第13話 救う王は、無実ではなかった
『余を、善い王として覚えるな』
朝、初めて、自分から語りかけた王は、そう言った。
妹は自分の喉へ指を添え、声が終わるのを待ってから、水を飲んだ。
「言われなくても、まだ、好きにはなれない」
私が答えると、金具は小さく鳴った。
五日目の朝。
工房の窓辺には、夜のうちに乾かした図面が並んでいた。
その少し前、台所へ下りたとき、エルザは二人分の皿を出していた。
豆の汁は、約束したとおり、玉ねぎが柔らかくなるまで煮てあった。妹の皿にも、同じだけ入っている。
私は何も言わず、パンを二つに割った。
昨日の夕飯は、二人とも、鍋の前まで来たところで眠ってしまった。食べ損ねた物を温め直しているだけなのに、ひどく久しぶりに、朝を迎えた気がした。
「今日、何をするか、先に話そう」
私が言うと、妹は匙を持ったまま頷いた。
まず食べる。それから、何を試すか決める。
エルザは紙の赤い糸を一度引いて、昨夜と同じように動くことを確かめた。
それから、光を使えば、混ざった声を弱められるか、知りたいと言った。
「王が何か言うたびに、私が息を止める。そこを、減らせるなら」
私は妹の声を聞いた。
王が言ったことより先に、その困り方を書き留めた。
私の手首に、昨夜の輪の痕が残っている。
消せば済むものなら、どれほど楽だろう。
それを確かめるための光を、セレスティアは、まだ灯していなかった。
*
「混ざっている王の記憶が弱まれば、声を通す負担が減るかもしれません」
セレスティアは、使う前に、光の働きを説明した。
「ただし、つながりそのものを外す処置ではありません。どこまで分けられるかは、まだわからない」
エルザが、昨日の紙へ新しい印をつけた。
名前。家。歌。
「どれかがわからなくなったら、止めて」
妹は私の手袋を借り、内側の白い字を指した。
「グレーテ。私が縫った。外へ持っていくと、石粉で誰のかわからなくなるから」
私は頷いた。
エルザは、父が歌っていた短い歌を口ずさんだ。
戸口へ靴を揃え、帰ってくる子を待つ歌。
二人で知っている最初の一節まで、歌えた。
その先は、もともと思い出せていない。
「父さんは、どこで聞いたんだろうね」
エルザが言った。
「母さんが、歌ってたっていうだけで、いつなのか、聞かなかった」
私は子供の頃、父の節回しが変だと笑ったことを思い出した。荷車を押しながら歌うので、坂へ来ると、同じ音だけが伸びた。
妹は、それを正しい節だと覚えていた。
「坂の音まで、ついてる」
私が言うと、エルザは少し笑った。
ヴィレムさんが筆を止める。
「そこは書かなくていい」
私たちの声が重なった。
彼は頷き、書きかけた紙ではなく、手元の別の布でペンを拭いた。
ヴィレムさんが、知っているところと、知らないところを別に書いた。
昨日から、彼は、自分の判断を記録へ混ぜないよう、一つずつ声に出して確かめていた。
「今日は、一度だけにする」
エルザが言った。
私はその横へ、同じ言葉を書いた。
もう一回、という言葉を、簡単に使わないために。
香炉の前に、メルヴィナの黒い糸が張られた。
エルザは手袋を膝へ載せ、私へ、小さな指貫を渡した。
「預かってて。なくすと困るから」
金属の丸みが、右の掌に当たった。
私が渡してもらう物は、図面でも、器の金具でもなかった。終わったら返す、妹の道具だった。
私は台の端を拭いて、そこへ置いた。
処置が始まる前から、返す場所を決めておいた。
接合の近くを読み、光を止めたあとも混ざった線を離さずに保つ。首輪の許可は、セレスティアが先に確認した。
バルタザールの小壺は、エルザの見える位置へ置いた。
苦い木の匂いがする。
妹が、最後に私を見た。
「始めていい」
セレスティアの指先に、光が灯った。
一呼吸目。
妹の肩が下がる。
いつも声を押し込むときに張る、喉の筋が緩んだ。
金具の音も、遠のいた。
これなら、と私は思った。
このまま、妹の声だけを戻せるのかもしれない。
二呼吸目。
エルザが、手袋をひっくり返した。
白い糸に触れる。
「これ……」
指が、文字の上で迷う。
「なんて、読むの」
セレスティアの光が消えた。
三つ目の印へは、まだ届いていなかった。
メルヴィナの闇が、金具と妹の喉の間で、細く張りつめる。
「触らないで。今、ほかを混ぜない」
私は伸ばした手を止めた。
エルザは手袋を見ていた。
自分が縫った名前を、知らないもののように。
王の声は、確かに弱まった。
その光が、妹のものも削っていた。
セレスティアは、止めた指をそのままにした。
「光を重ねません。メルヴィナ、今、保持している場所を教えて」
「名前のほうと、声のほう。二つが、一緒に動いた」
メルヴィナの息が短くなる。
「ここから王の分だけ引けば、どこまで持っていくか、読めない」
私は糸の向こうを見た。
強く引けば、邪魔なものだけが抜けるかもしれない。
そう思えること自体が、怖かった。
「引かないで。今、残ってるほうを、先に保って」
私の声に、メルヴィナが頷いた。
メルヴィナの唇が白い。私は、手元の杯を彼女へ寄せた。
「水、ここ。苦しかったら、合図して」
*
「私は、グレーテ」
私は椅子を寄せ、目の高さを合わせた。
「あんたは、エルザ・ロートハール。ここは、私たちの工房」
妹は私を見た。
知らない顔を見る目ではない。
それだけを頼りに、私は次の言葉を選んだ。
「名前を、急いで読まなくていい。手袋の、どこを縫ったか、覚えてる?」
エルザの指が、革の継ぎ目へ動いた。
白い糸ではなく、その横の、厚くなったところへ。
「ここ。あなたが、すぐ、破くから」
私は頷いた。
返事をすると、泣きそうだった。
だから、頷くことだけをした。
「名前」
妹が呟く。
私は待った。
「グレーテ。姉さんの」
ようやく、息を吐けた。
メルヴィナが黒い糸を少しずつ緩める。混じった線は、無理に切らず、処置の前の位置へ戻した。
全部、戻ったと思いたかった。
エルザは、紙の歌の印を見た。
口を開き、一音だけ歌った。
次が、出ない。
「今度は、最初のところがない」
私は顔を上げた。
「さっき、歌えたところ?」
「うん。歌ったのは、覚えてる。でも、どの音だったか、わからない」
セレスティアが、記録の前へ膝をついた。
「私が、分けられるかもしれないと言った。王の記憶だけを選べませんでした」
エルザは、しばらく黙っていた。
怒っていい。泣いてもいい。
そう言おうとして、私は口を閉じた。
妹が何を感じるかまで、先に教える必要はなかった。
「なくなった、って書いて」
エルザが言った。
「もとから知らなかったのと、同じにしないで」
ヴィレムさんが紙へ書く。
私は手袋を受け取り、妹の目の前で畳んだ。
直せるところなら、今すぐ直したかった。
針が通る場所は、どこにもなかった。
私は指貫を、妹の前へ戻した。
エルザは手に取り、革の紐をいつもどおりに巻いた。
その手つきは、変わらない。
私はその手を見て、歌の印へ目を戻した。一節、という妹の字が、まだ書き足されずにいた。
「歌、あとで私が歌えば、覚え直せる」
言うと、エルザは考えた。
「今日は、まだ、教えないで」
紙の印を指す。
「どこがなくなったか、自分で、わかるようにしたい。姉さんに教わった音で、すぐ埋めると、わからなくなる」
私は頷いた。
直してほしいと言われる前に、直す方法を並べていた。
妹はペンを取り、一節、と書いた。その字の脇へ、処置前には歌えた、と書き足す。
私は紙の角が濡れない場所へ、水の杯を動かした。
エルザが、私の畳んだ手袋を取り直した。
左右を並べ、縫った側と、まだ少し擦れている側を見比べる。
「こっちも、あとで直す」
そう言った。
私は、今日は休んでと言いかけた。
けれど、今すぐ針を持つとは言っていなかった。あとで、自分の知っている仕事へ戻るつもりなのだ。
「代金、帳面につけて」
私が答えると、妹は手袋を、自分の道具の横へ置いた。
*
昼前、妹は、王への問いを一つだけ残した。
何かを外すとき、次の人を差し出すことを、望んでいるのか。
私も聞きたかった。
「今日は、ここで終えてもいい」
私は言った。
エルザは、王への問いを読み直した。
「これは、聞きたい。代わりを望んでるなら、ほかの図を描いても、また戻されるから」
妹は問いの紙を持ったまま、私の答えを待っていた。私は止める合図の位置を、もう一度、本人へ確かめた。
「一問ごとに、あんたが決める。私は、次の問いを勝手に足さない」
エルザが頷いた。
もう一度、光を使うのではない。昨日と同じ、短い発声だけ。続けるかどうかは、一問ごとにエルザが決める。
私は、その条件を王にも聞かせた。
「返事が長くなるなら、途中で止める。エルザの喉を使い続けないで」
香炉の煙が、石壁へ伸びる。
メルヴィナの闇が輪郭を与え、頭のない王の影が現れた。
首のない場所の上に、灰の冠がある。
影の手が、その冠へ触れた。
『交代は、望まぬ』
声が終わる。
エルザは水を飲み、自分の名前を確かめた。
「続けていい」
私は、王の命令書の写しを広げた。
「最初に、ここへ人を入れたのは、誰」
影の冠が、少し下がる。
『粉挽きの見習い。エーミール・クラフト。十七だった』
私は名を書いた。
妹が、写した字を確かめる。
『弟の食事を運ぶ時間だから、帰ると、言った』
喉の奥で、息が詰まった。
王が、冠を持ち上げた。
顔のない場所が、空になる。
『戦の火を四門へ逃がせば、都は助かると聞いた』
そこで、エルザが手を上げた。
声を止める。
私たちは待った。
王の話の続きが、どれほど知りたくても。
少し経って、妹が頷いた。
『私は、都を助けるほうを選んだ』
私は紙の端を押さえた。
十七歳の見習いは、帰ると言った。
その返事より、上に置かれた選択だった。
「断ったあとは、どうなった」
私が聞く。
王の声は、少し遅れて返ってきた。
『兵に、門を閉じさせた』
私は、昨日の若い衛兵を思い出した。
倉庫を守るという命令に、袋の数は書かれていなかった。誰かを閉じ込める命令にも、閉じ込められる人が何を言ったかは、残されなかったのかもしれない。
紙へ、帰ると言った、と書いた。
規矩札の縁が、紙へ影を落とした。
私は、王の印と、後世に加わったテンプルの保守印を、別々に写した。その間へ、エーミール・クラフト、と入れる。
帰ると言った人の名は、どちらの印にも隠さなかった。
その上から、兵が門を閉めた、と書く。
王は、その二つを消すようには言わなかった。
「次の人も、そうして選ばれたの」
灰の手が、ゆっくり動いた。
指が一つ、折れる。
王は、次の名を一つ言った。
三人目の名で、声が止まった。
エルザが休む合図をしたのではない。
王が、思い出せなかった。
私は紙を見た。
名前のわからない人を、数字だけに戻したくなかった。
ヴィレムさんが、出身の工房と、時期を尋ねた。王が短く答えた範囲だけ、別の紙へ写す。
あとで調べることが、一つ増えた。
ここにある声を信じることも、疑うことも、記録を残す仕事の代わりにはならなかった。
誰も、すべてを一度で聞こうとはしなかった。
バルタザールが小壺の前で、目を閉じていた。
「その仕組みを、我々も作った」
短い声だった。
王を、悪い怪物だとだけ呼ぶ人もいた。
王も、自分と同じように縛られた被害者だと、思いたいところが私にもあった。
どちらも、この紙の名前の人には足りなかった。
『私を、許せるか』
王が聞いた。
私は、妹の手を見た。
消えた音のある紙を押さえている。
「今は無理だ」
言った。
「それでも、次の子を差し出すのは止める」
影は、動かなかった。
私は紙を畳まず、王へ向けた。
「この名前も、あんたを外す仕事と一緒に残す。都を守った王としてだけ、弔うことはしない」
灰の冠が、膝の高さまで下がった。
私は最後に、徴用令の署名を示した。
偽られたものなら、そう言ってほしいと、まだ思っていた。
妹が、水を一口飲んだ。
自分で、続けていいと言った。
王は、今度は言い直さなかった。
『その署名は、私のものだ』




