私たちはもう、お話しすることは何もないはずですわ」
彼はルシーの崇拝者だった。
ルシーが出席する夜会では、気付くとそばにいる男性だった。
馴れ馴れしくするでもなく、強引に何かを迫るでもなく、いつも節度を持ってルシーに接していた。
だから、彼がルシーに対してそこまで強い感情を抱いているとは思っていなかった。
ひと月ほど前、駆け落ちを乞われるまでは──。
「あの時お断りして、私たちの関係は終わりました」
彼が駆け落ちを考えるほどに思いつめたのは、ヴァロワ伯爵のせいでもある。
伯爵は、彼を利用するために随分と思わせぶりなことを言っていたし、ルシーに拒絶することを禁じた。
いうなれば彼は、ルシーの価値を高めるために利用された被害者だった。
申し訳なくは思う。
けれど、レアのため悪者になる覚悟のあるルシーにとっては、必要悪だ。
(私たちに将来はないとはっきりと断ったわ。それなのに、今日はなぜ接触してきたのかしら?)
「ええ、終わりました。でも、それはあなたがこの婚姻で幸せになれると思ったからです」
ジラール子爵は、真摯な瞳でルシーを見つめる。
「あなたは、ランベール公爵との結婚に悩んでいるのだと聞いています。冷血鬼と言われるランベール公爵は、あなたにとても冷たく当たり、あなたはいつも泣いているのだと」
(どういうこと?)
ルシーにそんな覚えはない。
「誰に聞いたのか存じませんが、クレマン様はそんな方ではありませんわ」
「かばう必要はありません! 図書館裏の並木道で、あなたが彼に暴力を振るわれそうになっていたのを私も見ました!」
(ああ、あの時だわ)
ルシーは、並木道でふらついてクレマンに抱き留められた後、キスを迫っての攻防を思い出す。
確かに外野にはそう見えたかもしれない。
(誰か、この方にそんなことを吹き込んだ人がいたのね)
ルシーの頭に、先ほどのマルゴの姿が思い出された。
もうため息しかでない。
(頭が痛いわ。善意でおっしゃってくれているのがまた困りものだわ)
「今はまだ耐えようと思っているのかもしれません。けれど、この先もし耐えられない事態が訪れたら、私を思い出してもらえないでしょうか?」
ルシーは、目を細める。
(でも、ジラール子爵。思い出したとしても、私があなたを選ぶことはないわ。──だって、あなたには私を、いえ、私たち姉妹を救う力はないもの)
ルシーの行動原理は、レアだけだ。
クレマンとの結婚も、レアの病気を治すために魔塔とつながりを持てるという利益があるからこそ、積極的に進めようと思っている。
今しなければならないことは明確だ。
彼にはっきりと断らなければならない。
容赦なく切り捨てなければ。
「私は、自分の道を定めました。公爵家に嫁ぎ、貴族としての義務を果たすことを」
「ヴァロワ伯爵に脅されているのですか?」
「いいえ。私が自分で選んだのですわ」
「ならば、ランベール公爵ですね。あなたはあの男に脅されているに違いありません!」
(話にならないわ)
ルシーは、ジラールにくるりと背を向けて馬車留めへと向かう。
「あなたは私と一緒にいた方が幸せになれます!」
そう言うとジラールは、ルシーの腕をつかんだ。
「放してください」
「いいえ‼ あなたが不幸になるのを見過ごせません!」
ジラールの大声に人が集まってくる。
ざわざわと声がする。
婚約者以外の男性と二人でいる──それも明らかに痴情のもつれをうかがわせる場面だ。
社交界の人々に見られたら好き勝手噂されるに決まっている。
「やめ……」
「ルシー嬢!」
クレマンの声だ。
クレマンは鋭い目でジラールをにらみ、ジラールの腕から奪い取るようにルシーの体を引き寄せた。
「ジラール子爵、だったな。酒が入りすぎているのではないか? 邸に帰った方がいい」
覚えのある安定感のある腕と胸に支えられ、ルシーは安心感に包まれる。
「あなたは、彼女を幸せにできるのか!」
「それがお前になんの関係がある?」
「……っ!」
クレマンは、ジラールに背を向けると、ルシーの背を支えて馬車留めに向かって歩き出した。
ジラールが二人に向かって大声で叫ぶ。
「ルシー嬢! その時が訪れたら、私を利用してほしい。あなたと二人で逃げることくらいできます」
「そんな時は永遠に来ない」
クレマンの言葉は、低く、冷たく、沈み込むように重く回廊に響いた。
乗り込んだ馬車が動き始めると、ルシーはようやく肩の力を抜くことができた。
なんとなく隣に座ったクレマンの顔を見ることができなくて、視線を下に向ける。
今回の舞踏会はいろいろな波乱があったが、全てクレマンに助けられた。
ルシーが養女であるという事実を知っても動じなかったし、ジラールに迫られている時も守ってくれた。
ありがたいけれど、逆にトラブルばかり引き起こした自分が情けない。
(旦那様は、私をどう思ったのかしら?)
『俺が望むのは、温かい家庭だ。一緒に時を過ごすうちに、信頼と愛情はゆっくりとはぐくまれるはずだ』
クレマンがかつてルシーに告げた言葉を思い出す。
(旦那様は私に少しは信頼と愛情を感じてくれたと思っていいわよね。でなければ、あんな風に皆の前でかばったり、あの男にあんな態度で怒りをぶつけたりしないもの)
疲れ切ったルシーの心が、ふわりと温かくなる。
(そういえば王太子殿下の用事は大丈夫だったのかしら。ずいぶん早く戻ってきたけれど。あ、それより……)
ルシーは、不意にお礼を言っていなかったことに気づいて、慌ててクレマンに向き直った。
「旦那様、今日はありがとうございまし……た」
心臓がひやりと冷たくなる。
ルシーを見つめるクレマンの表情があまりにも冷たかったからだ。
「あの男は、なぜあんなにもあなたに固執するんだ」
「それ……は」
ルシーは一瞬答えに迷う。
(伯爵の命令だと言えばいいの? でも、レアのことを言わずに、伯爵との関係を説明できる?)
クレマンは、ルシーが答えを出す前に、ハッ、と吐き捨てるように笑う。
「愚問だな。あなたの普段の言動から察しが付く。あのように男に気を持たせるようなことをしたら当然の結果だろう」
「え?」
ルシーは、頭を殴られたかのようなショックを受けた。
クレマンの言ったことが信じられなかった。
ルシーがあんな風にはしたなく迫っているのはクレマンにだけだ。
(宵闇の妖精は、ガードが固くて誰にもなびかないことで有名だったのに。……そうか。人のうわさなど気にしない旦那様らしいわね)
だからこそ、クレマンに迫るルシーを、いつものことだと思ったのだろう。
(あんな風にせまるような女に、信頼も愛情もないわね。きっと旦那様は婚約者としての義務を果たしただけなんだわ)
ルシーは、手の平をぎゅっと握りしめた。
「あの男はあなたの取り巻きの一人だと聞いた。あなたが結婚を早めたい理由は、自由恋愛だったな。あの男もその相手だとしたら悪いことをした」
目の奥が熱くなる。
何かが引き裂かれたかのように苦しかった。
そもそも自由恋愛なんてルシーは口にしたことがあっただろうか?
(でも、そんなことが問題なんじゃない。旦那様がそう思っている。それが、私たちの関係の全てなんだわ)
ルシーはゆっくりと目をつぶった。
(落ち着くのよ、ルシー。あなたの目的を思い出しなさい)
脳裏に浮かぶのはレアだ。
愛しい妹。
魔力に侵され、命の危機のある彼女を救う、すがれる場所はもう魔塔しかない。
だから、ルシーは、魔塔に出入りできる身分を手に入れるため、結婚して公爵夫人になる。
(旦那様に誤解されたから、なんだというの?)
ルシーには、そんなことにこだわっている、無駄な時間なんてない。
ルシーはゆっくりと目を開けた。
口元にうっすらと微笑すら浮かべる。
宵闇の妖精として、の妖しい魅力を湛えた笑みを。
「そうだと言ったら、早く結婚してくれますか?」
(信頼と愛情──私たちにそんなもの必要ないわ)




