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第11話 王を封じた男が、王を起こす理由

 父を殺した男が、聖人の席へ手を置いた。


 黄金の錠が開く。


 千年前に据えられた石は、その人間を拒まなかった。


「カスパル」


 光の中に現れた名を、私は読んだ。


 男は頷く。


「長く使わなかった名だ」


 観測板で見た顔と、同じだった。


 黒髪に白い一房。額の端の古い傷。三人目の石像に足りなかったものが、目の前で息をしている。


 私は守護剣の柄を握らなかった。


 右の指で、黒鉛を取った。


     *


 マルティンさんの身体は、上の安置室へ運んだ。


 トーマが付き添い、エルザもそこへ残った。最後に別れるとき、妹は、戻ってから話すことを、私に約束させた。


 安置室の戸には、小さな欠けがあった。


 台車を入れるときに車輪が当たり、下の角が白くなっている。私は屈みかけて、やめた。


 直す場所を見つければ、そこへ座っていられる。


 今日、するべき仕事を一つ、先送りできる。


 それがわかったので、立ったまま工具袋の紐を締めた。


 エルザは戸の隣に座った。私の顔を見てから、妹は自分の紙へ、聞きたいことを二つ書いた。


 どうすれば、私の声になるか。


 王は、私をどうしたいのか。


 私はそれを、作業図の一番上へ挟んだ。


 昼の鐘が鳴る前だった。


 地下へ記録を納めようとした私たちの前に、オズリックが現れた。


 セレスティアが盾を張り、彼は三つの席の向こうで止まった。


「その記録を閉じるなら、閉じる先を知っておくべきだ」


 男は黄金の箱を示した。


 私は、言われた意味がわからないまま、保存する紙を胸へ寄せた。


「また、壊すの?」

「君が私の話を聞くなら、今は触れない」

「その言い方で、師匠にも話した?」


 男は答えなかった。


 私たちは、先に場所を決めた。


 こちらは階段に近い側。原本の包みは盾の内側。相手が石座から動けば、話を終える。


 セレスティアは、その条件を一つずつ復唱した。


 閉じた箱を開くために、彼の手が要る。


 その事実が、吐き気のするほど嫌だった。


 セレスティアが、拘束のための光を指へ集めた。


 オズリックの踵が、石座の縁へ触れる。


 小さな金具が、その下にあった。


 私は思わず、足元を見た。


 東の分水所で外された楔と、似た置き方だった。相手へ近づこうとすれば、同時に支えへ触れる位置。


「三王聖櫃の座を動かさないでください」


 セレスティアの声が、硬くなる。


「ならば、光を下ろしてほしい」


 男は静かに答えた。


 私は布を石段へ敷き、図をそこへ置いた。


「動くのは、話が終わってから。そっちも、足を離して」


 男が靴を引く。


 金具は、まだ、石の下に残った。


 彼を捕らえたいことと、いま聖櫃を壊させないことを、同時にはできなかった。


 今、開いた黄金の内側には、薄い板が並んでいた。


 三つの名と、それぞれへ続く線。


 メルヒオール。バルタザール。そして、カスパル。


 私は、父の印を初めて見つけたときのことを思い出した。


 誰の仕事かを示す物は、その人がよい人かどうかまでは、教えてくれない。


「テンプルの家は、この封印を作った一族なの」


 私が聞くと、オズリックは首を振った。


「私たちより、ずっと後に来た保守人だ。騎士団が失われたあとも、赤い十字の家と自由石工の工房が、補修と記録を引き受けた」

「誰の身体で保ってるかまで、記録した?」


 男は、閉じた面を一枚、示した。


 私は、その面も開いて写すよう求めた。祖先の名で預かった秘密なら、祖先の誇りのためだけに閉じることはできなかった。


 セレスティアが板を確かめる。


「あなた自身の登録ですか」

「そうだ。借りた名でも、血縁の認証でもない」


 オズリックは、生きた掌を黄金から離した。


 手のひらが、僅かに震えていた。


 私は今朝、同じように震える手を見た。観測を止める合図を教え、終わったら薬を飲むつもりだった人の手だ。


 私は、震え、とだけ書き加えた。今朝の老人の名まで、その隣へ並べたくはなかった。


 名の光は、消えなかった。


 私はヴィレムさんへ紙を渡した。


「話したことを、書いてください。抜かさずに」


 彼は頷いた。


 羽根ペンの先が、紙へ触れた。


     *


「なぜ、死なないの」


 最初に聞いたのは、それだった。


 今朝、床に広がった血が、まだ目の裏に残っている。


 この男の血は、皮膚の下へ戻った。


「王を支える術が、私の身体を同じ位置へ返す。傷つく前の、決められた形へ」


 男は手首を見せた。


 二重の締め跡。


 メルヴィナが、自分の襟へ指を添えた。


「戻ってるのは、時間じゃないんだね」

「痛みを覚えた時間は、戻らない」


 オズリックは、古い傷の端を指で押した。


「王との接続を保つこと。必要なときに、封を開くこと。終わりを定めず、そういう役目を負わされた」

「自分で作った仕組みで?」

「最初の形には、私も手を入れた」


 その指が、石座の上で止まった。


「戦が終われば、人を放せると思っていた」


 私は記録板を見た。


 あの人も、そう言うのだ。


 危ない物を、今だけ使う。用が済んだら、元に戻す。


 工房でも、水路でも、聞いたことのある言葉だった。


「終わらなかった」


 私が言うと、男は頷いた。


「終えようとした者にも、次の仕事が命じられた。私も、終えるための鍵として残された」

「千年」

「千年、待てと言われた」


 声が、初めて少し低くなった。


 私が眠っているあいだに、妹が手袋を縫い終えた一晩。その何千倍もの夜を、この男は、同じ身体のまま越えてきたのだ。


「衣服は、戻らないの」


 私は、焦げ跡の残る袖を指した。


「身体に決められた形だけだ。服も、住む家も、周囲の人間も、同じには戻らない」


 男は袖口を少し引いた。


「一緒にいた者がいなくなっても、私の傷は消える」


 私は視線を落とした。


 長く生きた相手の話には、知らない名前がいくつもあるのだろう。その名前を聞けば、きっと、誰かを失ったときの顔まで想像してしまう。


 いま、慰める言葉を捜すことだけは、したくなかった。


 私は、父と師の名を指で押さえた。


 奥歯を噛んだ。痛まないふりはできない。その顔を、男に見られたくなかった。


「父は、その千年を作ってない」


 オズリックの口が、閉じた。


 水滴が落ちた。


 石の席の下で、音が一度、跳ねた。


「それでも、父を殺した」


 私は続けた。


「今日、マルティンさんも」


 ヴィレムさんのペンが止まる。


「そこも、書いて」


 私が言うと、彼はもう一度、紙へ向いた。


 男が、手首を下ろした。


「ハンスは、王を先に解こうとした。そのあとで、私の接続を外すと」

「できると言ってたの?」

「最後まで見通せてはいなかった」


 私は、師の図の空白を思い出す。


「だから、待てなかった?」

「君の父の順番では、私はまた、後になる」


 父の声で言われた気がした。


 帰ったら片づける。


 その約束を待つ人間の怖さを、私は知っている。


 だからこそ、この男がしたことを、別の言葉には変えられなかった。


「三か月前。西塔の水路で、父が図を持ち出そうとしたとき」


 私は一語ずつ確かめた。


「あんたが殺した。今日の観測室で、マルティンさんへ金具を投げたのも、あんただ」

「そうだ」


 紙へ字が増えた。


 事故という字は、もうなかった。


 私は書かれた紙を、自分で読んだ。


 父の名の横に、死亡の場所がある。師の名の横には、今日の日付がある。


 並べれば同じ欄へ入る二人でも、私の中では、別々の食卓と、別々の声だった。


 オズリックに、そのことまで話すつもりはなかった。


 紙の縁を揃え、折らずに置く。上へ重ねた妹の二つの問いには、まだ、答えがなかった。


 私は息を整え、次の頁を出した。


     *


 男は黄金の箱へ、掌を戻した。


「完成式で、新水路と中央の鐘がつながる。そのとき王を全面的に目覚めさせれば、私を残す仕組みも壊れる」


 地下へ、低い音が走った。


 私は足元の石を見た。


 細い線が、中央の箱から四方へ伸びている。


「壊れるのは、あんたのものだけ?」

「都市の封も、保たれない」

「その上には、家がある」


 私の工房。ヨストの荷車。配給の列。トーマが明日返すはずの、書庫の板。


 男は、どこも見なかった。


 黄金の板の端に、新しい罫書きが見えた。


 古い線と違い、削ったところへまだ煤が入っていない。


「完成式のつなぎ方も、あんたが変えた?」

「計画へは、別の名で入った」

「工事がなければ、できなかったんだね」

「鐘と水路がそろう時が要った」


 私はその線も写した。


 いつでも都を壊せる神のように見えていた相手にも、必要な物と、待っていた時がある。


 工事の工程なら、私たちも変えられるかもしれない。


「私は、その方法を知っている。ほかの方法は、成功したことがない」

「試す人を、殺したからでしょ」


 声が割れた。


 私は机を叩いた。黒鉛が跳んだ。木の板が、中心で躍った。


「マルティンさんは昨日まで、私の紐の結び方を直そうとしてた! エルザに歌を聞いて、笑ってた! それを、測定の邪魔だからって、金具を投げて――」


 言っている本人が、何を言っているのか、わからなくなった。


 父の名前を、私は叫んでいた。


 工房でも現場でも、怒鳴ったことはない。石の前では、声は役に立たないと、身体で覚えて育った。それなのに、喉が勝手に開いて、名前が出てくる。止まらなかった。


 爪が、机の縁へ食い込んだ。指を開いても、言いたいことがもう順番に並ばない。ただ、熱いものが顔を伝って、作業図の上へ落ちた。


 図の上の、まだ乾いていない字が、滲んだ。


 ヴィレムさんのペンが、止まっていた。


 セレスティアの手が少し動き、私ではなく、盾の縁へ置かれた。


 押さえられなかった。


 私はそのまま、男へ言えた。


「あんたを、死ねない身体から戻す方法は探す。でも、街を壊していいとは言ってない」

「私を解くと、約束できるのか」

「まだ、できない」


 指先が冷えた。


 できると言えば、図をもっと見せてもらえるかもしれない。


 妹に近づく鍵も、手に入るかもしれない。


 できると言って、その先を誰かへ押しつけることを、私は今、記録している。


「読めるところから、確かめる。わからないところは、わからないと書く」


 男が、私の手を見た。


 守護剣ではなく、黒鉛を持つ手を。


「東門の輪を外したのは、そのやり方か」


 私は頷かなかった。


「知りたいなら、図を壊さないで」


 オズリックの指が、黄金の板の縁から離れた。


「観測室では壊したのに、ここは見せるんだね」

「私を抜きにして、王を先に解かれては困る」

「自分が決める範囲なら、見せる?」

「君が別の解き方を見せるまでは」


 男の掌は、箱の奥を覆ったままだった。私は、見せられた面だけを写した。


 初めて、その人へ差し出せる、ただの恨み以外の条件ができた。


 メルヴィナが一歩進み、石座へ届く手前で止まった。


「戻る線だけ、見せて。触らない。首輪と同じか、読みたい」


 男は袖を上げた。


 黒い糸が、彼の手首の少し上へ伸びる。


 メルヴィナの唇が、硬く結ばれた。


「同じ読み方はできる。でも、私の首輪を外しても、あなたのこれは外れない」

「承知している」

「つながってる根は似てる。留まってる場所は、別だ」


 私は紙へ、二つの輪を分けて描いた。


 王の中心へ続く線と、手首の内側へ戻る短い線。


 その先は、メルヴィナにも読み切れなかった。


 オズリックは袖を戻した。


「止まれば、私は普通に傷つく。普通に老いる。死ぬこともできる身体になる」


 私はその手首を見た。


 父が戻れなかった場所から、この人だけは、戻れるかもしれない。


 それは嫌だった。


 嫌だと思うことまで、隠さなかった。


「戻ったあと、父と師匠のことを話してもらう。終わったことにはしない」


 男は返事をしなかった。


 黄金の板を指で滑らせ、接合の記録がある面を、こちらへ向けた。


 私はそれを写した。


 図の内側には、削り残された文字があった。


 終身。


 誰かが終わりを消した仕事を、私たちは見ていた。


 記録を包み直すとき、紐が一度、指から逃げた。


 メルヴィナが端を押さえた。


 私は礼を言って、結び直す。


 彼女の手も、少し震えていた。


「同じように、待てって言われてきたの?」


 小声で聞くと、メルヴィナは紐を見たまま答えた。


「働いていれば、いつか、とは」


 私はもう一度、結び目を確かめた。


 いつか、という字を、図面へ書きたくなかった。


 オズリックが黄金の箱を閉じた。


 上へ戻る道は、空いている。


 そのまま姿を消される前に、ヴィレムさんが立ち上がった。


 私は顔を向けた。


 彼は何かを言いかけ、口を閉じた。


 さっき、書かずに止まったときと同じ顔だった。


「待ってくれ」


 オズリックが振り返る。


「王の記録について、まだ聞いていないことがある」


 ヴィレムさんは右目を覆っていた布を外した。


 初めて会う相手へ向ける顔ではなかった。


 次の一言は、私へではなく、父の仇へ向けられた。


「師匠」


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