第4話 父を殺した男にも、締め跡があった
父が死んだ日の記録に、昨日の男の筆跡があった。
最後の払いだけが、釣り針のように持ち上がる。
事故現場立会人、オズリック・ヴェルムント。
「この人を見た。昨日、水路で」
声に出すと、紙の上の名前が急に近くなった。
ヴィレムさんが椅子を寄せた。
「役所に登録された検分人じゃない。昨日、現場へ入るときは別の姓を使っている」
「どこにいるの」
「東の分水所へ、今朝の検分を申請してる。ただし、そこにいるかは――」
私は立ち上がった。
寝台のエルザが目を開ける。
「一人で行くの?」
「話を聞くだけ」
妹の視線が、私の腰へ下りた。
父の短剣の柄が、外套から覗いている。
隠すと、もっと嘘になる気がした。
「……何があったか、確かめてくる」
「帰って、私にも話して」
頷いた。
マルティンさんに妹を頼み、工具袋を取る。
エルザが寝台の脇を指した。
縫い終わった手袋があった。私が机で少し眠った間に、仕上げていたらしい。
「働かなくてよかったのに」
「座って待つだけは、嫌だった」
私は手袋をはめた。
裂けたところの革が厚くなって、槌を持つと少し引っかかった。いつもなら、その場で削っていた。
今日は、そのままにした。
「金具も持っていくのか」
「これを見てた。事故の傷より、これを」
老人は一度だけ目を伏せた。
聞きたいことが増えた。でも、今は一つの名前しか頭に入らなかった。
*
救護所の戸口には、セレスティアが待っていた。
「聞きました。私も行きます」
横にメルヴィナがいる。襟はきちんと閉じていたが、声は昨日より擦れていた。
「私を止めるため?」
「まず、あなたを一人で相手に会わせないためです」
止められるよりは、ましだった。
「聞きたいことを決めておいてください」
セレスティアは戸口を塞がず、私の横へ立った。
「怒りながらでは、相手の答えを拾い損ねます」
「怒るなってこと?」
「怒りを消せとは言っていません」
私は、昨夜のメルヴィナの顔を思い出した。セレスティアの言葉は、まだ信用しきれない。それでも、父の記録を見て一緒に来ようとしたことは、確かだった。
「父が何をしていたか。事故が本当か。それを聞く」
「では、その二つを」
彼女は先を歩かず、私が動くのを待った。
ヴィレムさんもついてきた。記録を取るための板と、事故証書を持っている。
東門へ向かう朝の道には、完成式の花飾りが渡してあった。昨日の事故を話す人々の上で、職人たちが次の飾りを結んでいた。
歩きながら、何度も父の最後の朝を思い出す。
食卓に削り屑が落ちていた。父は木の模型を作っていた。私がパンへ混じると怒ったら、帰ったら片づけると言った。
帰ってこなかったので、私が片づけた。
小さな木片は、炉にくべた。あの模型のどの部分だったのか、今は、思い出せない。
父の手は、いつも石灰で白かった。
帰ると最初に玄関の外で指を払う。払っても落ちない粉が、パンへついた。エルザが嫌がるので、父は食事の前に二度、手を洗うようになった。
事故のあと、渡された革袋には、同じ白い粉が入っていた。
私は袋を開けず、工房の棚へ置いた。
どれほどの石が、父の上へ落ちたのか。何秒、助けを待ったのか。考え始めると、次の仕事へ行けなかった。
今は、別のことを考えている。
もし誰かがそばにいたのなら。
父が死ぬ前に、何か言ったのなら。
それを知っている人間が、昨日、私の手を取って金具を見ていた。
石材を運ぶ車が横を抜けていく。車輪に押されて、敷石が一枚沈んだ。
私はいつもの癖で水溜まりの形を見た。石の下の土が流れている。帰りに誰かへ知らせなければ、と思った。
次に、帰り、という言葉が自分の中にあることに腹が立った。
相手に会うだけなのに、どこかで帰れなくなるつもりでいた。
分水所は、市壁へ組み込まれた低い建物だった。
水音が、石壁の向こうでする。
男は作業台に紙を広げていた。
白い一房のある黒髪。泥のつかない袖口。
私を見ると、驚きもしなかった。
「手の具合はどうかな」
「父を知ってる?」
ヴィレムさんから受け取った紙を、作業台へ置いた。
「ハンス・シュミート。三か月前、あんたが立ち会った事故で死んだ」
男は私より先に、背後のセレスティアを見た。
「オズリック・ヴェルムントとして、お話を伺います」
セレスティアが言う。
「どうぞ」
男は椅子まで勧めた。
私は座らなかった。
男は、私の銅札へ目を留めた。
「自由石工になったのか。テンプルの保守家は、今も名を継がせるんだな」
「私の仕事の話は、あと」
私は札を服の内側へ戻した。
「父がここで何をしたか、先に聞いてる」
父の名も、祖先の名も、私を立派な人間に見せるために出したのではなかった。
男の靴の脇に、細い石の欠片があった。
同じ石を、父がよく作業台へ持ち帰った。削ると層に沿って薄く剥がれ、刃を立てすぎると、狙った線の外まで割れる。
私は先に、それを見た。
場違いに、石なら知っている、と思った。
この男については、何も知らない。
昨日、どうして私の手を気にしたのかも。父の仕事をどこで知ったのかも。
男が私の腰の短剣へ目を落とす。
私は作業台の縁を掴んだ。
「父は何をしていたの」
「外すための図を持ち出そうとしていた」
「何を外すの」
男の視線が、工具袋へ落ちた。
「それと、同じ仕組みの物だ」
私は金具の包みを開いた。
石灰の粉が、布から少し落ちる。
男はそこへ手を伸ばさず、私の顔を見た。
「ハンスはよく測る職人だった。石一つのずれも嫌った。その彼が、最後だけ急いだ」
「事故だったの」
男が黙った。
「違うなら、違うって言って」
自分の声が、子供みたいに細くなった。
男は答えた。
「君の父は、終わらせる順番を間違えた」
耳の奥で、水の音が止まった。
「だから殺したのか」
「ああ。そこは訂正しない」
耳の奥で、何かが切れた。
父の最後の朝。食卓へ落ちた削り屑。炉へくべた、あの木片。帰ったら片づける、という、返ってこない約束。
それらが、一度に喉へ押し上がってきた。
「返して」
声は、私のものじゃなかった。
「返してよ。三か月前の朝を。あんたに、返せるもんなら返してみろ」
視界が白い。セレスティアが手を伸ばしたのが見えた。振り払うつもりはなかった。払っていた。
机を殴りたかった。石を割りたかった。石も槌もないこの部屋で、私は代わりに、父の剣へ手をかけていた。
私は短剣を抜いていた。
誰かが名前を呼んだ。
男の胸へ刃を突きつける。近かった。あと指二本ぶんで、衣服を突き破れる。
この先に進めば、父が戻るわけではない。
知っていた。
それでも腕は止まらなかった。
オズリックが半歩、身を引いた。私の右手首を掴み、横へ捻る。
刃の根元が、作業台の鉄の縁に噛んだ。止まりきれない私の体重が、柄へ掛かる。
乾いた音。
根元で刃が折れ、私は前へつんのめった。
赤い十字のある鍔だけが、手に残った。
赤い十字の下で、折れ口が白く光った。石を動かすときなら、あんな支点へ力を掛けたりはしなかった。
何が起きたのか理解する前に、肘を取られた。肩が石壁へぶつかり、息が抜ける。
「グレーテ、屈んで」
白い光が目の前を走った。
雷鳴は、遅れてきた。
オズリックの身体が作業台へ叩きつけられる。焦げた布の匂い。水の湿気を裂く、苦い匂い。
セレスティアは一歩も退いていなかった。
初めて、噂を信じた。
そして、男が起き上がった。
額の傷が細くなり、消える。
そう見えた。
でも、違った。
裂けたはずの場所に、昔からあったらしい小さな傷が、同じ長さで現れた。流れた血まで、輪郭を戻すように皮膚の下へ引いた。
私は息を一つ数えた。
二つ目が終わる前に、男の顔は昨日と同じになっていた。
焼けた袖だけが、そのまま残る。
「身体が、戻る」
メルヴィナの声だった。
セレスティアが次の雷を構えた。
左目の下の聖印から、手首へ金の線が走る。
同じとき、壁にはめ込まれた金色の輪が、黒く脈打った。
オズリックの靴が、床の小さな楔を蹴った。
音がした。
水の音ではない。
支えの抜ける音だった。
*
石壁の下から、水が噴いた。
分水所の戸が開き、朝の通りへ白い筋が走る。
荷車を押していた女が転んだ。車輪が排水溝に落ち、柄が足元へ倒れ込む。
オズリックは、奥の階段へ向かっていた。
追える距離だった。
手の中には、折れた短剣の柄がある。
水が私の靴を打った。
「セレスティアさん、外の人を!」
私は剣を袋へ突っ込み、床へ膝をついた。
弁の軸を受ける石が、手前へずれている。壁の割れ目は古いが、抜かれた楔の跡だけが白かった。
弁棒に力をかけると、足元で石が鳴った。
閉めるだけでは、受け石ごと抜ける。
「水を止めるまで、戸口を空けて!」
ヴィレムさんが走った。
私は作業台の脚から仮留めの木を一本抜く。刃がないので、石角で折った。
石の下面へ差す。
打つと、鈍い音がした。まだ動く。
もう一本。
水に浸かった手が滑った。
私の左の人差し指は、こういうとき役に立たない。曲がる三本と親指で木を挟む。
父なら、一度で決めた。
そう考えた途端に、槌を握る力が抜けた。
「次、どうする?」
メルヴィナが隣へしゃがんだ。
私の顔ではなく、楔の先を見ている。
「この木を押さえて。叩くところから指を離して」
「了解」
私は打った。
水音が、一段低くなる。
受け石は動かなかった。
弁棒を回す。軸が軋み、少しずつ水の筋が細くなった。
戸外では、セレスティアが荷車の片側に手をかざしていた。
車輪が、ふっと浮く。
「この支点だけ、十二秒。下へ台を入れて」
ヴィレムさんが積み石を滑り込ませる。女が脚を抜いたところで、車輪の重さが戻った。
石は割れなかった。
私は弁棒を最後まで回した。
肩で息をする。
階段の向こうには、誰もいなかった。
*
「追わなくて、よかったの」
言ったのは私だった。
相手を責めるみたいな言い方になって、拳を開いた。掌に短剣の柄の形が残っていた。
セレスティアは私の隣へ立った。
「次の一撃で止められるか、確証がありませんでした。あなたが弁へ向かわなければ、通りの被害が広がっていた」
「私が最初に、手を出したから」
「彼は最初から、支えを外せる場所へ立っていました」
私は作業台の下を見た。
外された楔が、泥水の中へ落ちている。
オズリックは私を待っていた。
私が怒ることも、セレスティアが守ることも、そこで何が外れるかも、知っていたのかもしれない。
喉の奥が熱くなった。
殺したいと思った。その気持ちは、消えていない。
助けた女が、濡れた上着を抱えて戻ってきた。
「荷は濡れたけど、指は動く。ありがとう」
私は返事をしようとした。
口を開くと泣きそうで、代わりに頷いた。
その人は生きていた。
父のところへ送らずに済んだ。
ヴィレムさんが、濡れた紙を作業台へ広げた。記録の端が水を吸っている。
「証言は残す。事故だったとは、もう書かせない」
「私も書く」
私は黒鉛を受け取った。
男の発言。傷が戻るまでの二呼吸。雷が走ったとき、壁の金の輪が脈打ったこと。
手が震えて、字は下手だった。
それでも消さなかった。
「父さんは、誰かに助けを求めたのかな」
書いている途中で、言葉が出た。
ヴィレムさんは、すぐに答えなかった。
「それは、まだ記録がない」
私は頷いた。
優しい嘘なら、言ってくれたかもしれない。でも、そうしてもらったら、私はたぶん、何もかも信じたくなった。
「わかったら、悪いことでも教えて」
「そうする」
彼は私の字を直そうとせず、濡れた証書を風の当たる場所へ移した。
作業台の脚の下に、折れた刃が落ちていた。
水を拭い、布で巻いて袋へ入れる。柄だけでなく、こちらも持ち帰る。
父の遺した物を、もう一つ、この男のいる場所へ置いて帰りたくなかった。
最後に、男の袖を描いた。
焦げた布の下を、さっきから繰り返し思い出していた。
メルヴィナが覗き込む。
「それ、どこで見た」
「雷が当たったあと。左の手首」
大きな輪の痕。その脇に、細い輪の痕。
男が私の肘を捻ったとき、同じ間隔の硬いものが触れた。
メルヴィナが自分の襟へ手をやり、途中で止めた。
私は紙の二重の線を見た。
父を殺した男の手首にも、この人の首輪と同じ締め跡があった。




