第12話 妹は、守られる役を断った
私の作戦図に、赤い字が足されていた。
エルザ、避難。
その下に、小さく、私がすることがない、とある。
妹は自分の寝台を机代わりにして、別の紙を広げていた。
「それ、何」
「私が帰ってくるための図」
夕方の工房で、エルザは顔を上げた。
赤い糸が膝から垂れている。手袋を縫ったときと同じ針が、紙の端へ刺してあった。
「私の話を聞いてから、書いてほしかった」
私は、持ち帰った記録を台へ置いた。
朝から一度も、帰りたいと言っていない妹を、先に帰すことばかり考えていた。
*
ヴィレムさんは、卓の端で自分の本を解いていた。
聖都の年代記。
父の葬式で聞いた詩と、同じ筆跡だった。
「十二年前、彼に星目の読み方と、王の歴史を教わった」
昼、オズリックを師匠と呼んだ理由を、彼はそう話した。
「一緒に分水所へ行ったとき、知っていたの」
「知っていた。名前も、顔も」
いつもの、冗談で場を和らげる顔が消える。
「その前、君から検分人の話を聞いたときに疑った。会って、確信した。あの場で、先に言うべきだった」
私はリュートを見た。
あれを鳴らしながら、父の生涯を歌った人だった。
「父のことも、あの人から聞いて書いた?」
「事故の記録と、工房の人の話で書いた。けれど、その事故の記録に、彼の名があると気づいたあとも、僕は黙っていた」
紙を押さえる指が、強くなる。
「王を、都を滅ぼそうとした怪物だと書いた部分は、ほとんど彼の口述だ。原本で確かめたのではない」
彼は頁の端へ、口述、と書いた。
別の行へ、未確認。
「これから直す。君たちにだけ謝って、済んだことにはしない」
「今、全部を書き換えないで」
私が言うと、彼はペンを止めた。
「何を、誰から聞いて、どこを間違えたかも残して。新しい話だけになったら、また、読んだ人にはわからない」
ヴィレムさんが、ゆっくり頷いた。
私は、彼のペンを取り上げなかった。
信じたいから任せるのは、もうできない。
「なんで、黙ったの」
私が聞くと、ヴィレムさんは本を閉じかけ、開いたまま戻した。
「この本で、僕は名を売った。彼が口にした王の話を、自分が確かめた歴史のように書いた。君に知られれば、今度は僕のことを調べられると思った」
私は、一度、目を閉じた。
自分の名で、仕事を認められたい。
その気持ちなら、私にもある。
だからといって、同じだとは思わなかった。
「あなたが持ってきた記録で、父のことがわかった。それは、消えない」
私は本を押さえた。
「黙ってたことも、消えない。直すなら、両方、残して」
彼は頷き、自分の名を訂正の冒頭へ書いた。
掲示する分と、保管する分。誰が言い、どの紙を確かめたか。エルザは、曖昧なところへ小さく印を入れた。
書いたものを、ほかの記録と確かめる。そのための仕事なら、今も必要だった。
エルザが、母の申立ての写しを卓へ出した。
「これも、誰が書いたかまで、一緒に残して」
ヴィレムさんは妹を見て、今度は、謝る前に紙を受け取った。
「私に返す写しも、一枚残して」
エルザは、紙を置く場所を自分で決めた。
年代記の下へは入れない。母の字を写した紙と、ヴィレムさんがこれから書く文章は、別の包みにする。
私は、妹が代筆を始めた頃のことを思い出した。
同じ行を二度写して、受け取る代金より、買い直す紙のほうが高くなった。父が残した小さな机で、エルザはその晩、自分の失敗したところへ糸を渡し、次の紙には同じ場所で印を動かした。
私には、そんな面倒なやり方をしなくてもと思えた。
でも、それから頼まれた仕事が、少しずつ増えた。
私は、紙へ渡された赤い糸を見た。
この作戦図を書いたのも、仕事の紙へ印を動かしてきた、同じ手だった。
妹の作戦図へ手を伸ばし、余白で止めた。赤い糸の意味は、まだ、本人から聞いていなかった。
*
妹の案は、王の声を、短く通すことだった。
命令の言葉と、それ以外の声を分けて書く。どの言葉のときに金具が熱くなるか、同じ場所で測る。
「三呼吸だけ。私の手が上がったら、そこで止めて」
「だめ」
自分でも驚くほど、早く答えていた。
エルザの指が、紙の上で止まった。
「昨日までだって、声は出てた」
「勝手に出るのと、自分から通すのは違う」
「勝手に出るまま待つの?」
私は返事ができなかった。
頭に浮かぶのは、布へ染みていく血だった。
止める方法を用意しても、帰ってこなかった人がいる。
「危ないから」
それだけを、言った。
「知ってる」
妹の声が、硬くなった。
「私、ずっと、その危ないところにいるよ」
セレスティアが壁際で手を止めた。メルヴィナは縫い針の転がらない場所へ杯を移し、それ以上、口を挟まなかった。
「声が出るたびに、みんなが私を見る。どこが苦しいかも、何を言われたかも、私にはわかる。でも、次にどうするかだけ、姉さんが決めてる」
「測るのは、任せた」
言ってから、しまったと思った。
エルザは少し、目を細くした。
「頼まれた仕事をしたいだけじゃない。私がどう助かるかも、考えたい」
妹は母の写しを指した。
「娘を役目にしないでって書いてあった。だから、何もしない子になるんじゃない。私が決める前に、役目を決めないでほしいの」
私は椅子へ座った。
立ったまま話していると、妹を見下ろしていた。
「今朝、怖かった」
口にすると、エルザの顔が揺れた。
「私が冷やして、出口も作った。守れると思った。それでも、師匠は死んだ」
言葉が続かなくなる。
妹へ、その怖さまで背負わせたいわけではなかった。
けれど、私はすでに、それを理由に妹の紙を止めていた。
「私が代わりになれればって、考えた」
図の裏を出した。
私の名が、中心へ書いてある。
その脇に、テンプルの保守家の印まで描いていた。
「小さい頃、工房の保守札を持って、同じ声を聞いたことがある」
私は、妹へ話した。
父の仕事を増やすのが嫌で、黙っていた。今日は疲れていたのだと思い、次の朝には、普通に仕事を手伝った。
「今の線が、古い接続を覚えてたのかもしれない。だからって、私を先に差し出せば済むとも、言えないけど」
エルザは、私が黙っていた年の数ではなく、今話したことを紙へ書いた。
「それも、一緒に調べよう。黙って、別の図にしないで」
私は頷いた。黙っていたことは、これから確かめる。父を殺した男が何をしたかは、今日、別の紙へ書き残した。
守る家の生まれなら、最後に自分を置くべきなのではないか。声にしなかった考えが、図の上では、もっともらしい形を取っている。
エルザが、赤い十字と私の名を見比べた。
「私の姓は、ロートハールだよ」
静かな声だった。
「騎士の家の人じゃない。でも、姉さんが帰らなかったら嫌だって、言う権利はあるでしょ」
中心から指を離す。エルザは、まだ私の返事を待っていた。
私がもし黙っていたら、いつ、見せるつもりだったのか。聞かれなくても、答えはわかっていた。
いよいよほかに道がなくなったとき。
そう言えば、妹は止められなくなる。
私は、それを最後の手段だと呼ぼうとしていた。
「私、家で待つのが嫌なんじゃない」
エルザが、紙から顔を上げた。
「帰ってきた姉さんが、もう決めてるのが嫌なの。知らなかったら、いいよって言うしかなくなる」
私は図の中心を、掌で隠しかけた。
妹はその手を見た。
私も見た。
紙から手を退けた。私の名前が、妹にも見えた。
エルザは、その字を見た。
「姉さんを代わりにしたら、今度は私が助けに行くよ」
叱る声ではなかった。
「終わらないでしょ」
私は図を見下ろした。
妹を家へ返したあと、何をするのか。その先が、自分の図にはなかった。
「どうしたら、あんたも、止めたいときに止められる?」
聞くと、エルザは紙を引き寄せた。
赤い糸で、三つの印を縫い始める。
途中で数え直せるように。
私だけが作業の終わりを決めないように。
妹は針を抜き、紙を私へ渡した。
赤い糸は、三つ目の印から外へ伸び、端で結ばれていた。声が出なくても、この端を引けば、印の位置が動く。
紙の上だけの約束ではなかった。
私は糸を引いてみた。
「ここまでなら、途中でもわかる」
「私の指が上がらなかったら、それも見る」
エルザが言う。
「一人が見えないとき、ほかの人が見えるようにして。姉さんも、師匠にそう教わったんでしょ」
私は、妹が書いた図へ、観測する場所を足した。
私の座る場所だけを中心にしない。
手元と、喉と、紙の端。それぞれを見られる位置へ、椅子を動かした。
*
金具を置く石板と、鉄皿を二重にした。
紙の三つの印を越える前に、声の通路を閉じる。触れる物は、乳香の煙と、測定用の細い鉄片だけ。元の金具も、首輪も、外さない。
メルヴィナが、接合を闇で読む。
セレスティアは隣で、エルザの呼吸と指を見る。
私は、声が通ったときに動く石板の目盛りを見る役になった。
何かあれば、全部、自分が止めるつもりだった。
そう言う前に、妹が首を振った。
「姉さんの手が動かなかったときの人も、要る」
セレスティアが頷いた。
「私が皿を離します。その場合は、再開しません」
エルザは紙へ、再開しない、と書き足した。
湯を一口飲む。
自分の名前を言う。
私の名と、今日、食べた物を言う。
どれも言えたのを、ヴィレムさんが記録した。
エルザはペンの先を見てから、今日の夕飯も、付け足した。
「試すのが終わったら、豆の汁。今日は私が、玉ねぎをよく煮る」
私は鍋のほうを見た。
昨日までなら、そんな話はあとでと言ったかもしれない。
でも、その先があると決めているのは、大切だった。
「パン、硬いけど」
「汁へ入れる。あなたの分も、勝手に減らさないでね」
私は頷いた。
戻ったあとにする仕事が、妹にも、私にも、一つずつできた。
「始めていい」
エルザが言った。
一つ目の印。
金具が、細く鳴った。
『剣よ、門を開け』
妹の青い目が、私を見る。
王の声は、私へ命じていた。
二つ目。
私は測定用の鉄片を、紙に描いた位置までずらした。
声を送る線の一方が、短く途切れる。
石板が、横へ動いた。
エルザの喉が震える。
『……やめてくれ』
今度は、小さな声だった。
命令を言うときとは、違う息の使い方だった。
私は顔を上げた。
左手首に、冷たい輪が触れた。
何も、つけていない。
「止めて」
メルヴィナが言った。
エルザも、手を上げた。
私は鉄片を元へ戻した。
同時に、セレスティアが皿を離す。
腕を締めかけたものが、ほどけた。
誰も次を始めなかった。
エルザは自分で杯を取り、水を飲んだ。
「今、姉さんのほうへ行った」
私は手首を見た。
灰色の線に沿って、薄い輪の痕が残っていた。
「金具を開くと、別の受け手を捜す」
メルヴィナが、読めた範囲を紙へ描いた。
「消えたんじゃない。あっちが空いたから、こっちへ回ろうとした」
セレスティアが持つ監督書の下の欄が、微かに光っている。
補充。
小さな区画の一つへ、私の腕の線と同じ形が浮いていた。
セレスティアが、その位置を写す。
「今は、選定の反応だけです。登録が完了したのではない。けれど、受け手を補う欄として動いた」
彼女は自分が署名した監督書を見た。
私が夜明けに写したとき、何の欄かわからなかった場所だった。
「壊れた人を、直すための欄じゃないんだ」
エルザが呟いた。
「空いた場所を、埋めるため」
私は、紙に縫われた赤い糸を見た。
わからないまま一人で進めていたら、この反応まで、妹から隠そうとしたかもしれない。
言えるところで止められたことが、今、初めて、恐ろしさと一緒に残った。
エルザは、それを長く見た。
「私が、いなくなっても?」
メルヴィナはすぐには頷かなかった。
金具と、二つの手首と、図を順に確かめた。
「同じ空き方をすれば、次を捜す。少なくとも、あなたの場所を壊すだけじゃ、終わらない」
私は図の中心から、自分の名を消した。
エルザは、その上へ赤い糸を一本、渡した。
「二人とも、ここから帰ってくる図にして」
「うん。二人とも残る図にする」
中心を空けた紙へ、二人の帰り道を引いた。途中から先は、まだ、点線にしかできなかった。
補充の欄の光が消えるまで、私は手首から目を離せなかった。
妹の器を失ったとき、都市が次に使おうとしていたのは、私の身体だった。




