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第8話 麦はある。道が閉じているだけだ

 倉庫には、麦があった。


 荷車に上がって高い窓から覗くと、袋が梁の下まで積まれている。外で空の皿を持つ人々が、午前の列を崩さずに待っていた。


「鍵を」


 私が言うと、ベルンハルトは管理人へ頷いた。


 錠が外れる。


 扉が少し開いた。


 その隙間へ、黒い天秤の影が落ちた。


 片皿が下がる。


 扉が閉じた。


 中の管理人が、指を挟まれかけて手を引っ込めた。鍵は外れたままだ。それでも扉は、石壁の一部になったように動かない。


 倉庫の屋根に、黒い馬の足が見えた。


「ないんじゃない。出せないんだ」


 ベルンハルトが、誰にともなく言った。


 外で待つ人の一人が、空の皿を鳴らした。


「どっちでも、腹は同じだ」


 私は帳簿の今朝の数字へ線を引いた。


 搬出、零。


 字にすると、簡単だった。


 零の中には、窓の内側で袋を数える管理人も、外で皿を抱える親子も入らない。扉を叩く音だけが、二つの側で違う響き方をしていた。


 エルザが、列の端へ水を置いた。


 手を出した女が、先に子供へ飲ませる。


 女は残りを飲まず、子供の手の届くところへ杯を置いた。私がまだ扉を見ている間に、その水も半分に減った。


 私は図面を開いた。


     *


 メルヴィナは、河岸の上から水面を見ていた。


「リヴァイアサンなら、あの影を押し流せる」


 川に何もいないのに、彼女の外套が下から膨らんだ。


 首輪が、微かに軋む。


「何を使うの」


 私が聞くと、メルヴィナは川から街へ目を移した。


「水。市内の水路から引き上げて、川へ集める。大きな壁にするから」

「そのあと、水路は?」

「空になる」


 近くの水場で、男が病人用の水を汲んでいた。


 配給の列を見守っていたセレスティアが、こちらへ来る。


「救護所へ運ぶ水も、同じ系統です。今、失うわけにはいきません」

「だよね」


 メルヴィナは川へ向けていた手を下ろした。


 あっさりした声だった。


 私は、聞く前から彼女がその答えを知っていたのだと思った。


「この話、図の横へ残していい?」


 私が聞くと、メルヴィナは頷いた。


「呼ばなかったものの話も、いる?」

「いる。次に困ったとき、水のほうを忘れないように」


 私は、空になる、と書いた。


 街の水路の隣へ、小さな枡も描いた。水を入れておく別の場所が要る。今、場所までは決められない。わからないところは、点線で囲んだ。


 メルヴィナがその線を見て、紙の端を押さえた。


「私が使えるものは、ここまで。そこから先は、あなたの仕事か」

「一人じゃ、できないけど」


 答えると、彼女は頷いた。


「麦を作れとは言ってない。通すんだ」


 私は倉庫の壁へ戻った。


 黒い線は、正面の搬出扉と荷役口へ集まっていた。管理人が使う横戸にもある。戸ごとの登録札と同じ番号が、細い金属板へ打たれている。


 壁のすべてに、黒い線があるわけではない。


 裏へ回り、石の色が違う場所を叩いた。


 上の石は古い。下を塞いだ石だけが、新しい。


「この下、昔は水が通ってた?」


 管理人が戸口の内側から答えた。


「補修用の樋だ。使わなくなって、塞いだ」

「図は」


 古い図面は、穀物の原簿と一緒にあった。


 私は地面へ膝をつき、荷車の板に広げた。


 城壁沿いの高い取水口から、石の樋が倉庫裏へ下りている。通りを跨ぎ、河岸の作業池へ戻る。人が出入りする門ではなく、水路を直すための小舟の道だった。


 十二段の目盛りのある、古い分水槽も描かれていた。


 東門で見た刻みと、同じ並びだ。


 樋の高さを示す記号の脇にも、赤い十字があった。後世の保守人が、組合の図へ記した点検用の水路だ。


 私は古い家の札を出す代わりに、折尺を当て直した。テンプルの後継という名で昔の図を信じさせるより、今日の舟が通る幅を見せたい。


 測った数字を、壁の外から読める大きさで書いた。ほかの自由石工にも、同じ仕事を確かめてもらえるように。


「ここなら、扉を通さずに出せる」


 管理人の目が、窓の向こうから図へ落ちた。


「麦の袋を、水に落とすつもりか」

「舟へ載せる。樋の幅が足りるなら」


 私は折尺を取り、実物へ当てた。


 紙の線より、少し狭い。


 けれど、人が一人乗る補修舟なら、通る。


 メルヴィナが私の肩越しに覗いた。


「風で、舟の間隔は合わせられる」

「大きなのを呼ばなくても?」

「呼ばないほうが、細かい仕事ができる」


 彼女は少し、口元を上げた。


     *


「壁を壊せば、私の損だ」


 ベルンハルトは図を見終え、そう言った。


「だから、工事費の担保に、私の工房を書く」


 紙を差し出す前に、エルザの顔を見た。


 妹は黙って、担保の欄を読んだ。


「石材と、作業場と、道具」

「家のほうは入れてない」

「作業場がなくなったら、私の机もなくなる」


 担保の欄に、妹の机は一字も書いていなかった。私はペンを紙から離した。


「……嫌なら、違う方法を考える」


 エルザは、倉庫の前の列を見た。


 小さな子が皿を膝へ載せ、母親の膝を椅子にして眠っている。


「嫌。でも、通してほしい」


 妹は紙を戻した。


「工事の上限を書いて。終わるまで、全部あなたの言い値にはしないで」


 私は金額の横へ線を引いた。


 父がいつも使った、資材と手間を分ける書き方にする。


 工房の在庫を、頭の中で数えた。


 窓枠用の白い石。まだ買い手のつかない階段の踏石。父の代から使っている、刃を研ぐための大きな砥石。


 全部、目に浮かぶ。


 紙の上の金額にすると、それらの場所が空くところまで見えた。


「怖い?」


 エルザが小さく聞いた。


「怖い」


 すぐ答えた。


 妹は少し驚いた顔をして、紙の角を揃えた。


「じゃあ、金額も、石の数も、私が確認する。私の仕事代まで、勝手に使わないで」

「わかった」


 妹が自分の名を、立会人の欄へ書いた。


 私はその隣へ、自分の名を書いた。


 それから、ベルンハルトへ渡した。


「私の工房も書いた。あんたは、どうする」


 男の太い指が、古い指輪を回した。


「側壁の石を外す。戻す費用も私が出す。今日の緊急配給分は、私の持ち分から」

「あとで誰かの借金にしない?」

「しない。そう書け」


 エルザが羽根ペンを取った。


 男は私ではなく、そのペンの先を見ていた。


 壁を抜く場所は、水路の真上だった。


 上の梁を受ける柱を避け、昔の水口を塞ぐ石だけを外す。下を少し空けると、固まった土が崩れて、細い水の筋が現れた。


 私は小槌の柄で、左右の石の響きを確かめる。


「この一枚は残す。上が載ってる」


 ヨストと舟運の職人二人が、支え木を差し込んだ。


 守護剣を目地へ入れる。


 砥石で丸めた先は、石の面を傷つけず、詰まった鉛へ掛かった。


 木槌で打つ。


 隣の石へ、細い線が走った。


「止めて!」


 槌を置いた。


 図では、ここに割れ目はなかった。


 ベルンハルトの顔が険しくなる。工房の金額が、頭をよぎった。


 私は壁へ耳を寄せた。


 細い砂が、奥で落ちている。


 灰の紋を使えば、何か見えるかもしれない。


 けれど今、確かめるべきなのは、目の前の石だった。


「右の支えを、石半分だけ奥へ。上は触らないで」


 ヨストが木を押す。


 砂の音が止まった。


 それでも、すぐには叩かなかった。


 上の窓へ管理人を呼び、割れ目の内側を見てもらった。麦の袋が、昔の水口の上へ寄せて積まれている。


「そこの列を、梁のある側へ移して。三袋ずつ。下を押す人がいたら、止めて」


 内側から、袋を引く音がした。


 一袋。二袋。


 エルザが、動かした数も控えた。


 袋が減ったように見えた人に、盗んだと思わせないためだった。


 最後の三袋が動くと、壁の音が変わった。


 私はヨストと目を合わせた。


「今のところで、支えを固定して」

「上から載らなくなったんだな」


 男は木の端を槌で叩いた。私が朝、壊すためには使わなかった槌だ。


 厚い手が、打つ前に一度止まり、私の合図を待った。


 私は下げ振りをエルザへ渡した。


「ここを見てて。揺れが大きくなったら、声をかけて」

「王の声じゃなくても?」

「あんたの声で」


 妹が頷いた。


 もう一度、槌を持つ。


 抜いた石は砕かず、順番に並べた。戻す仕事まで、なくなったわけではない。


 昼の光が、倉庫の中へ届いた。


     *


 最初の舟には、麦を三袋だけ載せた。


 管理人が中から数え、エルザが外で同じ数字を書く。袋の口は閉じたまま、濡れた底へ触れないよう板を一枚敷いた。


 取水の弁を、私が少しずつ開ける。


 飲み水の槽へ行く流れには触れない。別れていることを舟運の職人と確かめ、補修樋の側だけへ水を入れた。


 舟が浮いた。


 メルヴィナが風を当てる。


 最初は動かず、次に、ゆっくり進んだ。


 樋の曲がり角で、船首が石に触れた。


 私の肩まで強張る。


「押さないで。水を少し戻す」


 弁を僅かに閉じると、舟の尻が回った。


 船首が離れる。


 そのまま、前へ抜けた。


 次の舟を押し出す前に、私は一隻目が作業池へ着くまで待った。


 先に進んだ人が袋を下ろし、空いた舟を引く。その場所が塞がっていないと、次の荷が出せる。


 管理人が、三、と内側から呼んだ。


 作業池の人が、三、と返す。


 エルザが、二つの数字を並べた。


「同じ」


 妹のその声で、私は弁から手を離した。


 メルヴィナは、舟を見送った指を一度握り、すぐに次の風を用意した。


「大きな魔物を呼ぶより、忙しいかも」

「代金は、舟の数で数える?」

「首が締まらない仕事なら、相談する」


 軽い口調だった。


 私は、返す言葉をすぐには見つけられなかった。


 だから、次の舟が来る前に、水の杯を彼女の横へ置いた。


 通りの上を、小さな舟が渡った。


 空の皿を持つ人々が、一斉に顔を上げた。


 黒い天秤の影が揺れる。


 正式な搬出扉は、今も閉じたままだった。


 けれど、麦の袋は外へ動いていた。


「次、三袋!」


 管理人が叫ぶ。


 ヨストたちが荷を運ぶ。舟が来るたびに数え、同じ数が作業池で下ろされる。


 ベルンハルトが、別の倉庫の鍵を管理人へ投げた。


「あちらも、この樋へ。配給の量と先を、外へ貼れ」


 列で待っていた人が、紙を貼る板を持ってきた。


 配る場所は、一つにしなかった。


 作業池の前で全員を止めれば、また人が押し合う。ヨストは小さな荷車へ袋を移し、近くの三つの炊き場へ運ぶ役を引き受けた。


「先に、寝てる人のところも回る。皿を持って並べない人がいる」


 その声を聞き、私は道の端を空けた。


 セレスティアは配給の量を決める役へ口を出さず、怪我人の名をエルザに渡した。妹は余白へ書き足し、受け取った袋数と横に並べる。


 私たちが出したのは、今ある麦だ。


 明日も舟を通せるよう、私は外した石の端を覆い、樋の曲がり角に見張りを置いてもらった。ここで終わりではない仕事が、昼のうちに増えていく。


 それが、少し嬉しかった。


 殴るために石を拾っていた手が、今は釘を支えている。


 それだけで、全部がよくなったとは思わなかった。


 ヨストは兵の来ないほうへ背を向け、兵も彼の顔を見ない。


 ただ、袋が一つ届くたび、その場にいる全員が、同じ数を数えた。


 夕方近く、湯気の立つ麦粥が回ってきた。


 最初の椀を受け取った私は、隣へ渡しかけて、止めた。


 エルザに見られていた。


「食べて。次の人の分も、ちゃんと来るから」


 匙を持つ右手が重い。


 一口飲むと、空腹だったのだとわかった。


 メルヴィナが椀を受け取り、値段を聞いた。


「今日は配給。借りにはしない」


 私が言うと、彼女は匙を見た。


「じゃあ、塩を足していい?」

「それは聞いて」


 エルザが自分の玉ねぎを私の椀へ移した。


 私は一切れだけ戻した。


 妹は嫌な顔をしたが、文句を言わずに食べた。


 ベルンハルトは、人々が食べ始めるまで席へつかなかった。


 腰を下ろすと、上着の内側から古い書類を出した。


「イルマ・ロートハールの契約だ。私が、移送へ署名した」


 エルザの匙が止まった。


「娘が生まれたあと、保護施設へ運んだ。あのときは、そこで守られるのだと思った」

「母さんは、何て言ってたの」


 男は答えず、別の紙を添えた。


「本人が同意したという書類は、ある」


 エルザが読んだ。


 器への同意。


 イルマ・ロートハール。


 その下に、死亡記録の控えもあった。


 私は二枚を並べた。


 死亡は、十六年前の葡萄月十二日。


 器になることを望むと署名したのは、葡萄月十三日。


 日付を、もう一度読んだ。


 エルザの母が自ら同意したのは、死んだ翌日だった。


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