第10話 師匠は、正しい図を残さなかった
マルティンさんは、星図の隅の「安全」を消した。
「ここでは、誰も死なん予定だった」
四日目の朝。
大聖堂の古い観測室で、私は持ってきた石板を床へ置いた。
「予定、変わったの」
「昨日の図だ。昨日は、観測輪を開く用事がなかった」
老人は細い線を一本足した。窓ではなく、私たちの入ってきた戸へ向かう線だ。
「出る道を増やす。未来を読み違えた者の仕事は、まずそれだ」
私は戸の幅を測った。
荷車は通る。人を横に寝かせると、取っ手が邪魔になる。
取っ手を、外した。
マルティンさんが、床の低い段差を杖で示した。
「人を運ぶなら、そこも」
私は木の板を渡した。荷車の片輪だけが落ちないよう、下へ石を噛ませる。
老人は足を載せて確かめ、私のほうへ顎を引いた。
「師匠、図のほうは?」
呼んでから、少し照れた。
マルティンさんは気にした顔もせず、紙へ戻った。けれど、私が持ってきた黒鉛を一本、自分の隣へ置いた。
ここへ座れ、というような置き方だった。
*
王の署名を確かめるには、古い記録の、どこから線が続いているかを見る必要があった。
観測輪は、人の背より高い金属の輪だった。
下の石台へ細い溝が刻まれ、その先が、三つの小さな座へ分かれている。地下聖堂の三つの席を思わせた。
「王が命じたのか、あとで誰かが名を使ったのか。これで、全部わかる?」
「わからん。見えるのは、記録の線と、今つながっている先だけだ。本人が何を思ったかまでは、装置は答えん」
マルティンさんは脇の机へ、薬の小瓶を並べた。
「水。布。薬はこの順」
エルザが紙へ書き留める。
「終わったら飲む?」
「途中で手が震えたら、止めて飲む。無理をして続けるための薬ではない」
老人は自分の椅子を、出口に近い位置へ置いた。
セレスティアが退路の結界を確かめ、メルヴィナは石台の接続を読んでいる。トーマは原簿の鍵を開け、ヴィレムさんは観測板を載せる台を整えた。
私は石工房の図を、作業台へ広げた。
石を削るときに使う冷却水の流れだ。熱を持つ輪の台座を冷やすため、同じ傾きで樋を組む。
上から水を入れ、戻りは違う溝へ。
混ぜなければ、温まった水が台へ戻るまでに少し冷える。
私は出口の低いところを削った。
手が鈍くても、石の欠ける音は聞こえる。
「そこは、薄くしすぎるな」
マルティンさんが覗いた。
「わかってる。層はこっちへ走ってる」
「ならよい」
老人は私の線を消さず、隣へ水量を書いた。
私は、三日間で増えた数字を見た。
最初の夜、わからないことだらけの金具を持って訪ねた。そのあとも、老人はわからないことを、わからないと言った。
だから、聞けると思った。
「イルマさんが運ばれたこと、知ってた?」
彼の指が止まった。
エルザは、顔を上げなかった。
「知っていた」
老人は答えた。
「危険も、見込んでいた。止めるための申し立てを出した。それで、やるべきことをしたつもりになった」
「妹のお母さんは、死んだ」
「ああ」
謝るより先に、彼は紙を取った。
知っていた時期。提出した書類。返ってきた答え。
細い字で書き、署名した。
「今話したことだ。記録と照らせ。私が覚え違えているところもあるだろう」
私は受け取った。
腹が立った。
この人も、私たちの家へ来て、エルザが育つのを見ていた。私が知らなかったことを知りながら、父と話していた。
「なんで、もっと早く言わなかったの」
「言えば、ここで私の話を聞かなくなると思った」
その答えは、ひどかった。
でも、私のためだとは言わなかった。
エルザが手を伸ばした。
私は証言の紙を妹へ渡した。
妹は畳まず、母の申立ての写しへ重ねた。
老人が、観測輪へ目を戻す。
「作業を続けてもよいか」
エルザは長く黙った。
「母さんの話を、私の代わりに決めないなら」
マルティンさんは頷いた。
私は冷却水を流した。
いま必要な仕事を、一緒にする。
そのことだけを決めた。
机の端に、昨夜の首輪の写しがあった。
「首輪を切る前に、重さの行き先を変えろ」
マルティンさんが、空白の多い図を指した。
「門と同じ?」
「同じ原理だ。ただ、人が支えている物は、門より複雑だ」
「行き先が書いてない」
「お前が、現場を見ろ」
私は顔を上げた。
空白へ何か書いてくれないかと待った。老人は、私が置いた黒鉛を見ている。
私は、その黒鉛を取った。
「ここに書いたら、見てもらえる?」
「見せに来い。間違っていたら言う」
私は空白の紙を、一枚余計に作業台へ置いた。
師は、私の規矩札をその紙の端へ置いた。
「秘密を預かった家でも、見たことを黙る義務まで、そのまま継ぐな」
私は赤い十字の小さな印を見た。
「フリーメイソンの図は、仲間に見せるためにもある」
「ならば、今日測った線を、ほかの者が直せるように書け」
私は自分の名と、時刻を入れた。祖先の帳面に、私が書き足す最初の図だった。
*
観測輪の内側へ、細い光が集まった。
石台の古い記録板に刻まれた顔が、壁へ映る。二人は、地下聖堂の遺霊と同じだった。
三人目の顔だけが、暗い。
輪の下の水が、温まっていた。
私は戻りの樋を少し下げ、流れを速くする。温かい水が奥の槽へ分かれ、石台へ触れた空気が冷えた。
老人の指が、記録板の脇で動く。
細かな数字だった。私が測った水位と、彼が読んだ輪の角度を、エルザが一列に並べていく。
「止める合図は、左手を上げる。それでいい?」
妹が聞いた。
老人は頷き、左手を上げてみせた。
水を止める。
光が細くなる。
「よい。これで、いつでも終えられる」
もう一度、始めた。
手順が一つずつ確かまると、私は安心した。帰り道も、薬も、止め方もある。きちんと用意すれば、危ない仕事でも、無事に終えられると思っていた。
老人の星図には、昼に食べる物の覚え書きがあった。
玉ねぎはよく煮ること。
エルザが見つけ、私を横目で見た。
私は、帰ったら鍋の底まで混ぜようと思った。
光の筋がそこへ伸び、戻らず、輪の外へ抜けていた。
「記憶の席に、閉じていない」
マルティンさんが呟く。
「遺宝の不調ではなかったか」
「どういうこと?」
「死後に残した記憶なら、ここへ戻る。同じ形を取り続けるからだ。三人目は、別の場所へ、今も――」
扉の錠が鳴った。
鍵を持っているトーマが、振り返った。
セレスティアの白い盾が、部屋を二つに分けた。
衝撃。
黒髪の男が、盾の向こうへ立っていた。
白い一房。
オズリックだった。
「観測を終えてほしい」
頼み事のような声だった。
「手を離せば、輪はまだ戻る」
マルティンさんが、台へ手を置いたまま答えた。
「原記録を、こちらで保管する」
「君たちが読むべき物ではない」
男は盾へ触れなかった。
床の溝へ、細い金具を差した。
石台が傾く。
私は冷却樋の支えへ飛びついた。水が溢れ、足元へ広がる。
「エルザ、外へ!」
妹は紙を掴み、椅子を戸の脇へ押した。
トーマが記録板の留め具を外そうとしている。
上の輪が、そこへ落ちた。
老人の腕が動いた。
観測輪の支え棒へ、身体ごと飛びつく。
輪は止まった。
止まった、その下を、トーマが這って抜ける。
オズリックが、抜いた金具を投げた。
尖った留め片が、支え棒を持つ老人の胸へ当たった。
赤い線が走った。
私は、すぐには血だと思えなかった。
白い粉が、下から赤く染まっていく。
「グレーテ、下へ」
呼ばれて、身体が動いた。
床の石片を、落ちる輪の下へ打ち込む。
右へ一打。
石が欠ける。
もう一枚を重ねる。
トーマの足が抜けた。
マルティンさんが棒を離し、私のほうへ倒れた。
受け止める。
軽かった。
こんなに軽い身体で、ずっと、あの輪の前に立っていたのかと思った。
「メルヴィナ、退路を。ここを通して」
セレスティアが名前を呼んだ。
黒い外套が動く。
倒れた台が風で横へ滑り、戸までの細い道ができる。メルヴィナの首元で鋲が鳴り、彼女は歯を食いしばった。
「通してる。早く」
私は老人を抱えようとした。
左手が滑る。
ヴィレムさんが反対側の肩へ腕を入れた。
「合わせる。せーの、で」
二人で、出口へ運ぶ。
背後で、記録板の砕ける音がした。
私は振り返らなかった。
セレスティアの盾が、もう一度、光った。
男が部屋の奥へ押し戻され、倒れた輪が床を削る。割れる音が続いた。
「記録に触れないで。そこを離れなさい」
セレスティアの声へ、返事はなかった。
別の戸が開く音と、閉まる音がした。
追ってほしいと、一瞬、思った。
父のときと、同じだった。
私は腕の中の老人の呼吸を感じ、戸口のセレスティアを呼んだ。
「こっちに来て。まだ、息がある」
*
廊下へ寝かせ、布を胸へ当てた。
エルザが、水と薬を持ってきた。
言われた順番だった。
私は小瓶を取って、蓋を開けられなかった。片手で掴むと、濡れた瓶が逃げる。
妹が開ける。
老人の口へ寄せようとした。
飲み込めない。
「マルティンさん。今、冷たいのが入るから」
返事の代わりに、短い息が漏れた。
セレスティアが、開いた戸から出てきた。
「相手は退きました。処置を」
血のついた私の手の脇へ、白い光が入る。
傷の縁が寄った。
血の流れる勢いが、弱くなった。
けれど、床と布へ流れ出た分は、そのままだった。私の指を汚した血を、光は身体へ戻さない。
セレスティアの頬からも、色が引いていく。
「名を呼び続けて。聞こえていれば、返事を」
私は老人の顔へ屈んだ。
老人の胸が、微かに動いた。
私は息を吸った。
戻せる。
今なら。
セレスティアの手から、光が離れない。
彼女は何度も、老人の名を呼んだ。
私が持つ布は、まだ温かかった。
「ここにいます」
私は言った。
「門の人、数えたよ。東門から出られた人、そのあとも増えた。授業料にするって、言ったでしょ」
老人の指が、私の手首へ触れた。
灰の紋ではなく、その横の、無事なところへ。
「だから、授業料は、払えるから」
声が詰まった。
もう一度、息をしたのは、私だった。
老人は、しなかった。
セレスティアは手を離さなかった。
呼吸を戻そうとする光が、短く強くなり、また弱くなる。
彼女が目を伏せるまで、私は布を押さえ続けた。
「止め方も、確かめた」
私は言った。
「水も冷えてた。熱が上がりすぎないようにした。薬も、ここにある」
エルザの膝の上に、小瓶が並んでいる。
順番も、間違っていない。
セレスティアはその瓶を見たあと、私を見た。
「作業のせいで、亡くなったのではありません」
私には、すぐ、その違いを受け止められなかった。
直せるところが、まだあるはずだった。
何もかも、元の形へ戻せとは言わない。
目を開けて、私の寸法を一か所、間違いだと言ってほしかった。
誰かが、私の名前を呼んだ。
私は返事をしなかった。
眼鏡の針金が曲がっていた。
最初の夜から、直そうと思っていた場所だ。
右の指で、少し戻す。
すぐ、元へ戻った。
力をかける方向を変え、もう一度、直した。
今度は、歪まなかった。
眼鏡をかける人は、目を開けなかった。
私は、ようやく手を下ろした。
観測室へ戻る前に、エルザが杯を持たせた。
湯だった。
飲めと言わず、私の右手へ置いた。
一口飲む。
喉へ通ると、身体が震えた。
妹が隣へ座る。
私はしばらく、杯の底を見ていた。
廊下の向こうで、トーマが両手を握っていた。
あの人が支えなければ、自分が輪の下にいた。そう言おうとした口を、セレスティアが待っている。
私は、ここで誰かを責める声を聞きたくなかった。
自分の中にも、責める先を捜すところがあったからだ。
膝の上に、朝、渡された証言の紙がある。
イルマの移送を知っていた。
それでも黙っていた。
その文字も、消えてはいなかった。
私は紙を畳み、母の申立てと別の紐で結んだ。師の数字が読める端を、内へ折り込まないようにした。
「記録、拾ってくる」
立ち上がるとき、そう言った。
床には、濡れた紙と、砕けた記録板が散っていた。
私は一枚ずつ、まだ読めるものを拾った。
マルティンさんの星図が、裏返っていた。
起こしかけて、手を止める。
輪の下へ伸びた線。
逆さにすると、私の工房の水槽と重なった。
上と下。支える側と、載る側。
父の冷却槽の断面を、私は隣へ置いた。
同じではない。
ただ、読めなかった線が、初めて、高さと深さに見えた。
水路が、何かを受けられるのかもしれない。
行き先の先は、空白だった。
今朝、老人に聞いた言葉を思い出す。
現場を見ろ。
書き足したら見てもらえるはずだった紙が、濡れた作業台の上へ一枚、残っていた。
その返事を、不親切だと思った。
今も、不親切だった。
私は空白を勝手に埋めず、濡れた測定値を写した。
手が止まるたび、続きを聞きに行きそうになった。
部屋の向こうに、台を片づけるヴィレムさんがいた。
「ここを、照らして」
彼の声で振り返る。
割れた記録板の下に、薄い面が一枚残っていた。
観測光が消えかけ、その上へ細い輪郭を映している。
三人目の顔だった。
私は黒鉛を取った。
消える前に、写す。
額。目。顎の形。
黒い髪に、一房だけ違う色がある。
私はそこで、手を止めた。
像の下の文字は、読めた。
カスパル。
千年前、都の封印を作った、三人目の星読み。
その顔は、父を殺し、今、師まで殺した男と、同じだった。




