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第9話 死者の同意は、誰が書いた

「死亡日の訂正ではないのですね」


 セレスティアが尋ねると、書庫係の青年は、処分箱へかけていた手を止めた。


「器への同意書です。日付に誤記があったので、原簿ごと差し替えよと」


 私たちが矛盾を指摘してから、まだ一刻も経っていなかった。


 夜の文書庫には、灯りが三つしかない。


 青年の脇には、古い紙を削り、書き直すための台があった。蓋の開いた箱へ、紐を解かれた記録が入っている。


 エルザが、同意書の写しを胸へ寄せた。


「母さんの字が、なくなるの?」


 青年は、私たちの顔を順に見た。


「もう、訂正の指図が……」

「本日の検分が終わるまで、手を止めてください」


 セレスティアが許可書を開く。


 左目の下の聖印と、紙の金の線が、同時に光った。


「責任は私が取ります。保管場所は、変えましたか」


 青年は唇を噛んだ。


 それから、箱の一番下を示した。


「上の紙から削るので、下へ入れました」


 私は青年の手を見た。


 爪の間が、黒い。


 箱の底なら、上の紙を削るあいだだけは残る。青年は、そこへ隠して待っていた。


「訂正は、誰の指図?」


 私は聞いた。


 青年はセレスティアを見た。彼女は、私の問いを止めなかった。


「管理局からです。誤記の確認が入ると、書式の不備を先に直すことがあります」

「先に直したら、何が間違ってたか、わからなくなる」


 青年が頷いた。


「だから、ここへ来てくださったことを、入庫記録へ書いてください。何時に、どの紙を見たか」


 私は名前を書いた。


 トーマは、私の書いた時刻を確かめてから、入庫簿を閉じた。


     *


 トーマ、と青年は名乗った。


「字を確かめるなら、こちらの台へ。火が近いと、古い面が反ります」


 ヴィレムさんが灯りを動かした。


「わかってる。僕の目にも、そのほうがありがたい」


 ベルンハルトは戸口に立ったまま、持ってきた契約書を卓へ置いた。


 私はその指輪と、書類の署名を見比べた。


 同じ人が、ここにいる。


 昨日までなら、父を知る大人が集まれば、何かが正しくなると思えたかもしれない。


 今は、誰が何をしたのか、一つずつ聞かなければならなかった。


「母さんが署名したっていうのは、本人の字なの?」


 エルザが聞いた。


 ヴィレムさんは、原簿を開く前に首を振った。


「見てから答える。僕の目は、嘘を言った人を見分ける目じゃない」


 右目へ、薄い布をかけ直す。


 頁を傾けると、表面に細い傷が浮いた。


「筆圧と、後から足された線は見える。内容が本当かは、別に確かめないと」


 私は工具袋を下ろした。


 下げた拍子に、壁の金具が鳴る。


 違う、と気づいたときには、灯りが揺れていた。


 床の下を、重い水音が走る。


 東門から南門へ移った震えと、同じだ。


 天井の石目から砂が落ちた。


「壁から離れて!」


 私が叫ぶ。


 奥の避難扉が、轟音とともに閉じた。


 トーマが倒れた。


 抱えていた箱が傾き、古い紙が床へ散る。青年の足が、扉の前へ落ちた棚板の下へ挟まっていた。


 私は彼の肩を掴んだ。


「引っ張らないでください、足が」


 すぐに離す。


 板の下へ手を入れようとして、エルザに灯りを寄せてもらった。


 足ではなく、靴の革紐が、折れた釘へ引っかかっている。


「靴、切っていい?」

「切ってください」


 ベルトの小刀で紐を切った。


 青年が足を抜く。


 セレスティアが彼を支え、倒れた棚から離した。


 トーマは振り返り、原簿へ手を伸ばした。


「こっち。先に人を出してから」


 私は箱の蓋を閉じた。


 今すぐ読みたい紙が、たぶん、その中にあった。


 抱えて逃げたい衝動を抑え、棚の脚が当たらない場所へ押し込む。


 避難扉は、枠ごと歪んでいた。


 石の枠の一方が沈み、厚い木の扉を噛んでいる。廊下へ戻る道も棚で塞がれ、そちらを開けるには、上に残った石を動かさなければならない。


 私は守護剣を抜いた。


 刃を差そうとすると、途中で止まる。


 無理に叩けば、父の刃はまた折れる。


「この枠は、動かさないで」


 セレスティアが私を見た。


「開くのですか」

「扉を掛けてる金具を外す。枠は、上の石を支えてるから」


 壁も扉も、一緒に壊せば早いわけではない。


 私は床に落ちた頑丈な帳面板を二枚拾い、扉の下へ重ねた。隙間へ木片を打ち、重さを床へ預ける。


「その板、年の分け方が書いてある」


 トーマが言った。


「割らない。抜いたら返す」


 彼は頷き、もう一枚、厚い板を寄越した。


 扉の上の金具へ、工具を差した。


 一本目の溝が見えなくなる前に止める。


 木槌を打つと、金具が少し浮いた。


 エルザが私の肩へ触れる。


「下、動いてない」


 もう一打。


 扉の重さが、板へ落ちた。


 ヴィレムさんとベルンハルトが、外れた扉を押した。肩一つ分の隙間ができる。


 トーマを通す。


 次に、記録の箱。


 エルザが出たのを見て、私は最後に身体を滑らせた。


 袖が木の棘へ引っかかった。


 引く前に、手で外した。


 その一瞬がひどく長く感じられて、廊下へ出たときには、息が切れていた。


 ベルンハルトが、閉じた扉の隙間へ箱を置こうとした。


「重しには使わないで。まだ読んでない紙が入ってる」


 私が言うと、男は箱を引いた。


 その代わりに、自分の肩で扉を支える。豪華な上着が、木の棘で裂けた。


 トーマが先に箱を抱えて隣室へ運び、エルザも記録を一束ずつ渡した。


 最後に、床の板を抜く。


 私は表の文字を確認し、割れていない面を青年へ見せた。


「返す約束だったから」


 トーマは板を受け取ったあと、足の痛みとは違う顔をして、息を吐いた。


     *


 原簿は、隣の小さな読書室で開いた。


 トーマの足には包帯が巻かれ、セレスティアが出した椅子へ載っている。


 彼は傷を見ず、箱の紐を見ていた。


「封を、解いていません。入れたときのままです」


 ヴィレムさんが頷き、目録と照らし合わせる。


 頁の間に、別の紙が挟まっていた。


 今の同意書より、小さい。


 私は先に読めた名前で、それが何かを知った。


 イルマ・ロートハール。


「エルザ」


 渡す前に、無意識に、内容を全部読もうとした。


 ひどいことが書かれていたら。今の妹には、まだ早いことだったら。


 でも、原簿を胸へ抱えて待っているのは、妹だった。


 私は紙を渡した。


 エルザは両手で受け取り、端を破らないよう広げた。


 誰も、代わりに読まなかった。


「娘を」


 妹の声が止まる。


 もう一度、息を吸った。


「娘を、私の代わりにしないでほしい」


 蝋燭の芯が、小さく鳴った。


「私の役目として、約束させないでほしい」


 文字は、ところどころ乱れていた。


 最後に、もう一行あった。


「私は、娘のところへ帰りたい」


 妹はそこを読み、しばらく、紙から目を離さなかった。


 それでも、一つの名前と、望まないことは読めた。


 ベルンハルトが、何か言おうとした。


「母さんが望んだ、って言わないで」


 エルザは顔を上げなかった。


「ここには、望まなかったことが書いてある」


 男の口が閉じた。


 ヴィレムさんが、申立てと同意書を並べた。


「同意書の名は、この申立ての署名をなぞっている。止めたところと、力を抜いたところが、同じ形のまま違う場所にある」


 別の頁を開く。


「死亡日の記録は、当日の施設帳と一致する。この同意書だけが、死後の日付で足されている」

「遅れて受け付けたんじゃないの?」


 私が聞くと、トーマが頭を振った。


「受付日ではありません。本人が自署した日、と書く欄です」


 エルザは、母の紙へ目を戻した。


 親指で縁を押さえる。


 泣いてはいなかった。


 でも、私が水を差し出すと、杯を持つ指が少し震えた。


 私はその紙を取り上げず、杯だけを支えた。


「母さんの字、私に似てないね」


 エルザが、ようやく言った。


 私は紙を覗いた。


「あんたのほうが、行がまっすぐ」

「私、代筆を頼まれるから。曲がってたら、お代をもらいにくいでしょ」


 妹の唇が、少しだけ緩んだ。


「会ったことない人みたいに、思えた」


 覚えている顔も声も、エルザにはない。


 今日、初めて、母親に自分とは違う字があると知った。


 私は、自分が母を失ったときのことを話しかけ、やめた。いま妹が持つ紙は、私の昔話を聞くためのものではない。


「見つかって、よかった」


 言うと、エルザは紙の上へ顔を向けたまま頷いた。


 トーマが、同じ箱の底から工事の記録を出した。


 首輪の図があった。


 二重の鋲。


 金具を受ける座と、その形を決める断面図。


 下へ、父の印がある。


 槌と、欠けた三角。


「三年前の、保持具の製作と設置です」


 青年の声が、少し遠くなった。


 石工房シュミート。


 留め座の設計。金具寸法の指定。組立検分、据え付け保証。


 鍛えた人の名は別にある。


 それで、父の印が消えるわけではなかった。


 用途確認の欄に、父の署名がある。


 記入内容は、空白だった。


 添付された古い契約には、テンプル後継保守家、とあった。赤い十字の家が施工を保証し、自由石工の工房が組み上げた物を、教会が運用する。


 その役割の分け方で、使われる本人の声が、どこにも入っていない。


 守秘の誓約も、父は引き受けていた。


 用途確認の空白へ、指が止まった。父は石一つの重さまで測った。その図の先に誰がいるかを、聞かずに納めた。


 首輪の線が、目の前にいるメルヴィナの襟へ重なった。


 次の頁に、別の字がある。


 人体への使用につき、照会。


 このままの使用継続は認められない。


 返却と、検分の要請。


 日付は、納品よりあとだった。


「知ったあと、止めようとした」


 私の口から言葉が出た。


 言った途端、それだけを持って帰りたくなった。


 父は、やっぱりいい人だった。


 その一文に、全部を戻したかった。


 記録の上に、メルヴィナの首の痕が重なる。


「……先の頁も、写してください」


 私はヴィレムさんへ頼んだ。


「返却を求めたところだけじゃなく、最初に引き受けたところも」


 彼は頷いた。


 写す音が続いた。


 父の署名も、留め座の形も、消えずに残っていく。


 父の印は、写しにも残った。返却を求めた頁だけでは、どこからこの仕事が始まったのか、辿れなくなる。


 私は、自分が据えた門の石を思い出した。


 私は黒鉛を取り、今夜、扉をどこから外したか、包みの紙へ描いた。


 戻してよい場所と、まだ危ない場所を、明日来る人へ残した。


 セレスティアが椅子へ座り、同意書を見た。


「私たちの組織が、拒否を同意へ変えた」


 誰かに確認を求める声ではなかった。


 彼女は訂正を止めた許可書を、原本の脇へ置いた。


「この記録を、検分対象から外しません」


 私はその聖印の図を見た。


 内へ伸びる線には、現地命令、とある。


 もう一本には、小さく、外部受信。


 送る線と、受ける線。


 誰が何を受けるのかまでは、用紙に書かれていなかった。


     *


 夜が深まる前に、原本を移すための包みができた。


 父の名がある紙も、同じ包みに入れた。


 エルザは母の申立てを写し終えると、原本を私へ戻した。


「これは、母さんの字として残して。私が持って歩くと、濡らすかもしれないから」


 私が返した写しを、妹は外套の内側へ入れた。


「読めたね」


 言うと、エルザが頷いた。


「私に、何をしろって書いてあるかと思ってた」

「そんなこと」


 否定しかけて、やめた。


 私も、紙を見るまでは何も知らなかった。


「違ったね」


 エルザの息が、長く抜けた。


 私は妹の背へ手を添えた。


 声は出なかったけれど、その手を、妹は払いのけなかった。


 トーマが都市図を運んできた。


「明朝、マルティン様に確かめていただくなら、これも。古い観測室の目録です」


 図の端に、白く塗られた区画があった。


 水路の線だけが塗りつぶしの下へ入り、どこにつながるのか読めない。


 もう一枚。


 器を施設へ運ぶ根拠となった、最も古い徴用令の写し。


 ヴィレムさんがその面を灯りへ傾けた。


 先ほどの偽造された同意書とは、違う沈黙があった。


「読める?」


 私が聞くと、彼は下の名を示した。


 アルドリック。


 人を器へ差し出す最初の命令に、灰の王本人が、署名していた。


 その署名は、今度こそ、本物なのだろうか。


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