第2話 0.12秒の突破口
黒瀬迅が迷宮へ入った。
監視水晶に映るのは、革鎧に短剣という無駄のない装備の男だ。最初の全滅切り抜きを見て、誰より早く入場申請を叩き込んできた死にゲー狂い。
『さて、巷で噂の「神運営」のダンジョンだ』
迅はそう呟くと、最初の鋼線を一瞥して身を屈めた。続く毒矢も、石板の僅かな変色を拾って射線の外へ滑る。
事前情報がある区画を抜ける速度は、他の探索者と比べても明らかに異常だった。
『攻略界隈のリアルタイムトレンド首位を確認』
NAVIが一度だけ報告する。
「数字はどうでもいい。そこから先は、まだ誰も見ていない」
未踏破区画の扉が、迅の前で開いた。
コメント欄が『はっや』『もうそこ抜けたのか』と沸き立っている。
「……ほう」
情報のある罠を抜けるだけなら当然だ。だが、あの速度でこちらの想定した「正解の歩法」をなぞる操作精度は悪くない。
未踏破の扉の向こうで、どこまでその余裕が保てるか。
迅が細い通路を抜け、やや開けた石造りの部屋へと足を踏み入れる。
踏み入れた瞬間、背後の通路が重厚な石壁の落下によって完全に封鎖された。
『おっと、退路封鎖か』
迅が素早く周囲を見渡す。だが、その部屋の床の大半は、紫色の気泡を立てる毒沼で覆われていた。安全な足場は、部屋の四隅にある僅かな石畳のみ。
そして、天井からゴゴゴゴ、と不吉な地鳴りが響き始めた。
見上げれば、無数の鋭い鉄棘が生えた天井全体が、部屋の床に向かってゆっくりと降下してきている。
毒沼、退路封鎖、そして落下棘天井の複合罠。
水晶越しのコメント欄が『うわ、完全な初見殺しじゃん』『逃げ場ねえぞ!』と悲鳴に近い文字で埋め尽くされる。
もちろん、道は一つだけ残してある。
見えている時間は、わずか0.12秒。
何が道なのかは教えてやらない。初見でそこまで辿り着けるか、見せてもらおう。
『……っ、マジかよ!』
迅は毒沼を避けるように足場を飛び移ろうとしたが、降り注ぐ棘の圧力と毒沼の飛沫に逃げ場を失った。
ズドォォォンッ!!
轟音と共に天井が床に激突する。
致死判定。迅の肉体は光の粒子となって砕け散り、入口の帰還室へと強制排出された。
「……当然の結果だ。初見で避けられるほど甘くは作っていない」
俺は玉座に深く背を預けた。さて、あの偉そうな男がどれほど絶望の表情を浮かべるか。
監視水晶の視点を帰還室へと移す。
「ぐっ……、おえぇっ……!」
石の床に転がった迅は、帰還酔いによって激しくえずいていた。だが、彼は震える手で即座に配信用のドローンカメラを手元に引き寄せ、空中に自身の死亡直前の録画映像を投影した。
『いやー、エグい。完全に潰されたわ』
口の端を拭いながら、迅は不敵に笑っていた。
こいつもか。なぜ死んで笑える。
コメント欄の視聴者たちが『あれ絶対無理ゲーだろ』『理不尽すぎる』と騒ぎ立てる中、迅は映像をコマ送りにして指差した。
『お前ら、よく見ろ。運営は絶対に逃げ道を用意してる』
迅の指先が、天井が激突する直前の毒沼の表面を指し示している。
『ここだ。天井が落ちる直前、ほんの一瞬だけ毒沼の気泡の吹き出し方が変わってる。圧力が抜けたんだ。そして右奥の隅……ほら、一瞬だけ棘の判定がない安全地帯ができてるだろ』
水晶の向こうで、迅の目が爛々と輝いていた。
『この間、およそ0.12秒。俺らで言う「無敵フレーム」みたいな受付時間に、装備の加速スキルを右奥の隅に向かってねじ込めば、抜けられる』
「…………」
俺は、無言で水晶を凝視した。
見抜いた。たった一度死んだだけで、俺がミリ単位で調整した0.12秒の予兆を、完全に言語化してみせたのだ。
「……優秀な観察眼だ、人間。だが、頭で理解することと、その0.12秒に己の肉体を合わせられるかは別問題だぞ」
20分の再同期待機時間が経過した。
迅は再び立ち上がり、迷うことなく同じルートを駆け抜けて、あの棘天井の部屋へと辿り着いた。
背後の壁が塞がり、天井が落下を始める。
『さあ、来い……!』
迅は呼吸を殺し、毒沼の表面を見つめている。
天井が迫る。巨大な質量が空気を圧縮し、猛烈な風圧が迅の髪を揺らす。
そして――毒沼の圧力が抜けた瞬間。
『ここだッ!』
迅の足元で、革靴に付与された加速スキルが青白い光を放った。彼の身体が弾かれたように右奥の空間へと跳ぶ。
だが。
「遅い」
俺が冷酷に呟いた直後、迅の肩口が落下してきた棘の端に掠った。
棘の端は肩口を掠めるだけでは止まらず、鎖骨の内側へ食い込み、そのまま胸郭まで抉った。
致死判定。迅は再び光の粒子となって砕け散った。
コンマ数秒のズレ。ほんの数ミリの誤差が、死を招いたのだ。
帰還室に吐き出された迅は、先ほどとは比べ物にならない苦悶の声を上げた。
「があっ……! はぁっ、はぁっ……!」
四つん這いになり、激しい頭痛と全身を苛むような疲労に耐えている。
『魂疲労蓄積』
空間に、冷徹なNAVIの音声が響き渡った。
『次回の再同期まで、30分です』
死に戻りは、ノーリスクではない。連続して死ねば魂の修復負荷が増し、待機時間も伸びる。今回は20分から30分へ延長された。
コメント欄も『うわ、ペナルティ増えた』『これ沼るぞ』『大人しくレベル上げてから出直せ』と、一気に及び腰になっていた。
だが、床に伏していた迅は、震える足に力を込めてゆっくりと立ち上がった。
『……上等じゃねえか。完璧なタイミングを要求してきやがる』
彼の目には、絶望の欠片もなかった。
『あの運営、ガチだ。理不尽に見せて、プレイヤーの技術に全幅の信頼を置いてやがる。なら、応えるしかねえよな!』
「……狂っているのか、貴様は」
なぜ、己を殺した理不尽を『信頼』などと勘違いできる。俺はただ、貴様らがもがき苦しむ様を見たかっただけだというのに。
さらに30分後。三度目の挑戦。
この頃には『神運営の極悪罠vs有名RTA走者』という構図そのものが海外まで切り抜かれ、攻略界隈は完全に祭りになっていた。
迅が、三度目の棘天井の部屋に立つ。
落下する天井。毒沼の気泡。
俺は思わず玉座から身を乗り出し、監視水晶の映像を食い入るように見つめていた。
圧力が抜ける。0.12秒の隙間が生まれる。
『――シッ!』
迅の身体がブレた。
今度は一切の躊躇もなく、極限の集中力で放たれた加速スキル。彼の身体は毒沼の水面を滑るように駆け抜け、落下してくる棘と棘の間の、ほんの僅かな死角――俺が意図して用意した退避空間へと、完璧に滑り込んだ。
ズドォォォンッ!!
轟音と共に天井が落ち切るが、右奥の隅で丸くうずくまった迅の身体には、傷一つ付いていなかった。
数秒後、仕掛けがリセットされて天井が元の位置へと上昇していく。
それと同時に、塞がれていた奥の扉が重々しい音を立てて開いた。
無傷での突破。
滝のように流れる『うおおおお!』『ガチで抜けやがった!』『神運営に勝ったぞ!』というコメントの嵐が、監視室の壁を白く染め上げる。
「……チッ」
俺は舌打ちをした。
悔しいわけではない。俺の想定した解法を、見事にやってのけたのだ。罠師としては、設計が正しく機能した証明でもある。
だが、腹立たしい。この俺の意図を完全に読み切り、あまつさえその死線を『楽しい』と消費しているこの状況が、ひたすらに苛立たしかった。
突破した先の通路。そこはまだ第一階層の途中のため、粗末な行き止まりの空間が広がっているだけだった。
迅は小さく息を吐くと、自身の周囲を飛ぶドローンカメラのレンズを真っ直ぐに見据えた。
まるで、水晶越しに俺と目を合わせるように。
『素晴らしい調整だったぜ、運営さん』
迅は不敵な笑みを浮かべ、挑発するように手招きをした。
『だが、これだけじゃないだろ? 俺はまだ満足してない。……次も見せろ』
その言葉は、俺の職人としてのプライドに火を点けるには十分すぎた。
「いいだろう。貴様のような生意気なネズミには、極上の絶望を与えてやる」
俺は設計盤を引き寄せると、苛立ちに任せてマナの奔流を流し込んだ。
「NAVI。今集まった観測熱を全て注ぎ込め。階層を拡張し、殺意を練り直す。奴の余裕の顔を、二度と作れないようにしてやる」
『了解しました。マスター』
こうして、俺と死にゲー狂いの攻略者による、終わりの見えない軍拡競争の幕が上がったのだ。




