第3話 保護する人の名が、命令者だった
「お二人を保護します」
白い法衣の女がそう言ったとき、黒い外套の女だけが息を止めた。
襟を閉じようとしていた指が、首元で固まっている。
「下がって。以後は私が処置します」
白い女は廊下を進んできた。短い亜麻色の髪。左目の下に金色の聖印がある。
その印が光った。
腰には、銀の鞘に収めた細身の儀礼剣があった。抜かないまま、柄に触れた指から光が走る。
黒い女の指が、ようやく襟を閉じた。
「本部直轄エクソシスト、セレスティア・ラングホルツです。あなたがグレーテ・シュミート?」
白き断罪。
名前より先に、その呼び名を思い出した。
北の砦で死霊の群れを退けた。崩れた橋を渡る避難民を一人も落とさなかった。仕事場で聞いた噂は、どれも最後に同じ一言で締めくくられた。
あの人が来てくれたから、助かった。
「妹を診てほしい」
私が頼むと、セレスティアは膝をつき、エルザと目の高さを合わせた。
「苦しいのは喉ですか。胸ですか」
「喉。ときどき、私が話そうとするところへ、別の声が入る」
「触れて診察します。痛ければ右手を上げて」
エルザは頷いた。
白い指が喉へ添えられる。光が薄い布のように広がり、妹の呼吸が、今までで一番深くなった。
自分の肩まで下がるのがわかった。
「王の声は、消せる?」
「まず喉の腫れを抑えます。混じった声の処置は、その後です」
言いながら、セレスティアは私の包帯にも目を留めた。
「その傷も、開いている」
「私のはあと」
「こちらはあと三呼吸で終わります」
本当に、その通りだった。
エルザが水を一口飲めたのを見届け、彼女は私の掌の裂け目を塞いだ。痛みは残ったが、出血が止まった。
「水でよく洗ってください。汚れまで消えたわけではありません」
言葉も手も、確かだった。
私はずっと、自分よりわかる人に来てほしかったのだ。
廊下の向こうで、夜番の下働きが立ち止まっていた。セレスティアの白い袖を見て、痩せた頬が緩む。
「あなたが来てくださったなら」
彼女は、相手が言い終えるまで待った。
「湯をもう一杯お願いします。この子のぶんは、冷ましたものを」
下働きは頷き、足早に戻っていく。
その後ろ姿を見ながら、私も同じ顔をしていたのだろうと思った。
セレスティアは自分の手袋を引き上げた。指先が小さく震えていることに気づいたが、何かを聞く前に、手は袖へ収まった。
*
差し出された書類には、妹の名前がなかった。
保護対象、器一名。
セレスティアは卓上の灯りを寄せた。
「東門の救護所に、隔離室を用意します。本人を安全な結界の内側へ。あなたは明朝、聴取に来てください」
「私も一緒に」
「保護対象への面会は、監督官の許可が必要です」
明朝まで。
そんな短い時間でも、妹の顔が見えなくなると思うと、指先が冷たくなった。
「何をするの」
「接続を測り、王の侵食を抑えます」
「抑えるって、どうやって」
「危険な発声を制限し、必要なら浄化を」
「それで、エルザはどうなる?」
セレスティアは、一度、私の顔を見直した。
「王の記憶と本人の記憶は、まだ区別がつきません。最初に測るのは、その範囲です」
「じゃあ、今、署名はできない」
法衣の袖が、紙の端で止まった。
「処置を遅らせるほど、危険は増します」
「わからないまま預けるのも危ない」
声が大きくなった。
エルザが隣から、私の肘をつついた。
「私に聞いて」
私は口を閉じた。
「測るのは、してほしい。でも、何をするかは、その前に私にも話して。姉さんだけに説明しないで」
セレスティアが黙る。
廊下の黒い女が、低く笑った。
「注文の多い患者だ」
「あなたの分も聞こうか」
エルザが言うと、女は少し目を開いた。
笑いの続きは出なかった。
私は書類を引き寄せた。
「名前を書き直して。エルザ・ロートハール。あと、金具の検分は私も立ち会う。エルザが話せるときは、本人に確認する」
「検分には専門の知識が要ります」
「石組みと留め方なら、私の仕事だ。あの金具を据えた溝も見た」
私は、銅の規矩札を出した。
「フリーメイソンの施工記録へ、自分の名で残す。見学を頼んでるんじゃない。仕事として立ち会う」
セレスティアは札を裏返し、父の保守登録から続く記載を読んだ。
「テンプル騎士団の後継保守家……シュミート家」
声の調子が変わった。
「その欄は、何のため?」
「古い施設の点検を委ねた家の記載です。今の処置を決める権限とは別です」
私は、そこも省かず写すことにした。自分に有利らしい名の欄こそ、意味を知らずに使いたくなかった。
マルティンさんが、私の断面図を卓へ出した。
「現場の証人を外す理由はない。私も立ち会おう」
セレスティアは図と私を見比べた。
それから羽根ペンを取った。
「測定に限り、認めます。処置の変更は、その都度協議する」
私は訂正された名前を二度読んだ。
「測るだけなら、痛みは?」
「接続の強い箇所で、不快感が出る可能性があります」
「やめるって言ったら?」
セレスティアはエルザへ向き直った。
「中断します。ただし、そのまま戻れない状態なら、まず安定させる必要があります」
「黙って続けないで」
「手を上げる合図を使いましょう。声が出ない場合もある」
エルザは右手を上げてみせた。
私はその手を見て、ようやく書類から指を離した。
全部を拒めば、妹は今より楽にならない。全部を任せれば、私はもう何が起きたかも聞けなくなるかもしれない。
今、できる約束だけが、訂正の多い紙に増えていた。
まだ署名はしなかった。
*
夜が明けるまで、救護所で待つことになった。
大聖堂からは荷車を借りた。金具の皿を載せ、妹も乗せようとすると、エルザは首を振った。
「歩きたい。座ると、声のことばかり考える」
私は荷車をゆっくり引いた。
黒い女は反対側の縁を持った。首へ負担のかからない歩き方をする。段差で上体が揺れる前に、足を止めるのだ。
「名前、まだ聞いてなかった」
「メルヴィナ・クロイツェル」
「教会の仕事?」
「黒召喚のエクソシスト。白い人の、現地監督つき」
前を歩くセレスティアは振り向かなかった。
「灰の縄って呼ぶ人もいるけど、それは好きじゃない」
「じゃあ呼ばない」
女――メルヴィナが、荷車の軋む音を聞いた。
「直す?」
「今は、揺れないほうを先」
「そういう順番もあるんだ」
何に感心されたのか、わからなかった。
途中、荷車を止めて、残ったパンをエルザへ渡した。妹は一口かじり、隣を歩くメルヴィナを見た。
「食べる?」
「いくら?」
「半分だから、値段も半分かな」
エルザが真面目に考え始めたので、私はパンを二つに割った。
「荷車を持ってくれたぶん」
「それは監督のついた仕事だよ」
「じゃあ、袋を落とさないように見てて。私、両手が塞がってる」
メルヴィナは私の肩紐を見てから、小さいほうのパンを取った。
「簡単な仕事にしてくれて、どうも」
少し皮肉な声だった。けれど、角を曲がるとき、工具袋が車輪へ挟まらないように引いてくれた。
救護所の東側には、工事用の資材置き場があった。積んだ石に見覚えがある。父が最後に請けた、水路の仕事の印が入っていた。
見ないようにして、荷車を止める。
セレスティアが、メルヴィナへ目を向けた。
「移送が終わるまで、器への接続を保持。解除は私が確認してから行います」
メルヴィナは頷いた。
首の留め金が、一度、小さく鳴った。
私は金具の皿を抱え直した。器、という呼び方を、また直してもらわなければと思った。
部屋へ入ったところで、エルザが振り返った。
「姉さん、下で水が――」
その声が裂けた。
『鐘をつなげ。門を――』
灯りが横へ倒れる。
私は妹を抱こうとした。けれど、エルザの足が床に貼りついたように動かない。
工具袋の金具が、皿を跳ねた。
メルヴィナの外套の裾から、影が伸びた。
床の継ぎ目を走り、妹の足元へ届く。細い黒い糸が、見えない何かを挟んだ。
王の声が途切れた。
エルザの膝が折れる。今度は受け止められた。
「その方法は許可していません。黒術を止めなさい」
セレスティアの声と同時に、メルヴィナの首元が鳴った。
かちり。
口が開く。息が入らない。
それでも影の糸は、床に張りついたままだった。
「その子、息が苦しそうだ」
「禁呪の継続は、首輪を反応させます」
「だったら止めて」
メルヴィナが笑おうとした。
「止めて、いいって……言われるまで、止められないの」
私はセレスティアを見た。
「どっちの話をしてる?」
法衣の女の眉が、微かに動いた。
マルティンさんが石板を皿の下へ押し込む。
「声はこちらで抑える。闇の保持を解かせてよい」
セレスティアが二歩近づいた。
「術を終え、拘束待機を解除。呼吸を優先しなさい」
金の聖印が光った。
黒い糸が、ほどけた。
メルヴィナは壁へ手をつき、深く咳き込んだ。
私はエルザを椅子へ座らせてから、そちらへ行った。
首輪へ触りかける。
「だめ」
メルヴィナに手首を掴まれた。
思ったより強い手だった。
「今、触ったら、私があなたを引っ張るかもしれない」
指を引いた。
何が起きるか、私は何一つわかっていなかった。
セレスティアが水を差し出す。メルヴィナは受け取ったが、すぐには飲まなかった。
「私は二人とも保護します。責任を持つ」
その言葉を、さっきは待っていた。
今は、首の赤い痕から目を離せなかった。
「責任と、命令は同じ?」
セレスティアは杯を置き、私を見た。
「説明が必要ですね」
怒りはしなかった。
それがかえって、怖かった。
セレスティアはメルヴィナへ向き直り、首輪の状態を尋ねた。
「呼吸は戻りましたか」
「戻った」
「保持と術の制限が競合しました。次から、代わりの支えを置いてから停止を命じます」
メルヴィナは杯へ口をつけた。
了解とも、ありがとうとも言わなかった。
私は、さっき放しかけた彼女の手首を見た。自分の顔には触れず、首輪へも戻らず、その手は杯を持っていた。
杯の水が減っていた。何も言えず、継ぎ足した。
*
明け方、マルティンさんが寝台の位置を直している間に、私は検分許可書を写した。
正式な測定は朝から。それまで金具は石板の上に据え、二人ずつ交代で見る。
声が少し戻ったエルザは、私の膝を指で叩いて合図した。
「寝ないと、寸法、間違うよ」
「あんたが先」
「そういう競争じゃない」
毛布を半分奪われた。
隣で眠るつもりだったのに、紙へ伸ばした手が止まらなかった。
許可書の聖印は、セレスティアの左目の下と同じ形だった。幹から線が二本出て、一方は内へ、もう一方は紙の縁へ向かっている。
用途は、わからない。
わからないまま写した。勝手に省くと、父にはよく叱られた。
下の欄に、補充、とある。隣には小さな枡が五つずつ、五段。何を記入する欄かは空白だった。
マルティンさんが卓へ置いた星図にも目が行った。輪の下で枝分かれする線が、石材を濡らして冷やす工房の水槽に、少し似ていた。
私はそちらも、紙の端へ描き留めた。
戸を叩く音がした。
「眠っているなら、笑い話は置いて帰るが」
入ってきたのは、痩せた長身の男だった。背中に、修理跡だらけのリュートがある。
「ヴィレムさん」
父の葬式で、追悼の詩を読んだ人だ。
「今日は笑い話じゃない」
男は、巻いた紙を差し出した。
「水路の事故を調べていた。君の父さんの記録と、妙に似たところがある」
受け取ると、マルティンさんが机の灯りを覆った。ヴィレムは右目を庇っていた。
「朝日なら平気なのに、近い灯りには弱いんだ」
冗談めかした声だったが、紙を放すまで指に力が入っていた。
「確かめてから話そう。僕の見込みだけで、君を動かしたくない」
私は記録を膝へ置いた。
その前に、もう一枚。
セレスティアが説明のために残した、メルヴィナの監督契約の写しを開いた。
保護者署名、とある。
三年前の日付。
その下に、同じ筆圧で、現地命令権者、と続いていた。
二つの欄には、一人の名があった。
セレスティア・ラングホルツ。
メルヴィナを保護するための署名が、彼女の息を止める権利になっていた。




