第5話 最強の白が、白い騎士を強くした
東門で、人々が笑いながら膝をついていた。
転んだ子供が泣いている。
すぐ隣に母親がいるのに、その手は伸びない。女は自分の頬を引き攣らせ、幸せそうな顔のまま、石畳に額を近づけていた。
「立たないで。お母さんが手を貸すから」
声だけは、泣いていた。
私たちは分水所から救護所へ戻る途中だった。
まだ午前の終わり。朝から流してきた水のせいで、私の靴下は濡れたままだ。
それなのに、目の前の石畳だけが、乾いた白い粉を吹いていた。
「エルザ」
救護所の戸口を捜す。
妹はマルティンさんと、外階段の踊り場にいた。こちらへ手を上げようとして、その腕が止まった。
唇が、何かを形作る。
声は聞こえなかった。
東門の下で、白い馬が首を持ち上げた。
最初は彫像だと思った。
蹄の下で石粉が舞い、薄い胴の向こうに、門の鉄格子が透けている。背に乗る騎士には目がなかった。兜の切れ目から、乳白色の光が漏れていた。
古い門の浮彫に、同じ形がある。
小さい頃、その馬に乗りたいと言って、父を困らせたことがあった。
その像が、人間の高さまで降りてきていた。
『安んじよ』
声が地面の下から響いた。
私の膝も、柔らかくなった。
もう働かなくていい。妹を守るのも、父を殺した男を追うのも、誰かが代わりに引き受ける。
そう思うと、ひどく楽だった。
私は工具袋の重さへ意識を戻した。
肩に食い込む革紐。靴の中の冷たい水。指が覚えている、槌の柄のささくれ。
救護所の階段で、妹が動かない。
楽になっている場合ではなかった。
「動くな。私が守る」
セレスティアが、私たちの前へ出た。
白い法衣が風を受ける。金の聖印から指先へ、光が走った。
「騎体の動きを止めます。その間に住民を」
私は階段へ向き直った。
雷は、私が一歩踏み出すより速かった。
白い騎士の両脚へ、細い光が突き刺さる。
通りの空気が張りつめた。
今朝はあの男さえ吹き飛んだ。
今度も、そうなるはずだった。
騎士は動かなかった。
雷が輪になって兜を巡り、頭上で、棘のある冠へ変わった。
白い光が、門から通りの奥へ伸びた。
靴の下が、どん、と鳴った。
人が一斉に倒れた。
膝をついた姿勢のまま、額から石へ落ちていく。
「止めて!」
自分の声か、誰かの声か、わからなかった。
メルヴィナが腕を振った。
石の上に氷がせり上がる。傾いた人々の胸を受け止める、低い斜面になった。髪が凍りついた女が、小さく悲鳴を上げた。
「痛いなら、まだ声がある。呼んで。そのまま」
メルヴィナの影が氷の下へ潜った。
数人の肩が、震えて動く。
その先で、母親がようやく子供へ腕を伸ばした。
指が触れる前に、また止まる。
メルヴィナの首元で金属が鳴った。
*
セレスティアは、二度目の雷を放たなかった。
上げていた手を下ろす。
手袋の中で、指が震えている。
「吸収された……」
「今朝も、雷のあとに、壁の金の輪が鳴った」
私が言うと、彼女は聖印へ触れた。
騎士の冠が、同じ間隔で瞬く。
「運動を止める命令が、こちらの経路へ入った」
言いながら、セレスティアは自分の手を見た。
「止まれと命じた分だけ、強くなったのです」
マルティンさんが、踊り場の手摺へ身体を預けていた。
「グレーテ! こちらへ、近づきすぎるな!」
老人の足元で、エルザが座り込んだ。
銀灰の髪の根元に、濃い灰色がある。
階段へ走った。
石畳が鳴るたび、脚が言うことを聞かなくなる。私だけ平気なのではない。膝を伸ばすたび、誰かの手で関節を曲げられているようだった。
「どうやって、ここまで来た?」
私が聞くと、老人は戸口を指した。
「室内の結界が先に強まった。声を調べていたエルザが、息を詰めた。外へ出すしかなかった」
救護所の窓が、白く曇っていた。
内側から、指で擦った跡が幾筋もある。
私は手摺を掴んで、妹のところへ上がった。
「声、出せる?」
エルザが首を振った。
「喉だけ? 息は?」
妹はゆっくり息を吐き、私の袖を引いた。
「背中に乗って。階段、下りるから」
屈むと、妹の腕が肩へ回った。
マルティンさんが荷車の板を持ち上げた。測定用の石板と記録を載せたまま、ここまで運んでいたらしい。
「私はこれを動かす。お前は妹を」
頷いたとき、耳のすぐ後ろで囁かれた。
『動くな。私が守る』
振り返った。
セレスティアは十歩以上、離れたところにいた。
騎士の兜の奥が、同じ言葉を繰り返す。
白い法衣の女は、唇を噛んでいた。
「その言い方を、今はやめて」
私は言った。
責めるためではなかった。
聞くたび、妹を背負う腕まで緩みそうになった。
*
正面の通りは、人の背中で塞がっていた。
荷車も、露店の台も、同じ向きに傾いている。門へ近づくほど、白い粉が厚い。
横の工事通路なら、資材置き場を抜けて裏道へ出られる。
エルザを壁際へ座らせ、石畳を小槌で叩いた。
乾いた音。
一枚隣は、妙に長く響く。
その石には、門扉を留める鉄の帯が渡されていた。地面の下で、階段の基礎へつながっている。
槌の柄を押し当てると、掌へ震えが伝わった。
騎士の声と同じ間隔だ。
私は帯と基礎石の継ぎ目を見た。
石の角に、赤い塗料の残る小さな十字があった。テンプルの保守人が付けた、荷重を移してから触れる場所の印だ。
その印は扉を開けてくれない。ただ、どこを見落とすなと、昔の職人が言いたかったかは読める。
私は組合で習った順に、先に、重さの逃げる側を探した。
薄い鉛の詰め物。石の四隅には、据え付けのための穴がある。
まだ、目地を仕上げていない。
昨日までなら、手抜きだと腹を立てた。
今は、その隙間へ指を入れた。
「外せる?」
メルヴィナが、足を引きずるように来た。
「外したら、何が起きるかはわからない」
私は首を振った。
「ただ、この石を少し浮かせれば、震えが変わるかもしれない。門の扉へ、重さを預けられる」
「試せる?」
「どこが鳴ってるか、もう少し」
右の袖を捲った。
灰色の輪が、汗の下で濃くなっていた。
金具を触ったときの、他人の息遣いを思い出す。
私は腕の線が触れるように、手首を鉄帯へ当てた。
息を吸う。
一つ。
誰かの膝の痛みが、私の膝へ入り込んだ。
石の下を振動が走る。床の継ぎ目へ細く集まり、鉄帯で折れ、手摺へ上がる。
二つ。
知らない子供の泣き声が、歯の裏で鳴った。
左手が、冷たくなる。
三つ。
私は腕を離した。
石の表面しか見えなくなった。水路の先も、門全体も、何もわからない。
ただ、目の前の継ぎ目へ向かう震えだけは、覚えていた。
左の指を握る。
曲がったのは見えた。
触れ合う感触が、なかった。
「手、どうした?」
「あとで。今は、ここ」
そう言ってから、エルザが私を見るのに気づいた。
また、怪我を隠すところだった。
「左が鈍い。細かい物が、掴めない」
妹が頷いた。
目で、工具袋を示す。
「手伝える?」
もう一度、頷いた。
袋から下げ振りと、薄い石の楔を二つ出す。工事場に巻いてあった鉄線も引き寄せた。石を荷車へ留めるための、太さの違う線だ。
「この穴を通して。二本重ねて、その先を扉の留め輪へ。引っ張りすぎないで」
エルザはゆっくり作業を始めた。
普段、縫い針を使う手が、石粉の中へ潜る。
鉄線が輪へ通った。妹は先を折り返し、抜けないように捻った。
私は敷石と基礎の間へ楔を打つ。
一度で上げない。角を割れば、帯ごとこちらへ来る。
右へ一打。左へ一打。
「反対側、上がってる?」
妹が手で、ほんの少し、と示す。
「そこで止める。扉の輪、引かれてる?」
エルザが鉄線を確かめ、頷いた。
「石を抜かないで、浮かせるだけなんだね」
メルヴィナが言った。
「抜いた先を、まだ知らないから。少しずらして、下を通れるか試す」
「私の闇は、何人もいっぺんには持たないよ」
「二人ずつなら?」
「短い間なら」
私は避難する先を見た。工事通路の奥に、土の色が見える。
「二人出したら、一度休んで。道が駄目になったら、そこで止める」
メルヴィナは、私を見返した。
「置いていく人がいても?」
私は一瞬、答えられなかった。
「……あなたが倒れたら、道を作り直すこともできない」
残った人の顔を見て、同じことを言えるだろうか。
そう思いながら、石に打ち込んだ楔を見た。私が強く握ることと、石が持つことは、何の関係もない。
「わかった。短く、二人ずつね」
メルヴィナが外套をまくった。床へ伸ばした指が、黒い糸を二筋に分ける。
すぐ上で、騎士の声がした。
『ここにいれば、恐れる必要はない』
槌が重くなる。
今、手を止めれば、何も考えなくて済む。
そのとき、エルザが私の肘を二度叩いた。
鉄線の余りを、引いてみせる。
仕事が待っていた。
私は下げ振りを見る。先端の揺れを確かめ、最後の一打を入れた。
門扉が、低く唸った。
足元の震えが、薄くなる。
幅は、肩二つぶん。
その細い筋で、メルヴィナの膝が伸びた。
「通れる」
私の声は裏返った。
「でも、いつまでかは――」
「わからない。だよね」
メルヴィナが先に言った。
笑いかけて、咳に変わる。
首輪の太い鋲が浮きかけていた。襟へ指を入れ、元へ押すと、今度は隣の小さな鋲が鳴った。
彼女の肩が、びくりと跳ねた。
私は思わず手を伸ばし、引っ込めた。
まだ、そちらを触っていい理由はない。
「ここを持たせて。先にエルザを出す」
メルヴィナは頷き、黒い糸を足元へ広げた。
*
妹を背負い、狭い筋へ入った。
門の声が遠のく。
あと五歩で、資材置き場へ抜ける。
裏道にはヴィレムさんがいた。通りの人へ、救護所を避けるよう知らせて回っていたのだ。私を見て両手を広げた。
そこへ渡せば、エルザは逃げられる。
私は三歩進んだ。
泣き声が、背中のほうでした。
最初の子供だった。
氷の端に上着が引っかかっている。起き上がろうとするたび、襟が喉へ食い込んだ。
母親の指が石畳を擦る。
ほんの少ししか動かないその爪が、割れていた。
「レーネ。大丈夫。すぐ、そっちへ」
母親は、同じ言葉を繰り返す。
私は足を止めた。
背中の妹は軽かった。
豆を買うときに私より値を覚えている。パンの最後の一切れを、明日の袋へ回す。
軽くしたのは、私かもしれなかった。
この子だけでも、もう二度と危ない目に遭わせたくない。
背中から、指が二度、鎖骨を叩いた。
エルザが子供を指していた。
「ヴィレムさん。妹をお願い」
渡すと、エルザは自分で彼の肩を掴んだ。
「すぐ戻る」
言って、振り返った。
敷石の楔が少しずつ出てきていた。
門扉へ逃がした震えが、鉄線を擦り切ろうとしている。
間に合うか。
わからない。
けれど、距離は見える。
私は通ってきた筋を戻り、子供の上着を両手で引いた。左手が布を掴めない。右だけでは、縫い目が裂ける前に首が締まる。
「上着、脱がせていい?」
子供がしゃくり上げながら頷く。
片方ずつ腕を抜き、身体を抱いた。
母親の肩へ、メルヴィナの黒い糸が届いた。
女が手をつき、身体を起こす。
「私の手に掴まって。道が細いから、一人ずつ」
女の腕が震えながら伸びた。
セレスティアが背後へ回り、白い盾で倒れかけた露店の柱を受け止める。雷は使わなかった。片膝を折って、柱の重さを地面へ逃がした。
メルヴィナが一度、咳をした。
黒い糸が細くなる。
私は子供を右腕に抱え、母親に左の肘を掴ませた。手の感触がなくても、肘にかかる重さならわかる。
楔が一本、抜けた。
もう一本を、靴の踵で打ち込んだ。
子供が顔を私の胸へ押しつけた。
「お母さんも?」
「一緒」
それ以上、喋る息はなかった。
最後の二歩を、女が自分の力で走った。
資材置き場の土へ足が触れる。
背後で鉄線が一本切れた。
セレスティアがメルヴィナの腕を取り、二人で細い道を抜けてくる。マルティンさんは荷車を押しながら、折れずに残った楔のほうを見ていた。
子供を下ろすと、母親が抱き締めた。
声を殺すこともできずに泣き始めた女へ、レーネが小さな手を回す。
私は膝に手をついた。
エルザが隣へ来た。
「今のは、私が行ってって、した」
掠れた、小さな声だった。
「わかってる」
私は答えた。
「助かった」
左手に視線を落とす。
妹がその手を両手で包んだ。
温かさは、まだ、わからなかった。
助けたのは、通りのほんの一部だった。
門の下では、今も人が膝をついている。
幅の狭い抜け道は一本の楔で持っているだけだ。白い騎士も、傷一つ負っていない。
セレスティアが、外し口を捜すように手袋を引いた。
「私の保護結界が、救護所から通りへ伸びています。止めるなら、発信している命令を確かめなければ」
聖印の金色が、消えなかった。
メルヴィナの首輪も、同じ間隔で鳴っている。
私は紙へ写した二本の線を思い出した。
わからなかった線。
今も、全部はわからない。
ただ、あの騎士は、新しく命令を作っていない。
誰かが言ったことを、人の身体へ繰り返している。
門の上で、白い冠が高くなった。
『本都保護命令を継続』
セレスティアが顔を上げた。
『現地命令権者を確認』
白い騎士は、彼女の声で、彼女の名を読み上げた。
『セレスティア・ラングホルツ』
妹を守ると言った人の命令が、街中の膝を、石へ縫い止めていた。




