第6話 王の剣を、門の工具にした
『剣になれ』
妹の口を使って、王が命じた。
私は布の上に、父の折れた短剣を広げた。
「工具にはする」
刃物屋に割れ端の整形を頼み、戻ってきたところだった。砥石へ水を注ぐ。美しかった刃の輪郭に、黒鉛で太い線を引いた。
その線から先は、落とす。
刃の側面には、父がよく油を拭き残した浅い傷がある。外してしまえば、そこもなくなる。
私は砥石を止めた。
エルザは何も言わなかった。代わりに、作業台から少し離れた椅子へ座り直す。
父の物なら、しまっておくべきだと思っていた。使って傷つければ、父が家にいた証まで減る気がしていた。
でも、今朝、短剣を抜いた私の手は、誰も守れなかった。
石の隙間へ入れてよい深さなら、測れる。叩いてよいところも、作れる。
私は黒鉛の線を、太くした。
「……姉さん、聞こえてた?」
エルザが自分の喉に触れた。
「聞こえた。今のは、あんたの声じゃない」
「うん。私は、石粉が目に入るからやめてって、言おうとした」
慌てて作業台をずらした。
台所の隣の、いつもの作業場だった。床の石粉も、工具の位置も、昨日までと変わらない。変わったのは、私の左手と、卓を囲む人数だった。
*
一刻前、セレスティアは東門の命令を停止した。
正確には、停止を伝えた。
『動くな。私が守る』
騎士は最後に受け取った言葉を繰り返し、膝をつく人々は立てなかった。
足元を調べたマルティンさんが、門の基礎を示した。
「命令を巡らせる輪が、外れた位置で噛んでいる。送り手が止めても、同じ音が戻る」
「そこを外せば?」
「外す前に、何が支えているかを見る」
私が作った細い抜け道を、衛兵たちが支えてくれた。膝をつく人々へ毛布を敷き、セレスティアは局所の光で、冷えた身体を保っている。
門へつながる保護命令は、重ねて使わない。
「一度、工房へ戻る。測った寸法で、外し方を試したい」
私が言うと、セレスティアは門の下を見た。
「待てる人ばかりではありません」
「現物で失敗するほうが怖い」
左手の指を開いた。握ったつもりでも、小指だけが遅れる。
「今の手で、初めての隙間へ刃を入れる。少なくとも、同じ物で一度やらせて」
彼女は少しの間、何も言わなかった。
「手順ができたら呼んでください。私はここで、残る人を支えます」
噂の白き断罪が、私の返事を待っていた。
私は頷き、走った。
今、工房の台には、測ってきた門の輪を写した小さな模型がある。
石の端材二つに溝を刻み、古い留め具を渡す。門で読んだ力の向きを、重りと革輪で写す。片側へ重りを下げると、反対側の革輪が閉じた。
マルティンさんが、細い線を紙へ引く。
「この鋲を、抜いてみろ」
私は先に模型の下へ布を敷いた。跳ねる場所からエルザの手を離させ、細い鋲を抜く。
革輪が、勢いよく締まった。
挟んであった柔らかい木が、潰れる。
メルヴィナが首へ手をやった。
「切ったのに、閉まるんだ」
「重りはなくなっていない」
私は重りを持ち上げかけた。
「その手を離したら?」
マルティンさんに聞かれ、止まる。
右手一本で持ち続けたら、別の作業はできない。
私は下へ石片を差し込み、重りの位置を変えた。革輪が緩む。
もう一度、鋲を入れる。
今度は抜いても、木は潰れなかった。
「門の下でも、先に支えを替える」
言ってから、模型と、門で測った図を並べた。木が潰れなかっただけでは、あの声まで止まるとは言えない。
理屈がわかった嬉しさより、模型でよかったという安堵のほうが大きかった。
マルティンさんが、前に書いた図を台へ置く。
私はその上へ模型を重ねた。
「この穴、深すぎる」
「門の古図から写した」
「金具の肩が当たる前に、石が欠ける。今の石は、ここに層があるから」
私は石片の向きを変えた。層を横切るように刻めば、薄くしても支えられる。
「図を信じるな。荷重を見ろ」
老人は、そう言った。
「図を書いた人も?」
「その人もだ」
私は彼の線の隣へ、自分の線を引いた。
引き終えると、老人が頷く。
「次から、違うと思ったら先に言え。習いに来た者の仕事は、黙ることではない」
私は顔を上げた。
教わりに来た覚えはある。でも、弟子になったつもりはなかった。
「代金は?」
「今日、助けられた人数をあとで聞く。それでよい」
払えない授業料になりそうで、少し怖かった。
*
刃は、細いままでは隙間で捻れる。
私は父の短剣の厚い部分だけを残し、砥石で先を丸めた。石を割るための刃ではない。留め具の肩へ掛け、鉛の詰め物を分けるための工具だ。
刀身へ、浅い溝を二本入れる。
一本は、差し込んでよい深さ。
もう一本は、止めるべき深さ。
左手で定規を押さえようとして、落とした。
エルザが拾う。
「ここ?」
「もう少し、奥」
「削ってる間は、動かさないよ」
妹の指が、線の脇で止まった。
私は右手で砥石を動かした。
父の剣の、光っていた面が少しずつ消える。柄の飾りを外し、叩ける木を当て直す。
戸口から覗いたメルヴィナが、妙な顔をした。
「それ、まだ剣って呼ぶ?」
「父さんは、守る剣だって言ってた」
「守護剣」
エルザが、作業記録の頭へ書いた。
英雄の持つ剣には見えない。短く、先が鈍く、柄には木槌の跡が残るはずだ。
私はその形を、初めて悪くないと思った。
削り落とした鋼の脇に、赤い十字の鍔が残った。
「テンプルの剣を、石工の鑿にするんだ」
メルヴィナが言った。
「祖先に怒られる?」
「怒るなら、本人に仕事のやり方を聞く。今日は、ここへ入る先が要る」
私は十字の鍔を捨てず、叩く柄の下へ据え直した。剣だったときの名も、今日、変えた寸法も、記録へ並べる。
フリーメイソンの札に打つ自分の印を、溝の脇へ小さく刻んだ。古い物を使った結果も、私の仕事になる。
昼過ぎ、ヴィレムさんが地下聖堂から二つの遺宝を運んできた。セレスティアの検分許可を受け、香炉と小壺を、割れないよう籠へ収めてある。
メルヒオールは工房の敷居へ現れ、台を見て文句を言った。
石工師の仕事場に、聖堂の遺宝が二つ並んでいる。工房を継いだときに考えた先行きとは、ずいぶん違っていた。
「寸法は合っているのか」
「古図よりは」
返すと、不服そうに黙った。
バルタザールは台所のほうを見た。
「湯が煮えている」
「飲む人が増えたから」
エルザが答える。
私は水槽で手を洗った。
濁った水が、一つの溝から二つへ分かれ、石粉を沈める槽へ落ちる。父が増やした底の段差と、マルティンさんの星図の線が、また似て見えた。
今はそれより、門の輪だ。
私は図の端へ水槽の形だけ写し、工具を包んだ。
*
日が傾いた東門で、膝をつく人の数は増えていた。
先ほど助けたレーネが、母親と一緒に水を配っていた。私を見ると、母親の後ろへ半分隠れたまま、手を振った。
私は振り返しかけて、工具を落としそうになった。
「右手は、仕事に使って」
エルザが私の肘を取った。
門の基礎へ下りる梯子には、衛兵が縄を掛けてくれた。荷運び人のヨストという男が、空の荷車を寄せ、道を塞ぐ資材を運び出す。
「終わったら、こっちの車輪も頼む」
「仕事としてなら」
「助かった礼は礼。修理代は別だろ」
男が笑った。
私は少し、息がしやすくなった。
地下には、十二段の水位の刻みがあった。
水は四段目と五段目の間。門の制御輪は、そのすぐ上へ据えられている。
模型より、大きい。
当たり前のことに、膝が震えた。
作業台では、私の膝より低い位置ですべてが見えた。ここでは金具の向こうが暗く、石の裏へ水が触れている。地上の足音だけでも、壁が微かに響いた。
私は測り直した。
穴の深さは合う。輪の幅も合う。ただ、受け石の一角が、古図より削れていた。
「このままじゃ、角へ乗りすぎる」
私は持ってきた石の鞍を引いた。
「今から直すの?」
エルザが聞く。
「少しだけ。模型と違うところは、模型よりこっちを信じる」
壁を叩き、削れた角を避ける位置を決めた。石の鞍の底へ溝を一本増やす。切り屑は水路へ落とさず、妹の持つ布で受けてもらった。
マルティンさんは口を挟まなかった。
できあがったところで、私ではなく、石へ手を当てた。
「よい。ここなら、面で受ける」
その言葉で、ようやく肩の力が少し抜けた。
メルヴィナが闇を細く伸ばした。
「奥の二本は、触らないで。手前の輪だけが、同じ言葉を返してる」
私は小槌の柄で継ぎ目を確かめた。
熱くなる順番。金具が鳴る間隔。エルザと書いた記録に、同じものがある。
地下で聞いた王の脈は、遠い魔物の心音ではなかった。
何かが、ここへ負担を返している。
「この受け石へ、重さを預ける」
下へ石の鞍を差す。模型で刻み直した角度だ。
セレスティアが降りてきた。
「私が軽くする支点は、ここですか」
「この一つだけ。輪そのものを浮かせると、奥へ引かれる」
彼女は私が示した石へ手を置いた。
「十二秒」
「その間に外す。戻った重さは、この石が受ける」
エルザが灯りを下げる。私の左手が不意に動かなくなっても、工具の溝が見える位置へ。
「私の声、混じったら、手は上げるから」
「わかった」
妹は紙の端へ、自分の言葉を書いた。
やめて。
その横には、王の言った、剣になれ、がある。
私は二つの文字を見比べ、頷いた。
「声が混じったら、作業は止める?」
妹が聞いた。
「止まれる段階なら、止める。重さが抜けたあとは、先に支えへ預ける。あんたは、どの段階でも合図して」
エルザは手を上げ、下ろした。
セレスティアがその合図を見た。
「呼吸が乱れたら、私が光で支えます。命令の線は使いません」
メルヴィナが、下から覗き込んだ。
「私の合図も、決めて。声が出ないときがあるから」
彼女は黒い糸の先を、石へ二度、当てた。
こつ、こつ。
「二度鳴ったら、手を止める」
私は確かめた。
全員が頷くまで、工具を持ち上げなかった。
セレスティアが息を整える。
「東門への本日保護命令を停止。繰り返しの接続を、これより切り離します」
地上で騎士の声が高くなる。
「始めて」
重さが、抜けた。
私は守護剣を差し込んだ。
一本目の溝が隠れる。そこで止める。
「六」
メルヴィナが数えた。
工具を押すと、奥から黒い線が絡んだ。
灰の紋へ触れたくなった。見えれば、もっと早くわかる。
左手を見た。
これ以上、鈍くなれば持ち帰れない。
「手前は合ってる?」
「合ってる。そこから上。少しだけ」
他人の目を借りる。
私は刃の角度を変えた。
「九」
柄を木槌で打った。
門の石が、一度鳴った。
輪が外れる。
「十一」
受け石へ、楔を打ち足す。
十二秒目。
重さが戻った。
私の肩へ来るはずだった衝撃を、下の石が受けた。砂粒が二つ、ぱらぱらと落ちる。
それで、終わった。
しばらく、誰も喋らなかった。
上から、女の声がした。
「立てる」
次は、男の声。
笑い声と、泣き声。
私は梯子を上がった。
通りの人々が、膝を伸ばしていた。足が痺れて倒れる人を、隣の人が支えている。
白い馬は、門の浮彫へ戻るように薄くなった。
レーネの母親がこちらを見て、頭を下げる。
私は、その膝が曲がるのを怖がらずに見ていられた。
若い衛兵が、長椅子を運んできた。
「順番に座って。急に走らないように」
言われた男が、笑いながら椅子へ崩れた。従わされているのではない。自分で、座るほうを選んだのだと、その笑い方でわかった。
膝についた血を拭く女の隣へ、セレスティアがしゃがんだ。
「傷に触れます」
女が頷く。
白い光が、小さく灯った。
メルヴィナは荷車の縁へ腰を下ろした。首元へ手をやらず、両手を膝へ置いている。私が水を持っていくと、杯を受け取り、ひと息で半分飲んだ。
「さっきの、九の次、少し早かった」
「数えるの?」
「あなたが打ったのが。十まで待たなくてよかったんだね」
私は頷いた。
「鳴る音が、変わったから」
「次は、その音も教えて」
私は工具を見た。
誰かへ自分の仕事を教える約束を、父が死んでから初めてした。
「何人、帰せそうだ」
マルティンさんが聞いた。
数えようとして、喉が詰まった。
「……あとで、数える」
「そうしろ」
メルヴィナが、私の工具を見た。
「それ、首輪にも使える?」
私は彼女の顔を見た。
「調べたい。今なら、外せるとは言わない」
メルヴィナは目を伏せ、それから頷いた。
足元の水音が変わった。
門の下で止まったはずの震えが、水路を伝い、南へ走っていく。
隣で、鞘が鳴った。
縄を掛けてくれた若い衛兵が、抜いた剣をヨストの喉へ向けていた。




