第7話 騎士を止めても、剣は下がらない
「橋を落として、兵を殺せ」
ヨストが差し出したのは、石割りの槌だった。
昨夜、東門で私のために荷車を動かした手だ。その指の節が、赤く擦り剥けている。
「あの上の兵がいなくなれば、倉庫へ行ける。お前なら、どこを壊せばいいかわかるだろ」
南門の荷役橋へ、朝の陽が当たっていた。
三日目の朝だった。
橋の上には兵が並び、下では空の袋を持つ人々が押し合っている。
「昨日、何があったか、忘れたの?」
私は受け取らずに聞いた。
「忘れてない。あいつは、俺を斬ろうとした」
喉の脇に、浅い切り傷がある。
昨夜、メルヴィナが剣を氷で止めるのは、ほんの少し遅れた。セレスティアは傷を閉じたが、ヨストの上着についた血までは消えなかった。
衛兵は取り押さえられたあと、自分でも何をしたのかわからないと言った。
その人が今、橋の上にいる。
「俺の子は昨日から、薄い汁しか食ってない。あいつらは麦を守ってる。誰から守ってると思う?」
槌の柄が、私の胸へ押しつけられた。
私は受け取った。
ヨストの顔が、少し緩む。
「兵も、荷運び人も、出られる道を開ける」
その顔が、また硬くなった。
「お前まで、あいつらの味方か」
答えようとすると、腕の灰の紋が熱くなった。
橋の手摺に、赤い線が走っていた。
ヨストの腕にも、同じ赤が映っている。
昨日は資材を運んでくれた手が、今日は槌を押しつけてくる。傷を見るほど、突き返す言葉が出なくなった。
「子供、何歳?」
聞くと、男は眉を寄せた。
「六つ。なんで今、そんなことを」
「その子に、荷車を直す約束も、しておく」
ヨストは槌を見た。
「そんな先のことじゃ、食わせられない」
わかっていた。
明日の仕事の話で、今朝の空腹を誤魔化したくはなかった。
私は橋を見上げ、通れる場所を捜した。
*
東門の輪を外したあと、水路の響きは南へ変わった。
私たちは夜のうちに、門から南門へ続く溝を確かめた。どこかへ消えると期待した震えは、こちらの石壁で太くなっていた。
橋の上に、赤い甲冑の影がある。
白い騎士のように命じはしない。ただ立っているだけで、胸の奥から、言い返さなければという熱がせり上がる。
私も、ヨストを怒鳴りつけたかった。
昨日は笑って代金を払うと言ってくれたのに。人を殺すために私の仕事を欲しがらないでほしかった。
「グレーテ、手」
メルヴィナに言われて、槌を強く握りすぎていると気づいた。
指を一本ずつ緩める。
「赤いのを、ここで押さえる。橋の人を下ろせる?」
彼女は指先へ火のような光を集めた。
赤い線が、その指へ伸びた。
光が膨らむ。
メルヴィナが息を呑み、握り潰すように消した。
「こっちも、使い道を待ってたか」
爪の間に血が滲んだ。
「爆ぜる力は、今は渡せない」
私は手摺から目を離した。
足元に、荷車の轍がある。
古い轍は、今の行列と違う方向へ続いていた。
荷役橋の脇へ回ると、小さな門があった。幅の広い台車を通すための、背の低い門だ。橋が増設されたときに塞がれ、石の戸当たりが半分、土へ埋まっている。
閉めるための鎖は、兵の側へつながっていた。
橋の下から人が押し、上から兵が剣を向ける。互いの顔だけが見え、逃げる先がない。
この門が開けば、橋の端を回って、川沿いへ出られる。
「止めろ。そこは封鎖中だ」
若い衛兵が叫んだ。
昨日、私へ縄を掛けてくれた人だった。
「橋を落としてるんじゃない。横へ出る門を開ける」
「封鎖を解く命令は出ていない」
「下にいる人が潰れる」
「倉庫を襲わせるわけにいかない!」
上から声が重なり、下から石が飛んだ。
橋の縁で砕ける。
セレスティアが白い盾を広げ、双方の間へ割り込んだ。
「投げないで。傷ついた人から下がって」
返ってきたのは、教会は兵の味方だ、という声だった。
法衣の肩へ土が当たる。
彼女は払いもせず、押し合いで倒れた老人へ膝をついた。
私は戸当たりの石を叩いた。
上は澄んだ音。下は短い音。
石が割れたのではない。土が溜まり、扉の重さが片方へ偏っている。
「ヨスト。土を掻き出して」
「お前に頼んだのは――」
「このままだと、あんたも出られない」
男は私と門を見比べた。
舌打ちをして、袋から小さな板を出す。
私は石割りの槌を寝かせ、丸い柄を土の上へ据えた。削るためではなく、扉の足元を少し転がすために使う。
「メルヴィナさん。ここの水だけ、凍らせられる?」
「薄く? 厚く?」
「足が滑らないよう、筋を分けて。真ん中は台車の道にする」
白い霜が、二列に伸びた。
私は敷石の縁へ守護剣を差す。昨日刻んだ溝が見える位置で止め、木槌で叩いた。
戸当たりの下へ、薄い隙間ができる。
ヨストが、そこから土を掻き出した。
門の内側にいた石工が、私の腰の規矩札を見つけた。自分の札を一度上げ、扉を持つ側へ回る。
フリーメイソンの仲間だった。工房会議では父の後ろにいた私へ、今日は、重さを預ける合図を返してくれた。
私は二度、木を叩いた。止めて、足元を見る合図。
兵の側からも、荷運び人の側からも、手が一度止まる。鎖を持つ手が緩み、門の下へ影が開いた。
「まだ、重い」
「門の下に足を入れないで。柄が動くから」
メルヴィナの風が、扉の上へ当たった。
軋む音。
私の右肩へ、扉の重さが来る。
柄が一回転した。
人一人が通れる隙間が、開いた。
「こちらへ!」
セレスティアが老人を抱き起こした。
最初に下りてきたのは、橋の兵だった。投げられた石で額を割り、兜の下へ血が流れている。
ヨストが、掻き出していた手を止めた。
私は門から肩を離せない。
「通して」
男は私を見た。
「私が支えてる間に、通して」
ヨストが半歩、横へ動いた。
血を流す兵が、私たちの間を通り抜けた。
そのあとには、袋を抱いた老婆が続いた。穀物の袋ではなく、自分の服を詰めた袋だった。
橋の下で押され、何もかも奪われると思って離せなくなったらしい。横へ道ができると、泣きながら何度も、これは自分の物だと繰り返した。
誰も取り上げないと、セレスティアが答える。
私は扉を支えたまま、逃げる人の足元を見ていた。歩幅も、履いている靴も違う。一人の速さに合わせて後ろから押せば、誰かが転ぶ。
「一人、空けて。急がせないで」
ヨストが後ろへ声をかけた。
さっき私を責めた声が、人の間隔を作るために使われていた。
*
橋の赤い影は、薄くなっていた。
人が別々の方向へ動き始め、門の鎖から一つ、赤い線が剥がれた。メルヴィナはその端を闇で留め、氷で冷やしている。
胸の熱は、少し引いた。
けれど、兵の剣は下がらなかった。
ヨストも、落ちていた石を捨てない。
「もう、あれは弱くなってる」
私が言うと、衛兵は固い顔をした。
「それでも、命令だった」
「昨日、私を助けてくれたでしょ」
「今日は、倉庫を守る命令だ」
言い終わる前に、後ろから声がした。
「守る倉庫の持ち主が、ここにいる」
大柄な男だった。豪華な上着の裾に泥が跳ね、太い指に、古い荷役人の指輪をはめている。
ベルンハルト・ロートリング。
西塔と新水路へ金を出し、父の最後の仕事を発注した、商業ギルドの頭だ。
「麦は、予定の倉庫にある。略奪を認めれば、明日から荷を入れる商人がいなくなる」
ヨストが石を持つ腕を上げた。
「明日まで食わずにいろってか」
エルザが、私の横から前へ出た。
私は反射的に腕を掴みかけた。
妹はこっちを見た。
「帳簿の話なら、私が聞ける」
指を下ろした。
エルザは衛兵へ向き直った。
「何をどれだけ守ってるか、知ってる?」
「……麦の袋だ」
「何袋?」
衛兵は答えなかった。
「昨日、門の震えが変わったとき、あなたは剣を抜いた。でも今、話してるのは、あなたの声だよね」
剣先が、僅かに揺れた。
「あの力が静まっても、あなたの声は残るよ。命令の中身を、聞いてほしい」
妹の声は、まだ少し掠れていた。
よく通るわけでも、大きいわけでもなかった。
衛兵が聞くために、少し身をかがめた。
私は、ベルンハルトへ向き直った。
「今朝の搬出記録を見せて。倉庫の数と、出すはずだった数。兵に守らせてるなら、本人たちも知るべきだ」
「売り先の名も書いてある」
「値段はあとでいい。食べ物がないのか、出してないのか、先に知りたい」
男は荷役橋を見上げた。
傷ついた兵が、法衣の女に額を拭かれている。荷運び人が、門の土を掻き出している。
「西の倉庫へ移る。私の管理人に、原簿を出させる」
「写しだけじゃなく?」
「現物の袋と照合してよい」
私はヨストの手の石を見た。
「その間、投げないで」
男は黙った。
代わりに、開いた門の外へ石を置いた。
衛兵が、剣先を土へ下げた。
鞘へ戻す音は、まだしなかった。
「確認が終わるまで、住民へ刃を向けるな」
ベルンハルトが衛兵へ言った。
若い衛兵は、橋の上の上官を見た。
「倉庫の財産は、私が保証する。違反だと言うなら、私へ照会を回せ」
ようやく、剣が鞘へ入った。
ヨストはその音を聞いて、地面の石から手を離した。
私は、朝から握っていた槌を男へ返した。
「柄、汚れた。あとで拭く」
ヨストは受け取った柄の、泥のついたところを見た。
「門を開けたんだろ」
「うん」
「なら、そのままでいい」
男は顔を背けた。
殺せと言ったことを、謝りはしなかった。
私も、もういいとは言えなかった。
それでも、麦を運ぶときは、その人の力が必要だった。
*
正午前、西へ移る荷車の上で、エルザは記録を写していた。
今朝の搬出命令には、十六年前の包括運送契約の番号が使われていた。免除と優先順位の根拠だからと、管理人は古い契約原簿も持ってきた。
その表紙には、赤い十字の保守印が写されていた。テンプルの後継保守人に認められた搬送の権利が、何度も書き足されて、今の商人の命令の根拠になっている。
家の登録札と同じ印の下を、何が運ばれてきたのか。私は、妹が開く頁から目を逸らせなくなった。
「こんなに古い物で、今日の順番を決めてるのか」
私が言うと、妹は頁を繰った。
「新しい命令の紙があっても、その下は古いままなのね」
袋の数を、指で追っていく。
私は隣で、妹の外套の綻びへ針を通した。
左手で布を掴めないので、膝へ挟む。歪んだ縫い目を見て、エルザが眉を寄せた。
「そこ、あとで解くことになるよ」
「ほつれてるよりは、まし」
「針仕事の代金を払ってくれたら、もっと上手に直すのに」
言い返せず、針を安全な位置へ置いた。
妹が、帳簿の余白へ名前を入れている。
「何を書いてる?」
「受け取り手。施設とか世帯とかしかないから、聞けた分だけでも」
私はその字を見た。
世帯の数の横に、知らなかった名前が一つずつ増えていた。
「あの人にも、話を聞けたね」
私が言うと、妹は筆を止めずに答えた。
「兵の人?」
「私には、命令だって言うだけだった」
「私にだって、途中までそうだったよ」
エルザは羽根ペンを回し、減った墨をつけた。
「何袋か知らないって、自分で気づいただけだと思う」
私は膝の上の縫い目を見た。
「……全部、私が話さなくてよかった」
「だいぶ前から、そう言ってる」
少し痛い声だった。
今まで、聞けていなかった言葉なのだと、思った。
エルザの指が止まる。
古い頁に、穀物、人員、と並ぶ欄があった。
人員の下に、女の名前がある。
イルマ・ロートハール。
到着一名。
妹は、そこを一度、指で撫でた。
私も知っていた。
父が妹へ教え、工房の小さな箱に残していた、実の母親の名だった。
麦の袋と同じ欄に、エルザの母が、運ばれた数として書かれていた。




