↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/11

第10話 師匠は、正しい図を残さなかった

 マルティンさんは、星図の隅の「安全」を消した。


「ここでは、誰も死なん予定だった」


 四日目の朝。


 大聖堂の古い観測室で、私は持ってきた石板を床へ置いた。


「予定、変わったの」

「昨日の図だ。昨日は、観測輪を開く用事がなかった」


 老人は細い線を一本足した。窓ではなく、私たちの入ってきた戸へ向かう線だ。


「出る道を増やす。未来を読み違えた者の仕事は、まずそれだ」


 私は戸の幅を測った。


 荷車は通る。人を横に寝かせると、取っ手が邪魔になる。


 取っ手を、外した。


 マルティンさんが、床の低い段差を杖で示した。


「人を運ぶなら、そこも」


 私は木の板を渡した。荷車の片輪だけが落ちないよう、下へ石を噛ませる。


 老人は足を載せて確かめ、私のほうへ顎を引いた。


「師匠、図のほうは?」


 呼んでから、少し照れた。


 マルティンさんは気にした顔もせず、紙へ戻った。けれど、私が持ってきた黒鉛を一本、自分の隣へ置いた。


 ここへ座れ、というような置き方だった。


     *


 王の署名を確かめるには、古い記録の、どこから線が続いているかを見る必要があった。


 観測輪は、人の背より高い金属の輪だった。


 下の石台へ細い溝が刻まれ、その先が、三つの小さな座へ分かれている。地下聖堂の三つの席を思わせた。


「王が命じたのか、あとで誰かが名を使ったのか。これで、全部わかる?」

「わからん。見えるのは、記録の線と、今つながっている先だけだ。本人が何を思ったかまでは、装置は答えん」


 マルティンさんは脇の机へ、薬の小瓶を並べた。


「水。布。薬はこの順」


 エルザが紙へ書き留める。


「終わったら飲む?」

「途中で手が震えたら、止めて飲む。無理をして続けるための薬ではない」


 老人は自分の椅子を、出口に近い位置へ置いた。


 セレスティアが退路の結界を確かめ、メルヴィナは石台の接続を読んでいる。トーマは原簿の鍵を開け、ヴィレムさんは観測板を載せる台を整えた。


 私は石工房の図を、作業台へ広げた。


 石を削るときに使う冷却水の流れだ。熱を持つ輪の台座を冷やすため、同じ傾きで樋を組む。


 上から水を入れ、戻りは違う溝へ。


 混ぜなければ、温まった水が台へ戻るまでに少し冷える。


 私は出口の低いところを削った。


 手が鈍くても、石の欠ける音は聞こえる。


「そこは、薄くしすぎるな」


 マルティンさんが覗いた。


「わかってる。層はこっちへ走ってる」

「ならよい」


 老人は私の線を消さず、隣へ水量を書いた。


 私は、三日間で増えた数字を見た。


 最初の夜、わからないことだらけの金具を持って訪ねた。そのあとも、老人はわからないことを、わからないと言った。


 だから、聞けると思った。


「イルマさんが運ばれたこと、知ってた?」


 彼の指が止まった。


 エルザは、顔を上げなかった。


「知っていた」


 老人は答えた。


「危険も、見込んでいた。止めるための申し立てを出した。それで、やるべきことをしたつもりになった」

「妹のお母さんは、死んだ」

「ああ」


 謝るより先に、彼は紙を取った。


 知っていた時期。提出した書類。返ってきた答え。


 細い字で書き、署名した。


「今話したことだ。記録と照らせ。私が覚え違えているところもあるだろう」


 私は受け取った。


 腹が立った。


 この人も、私たちの家へ来て、エルザが育つのを見ていた。私が知らなかったことを知りながら、父と話していた。


「なんで、もっと早く言わなかったの」

「言えば、ここで私の話を聞かなくなると思った」


 その答えは、ひどかった。


 でも、私のためだとは言わなかった。


 エルザが手を伸ばした。


 私は証言の紙を妹へ渡した。


 妹は畳まず、母の申立ての写しへ重ねた。


 老人が、観測輪へ目を戻す。


「作業を続けてもよいか」


 エルザは長く黙った。


「母さんの話を、私の代わりに決めないなら」


 マルティンさんは頷いた。


 私は冷却水を流した。


 いま必要な仕事を、一緒にする。


 そのことだけを決めた。


 机の端に、昨夜の首輪の写しがあった。


「首輪を切る前に、重さの行き先を変えろ」


 マルティンさんが、空白の多い図を指した。


「門と同じ?」

「同じ原理だ。ただ、人が支えている物は、門より複雑だ」

「行き先が書いてない」

「お前が、現場を見ろ」


 私は顔を上げた。


 空白へ何か書いてくれないかと待った。老人は、私が置いた黒鉛を見ている。


 私は、その黒鉛を取った。


「ここに書いたら、見てもらえる?」

「見せに来い。間違っていたら言う」


 私は空白の紙を、一枚余計に作業台へ置いた。


 師は、私の規矩札をその紙の端へ置いた。


「秘密を預かった家でも、見たことを黙る義務まで、そのまま継ぐな」


 私は赤い十字の小さな印を見た。


「フリーメイソンの図は、仲間に見せるためにもある」

「ならば、今日測った線を、ほかの者が直せるように書け」


 私は自分の名と、時刻を入れた。祖先の帳面に、私が書き足す最初の図だった。


     *


 観測輪の内側へ、細い光が集まった。


 石台の古い記録板に刻まれた顔が、壁へ映る。二人は、地下聖堂の遺霊と同じだった。


 三人目の顔だけが、暗い。


 輪の下の水が、温まっていた。


 私は戻りの樋を少し下げ、流れを速くする。温かい水が奥の槽へ分かれ、石台へ触れた空気が冷えた。


 老人の指が、記録板の脇で動く。


 細かな数字だった。私が測った水位と、彼が読んだ輪の角度を、エルザが一列に並べていく。


「止める合図は、左手を上げる。それでいい?」


 妹が聞いた。


 老人は頷き、左手を上げてみせた。


 水を止める。


 光が細くなる。


「よい。これで、いつでも終えられる」


 もう一度、始めた。


 手順が一つずつ確かまると、私は安心した。帰り道も、薬も、止め方もある。きちんと用意すれば、危ない仕事でも、無事に終えられると思っていた。


 老人の星図には、昼に食べる物の覚え書きがあった。


 玉ねぎはよく煮ること。


 エルザが見つけ、私を横目で見た。


 私は、帰ったら鍋の底まで混ぜようと思った。


 光の筋がそこへ伸び、戻らず、輪の外へ抜けていた。


「記憶の席に、閉じていない」


 マルティンさんが呟く。


「遺宝の不調ではなかったか」

「どういうこと?」

「死後に残した記憶なら、ここへ戻る。同じ形を取り続けるからだ。三人目は、別の場所へ、今も――」


 扉の錠が鳴った。


 鍵を持っているトーマが、振り返った。


 セレスティアの白い盾が、部屋を二つに分けた。


 衝撃。


 黒髪の男が、盾の向こうへ立っていた。


 白い一房。


 オズリックだった。


「観測を終えてほしい」


 頼み事のような声だった。


「手を離せば、輪はまだ戻る」


 マルティンさんが、台へ手を置いたまま答えた。


「原記録を、こちらで保管する」

「君たちが読むべき物ではない」


 男は盾へ触れなかった。


 床の溝へ、細い金具を差した。


 石台が傾く。


 私は冷却樋の支えへ飛びついた。水が溢れ、足元へ広がる。


「エルザ、外へ!」


 妹は紙を掴み、椅子を戸の脇へ押した。


 トーマが記録板の留め具を外そうとしている。


 上の輪が、そこへ落ちた。


 老人の腕が動いた。


 観測輪の支え棒へ、身体ごと飛びつく。


 輪は止まった。


 止まった、その下を、トーマが這って抜ける。


 オズリックが、抜いた金具を投げた。


 尖った留め片が、支え棒を持つ老人の胸へ当たった。


 赤い線が走った。


 私は、すぐには血だと思えなかった。


 白い粉が、下から赤く染まっていく。


「グレーテ、下へ」


 呼ばれて、身体が動いた。


 床の石片を、落ちる輪の下へ打ち込む。


 右へ一打。


 石が欠ける。


 もう一枚を重ねる。


 トーマの足が抜けた。


 マルティンさんが棒を離し、私のほうへ倒れた。


 受け止める。


 軽かった。


 こんなに軽い身体で、ずっと、あの輪の前に立っていたのかと思った。


「メルヴィナ、退路を。ここを通して」


 セレスティアが名前を呼んだ。


 黒い外套が動く。


 倒れた台が風で横へ滑り、戸までの細い道ができる。メルヴィナの首元で鋲が鳴り、彼女は歯を食いしばった。


「通してる。早く」


 私は老人を抱えようとした。


 左手が滑る。


 ヴィレムさんが反対側の肩へ腕を入れた。


「合わせる。せーの、で」


 二人で、出口へ運ぶ。


 背後で、記録板の砕ける音がした。


 私は振り返らなかった。


 セレスティアの盾が、もう一度、光った。


 男が部屋の奥へ押し戻され、倒れた輪が床を削る。割れる音が続いた。


「記録に触れないで。そこを離れなさい」


 セレスティアの声へ、返事はなかった。


 別の戸が開く音と、閉まる音がした。


 追ってほしいと、一瞬、思った。


 父のときと、同じだった。


 私は腕の中の老人の呼吸を感じ、戸口のセレスティアを呼んだ。


「こっちに来て。まだ、息がある」


     *


 廊下へ寝かせ、布を胸へ当てた。


 エルザが、水と薬を持ってきた。


 言われた順番だった。


 私は小瓶を取って、蓋を開けられなかった。片手で掴むと、濡れた瓶が逃げる。


 妹が開ける。


 老人の口へ寄せようとした。


 飲み込めない。


「マルティンさん。今、冷たいのが入るから」


 返事の代わりに、短い息が漏れた。


 セレスティアが、開いた戸から出てきた。


「相手は退きました。処置を」


 血のついた私の手の脇へ、白い光が入る。


 傷の縁が寄った。


 血の流れる勢いが、弱くなった。


 けれど、床と布へ流れ出た分は、そのままだった。私の指を汚した血を、光は身体へ戻さない。


 セレスティアの頬からも、色が引いていく。


「名を呼び続けて。聞こえていれば、返事を」


 私は老人の顔へ屈んだ。


 老人の胸が、微かに動いた。


 私は息を吸った。


 戻せる。


 今なら。


 セレスティアの手から、光が離れない。


 彼女は何度も、老人の名を呼んだ。


 私が持つ布は、まだ温かかった。


「ここにいます」


 私は言った。


「門の人、数えたよ。東門から出られた人、そのあとも増えた。授業料にするって、言ったでしょ」


 老人の指が、私の手首へ触れた。


 灰の紋ではなく、その横の、無事なところへ。


「だから、授業料は、払えるから」


 声が詰まった。


 もう一度、息をしたのは、私だった。


 老人は、しなかった。


 セレスティアは手を離さなかった。


 呼吸を戻そうとする光が、短く強くなり、また弱くなる。


 彼女が目を伏せるまで、私は布を押さえ続けた。


「止め方も、確かめた」


 私は言った。


「水も冷えてた。熱が上がりすぎないようにした。薬も、ここにある」


 エルザの膝の上に、小瓶が並んでいる。


 順番も、間違っていない。


 セレスティアはその瓶を見たあと、私を見た。


「作業のせいで、亡くなったのではありません」


 私には、すぐ、その違いを受け止められなかった。


 直せるところが、まだあるはずだった。


 何もかも、元の形へ戻せとは言わない。


 目を開けて、私の寸法を一か所、間違いだと言ってほしかった。


 誰かが、私の名前を呼んだ。


 私は返事をしなかった。


 眼鏡の針金が曲がっていた。


 最初の夜から、直そうと思っていた場所だ。


 右の指で、少し戻す。


 すぐ、元へ戻った。


 力をかける方向を変え、もう一度、直した。


 今度は、歪まなかった。


 眼鏡をかける人は、目を開けなかった。


 私は、ようやく手を下ろした。


 観測室へ戻る前に、エルザが杯を持たせた。


 湯だった。


 飲めと言わず、私の右手へ置いた。


 一口飲む。


 喉へ通ると、身体が震えた。


 妹が隣へ座る。


 私はしばらく、杯の底を見ていた。


 廊下の向こうで、トーマが両手を握っていた。


 あの人が支えなければ、自分が輪の下にいた。そう言おうとした口を、セレスティアが待っている。


 私は、ここで誰かを責める声を聞きたくなかった。


 自分の中にも、責める先を捜すところがあったからだ。


 膝の上に、朝、渡された証言の紙がある。


 イルマの移送を知っていた。


 それでも黙っていた。


 その文字も、消えてはいなかった。


 私は紙を畳み、母の申立てと別の紐で結んだ。師の数字が読める端を、内へ折り込まないようにした。


「記録、拾ってくる」


 立ち上がるとき、そう言った。


 床には、濡れた紙と、砕けた記録板が散っていた。


 私は一枚ずつ、まだ読めるものを拾った。


 マルティンさんの星図が、裏返っていた。


 起こしかけて、手を止める。


 輪の下へ伸びた線。


 逆さにすると、私の工房の水槽と重なった。


 上と下。支える側と、載る側。


 父の冷却槽の断面を、私は隣へ置いた。


 同じではない。


 ただ、読めなかった線が、初めて、高さと深さに見えた。


 水路が、何かを受けられるのかもしれない。


 行き先の先は、空白だった。


 今朝、老人に聞いた言葉を思い出す。


 現場を見ろ。


 書き足したら見てもらえるはずだった紙が、濡れた作業台の上へ一枚、残っていた。


 その返事を、不親切だと思った。


 今も、不親切だった。


 私は空白を勝手に埋めず、濡れた測定値を写した。


 手が止まるたび、続きを聞きに行きそうになった。


 部屋の向こうに、台を片づけるヴィレムさんがいた。


「ここを、照らして」


 彼の声で振り返る。


 割れた記録板の下に、薄い面が一枚残っていた。


 観測光が消えかけ、その上へ細い輪郭を映している。


 三人目の顔だった。


 私は黒鉛を取った。


 消える前に、写す。


 額。目。顎の形。


 黒い髪に、一房だけ違う色がある。


 私はそこで、手を止めた。


 像の下の文字は、読めた。


 カスパル。


 千年前、都の封印を作った、三人目の星読み。


 その顔は、父を殺し、今、師まで殺した男と、同じだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。