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第2話 父の刻印は、首輪にもあった

 妹の脈より、私の脈が一拍遅れた。


 大聖堂の裏戸を叩き、事情を話し始めたばかりだった。マルティンさんは私たちの手を見て、そばの鉄皿を間へ差し込んだ。


 皿の上で、燭台が鳴った。


 ちん、と一度。


 エルザの肩から力が抜ける。私の心臓も、勝手な遅れ方をやめた。


「次に声が出ても、喉を押さえるな。息まで塞ぐ」

「何かわかるの?」

「まだわからん。手を離せるか」


 私に言ったのだと気づくまで、少しかかった。


 エルザの指には、私が握っていた跡がついていた。


 放すと、妹は自分で椅子を引いて座った。


「冷たい水より、ぬるいほうが飲めた」

「そうか」


 老人は湯を水で割った。震える手の届くところへ杯を置き、飲み終えるのを待った。


 父の葬式で、祈りより先に私たちへ椅子を持ってきた人だった。


「金具を出してみろ」


 私は食卓で確かめた順に話した。近づけると喉が苦しくなり、離すと少し楽になること。工事場で声を聞いたこと。腕の灰色の線も見せた。


 マルティンさんは、傷へ手を伸ばさなかった。


「触ってよいか」


 頷くと、脈の通る場所へ指を置いた。


 その指は、見た目より温かかった。


 片方の眼鏡を留める針金が緩んでいる。直してあげたいと思った。今、気にするところではないのに、どうしても目が行った。


「工事前、この輪は閉じていたのか」

「石に半分埋まってた。支えが崩れたときに見えて、引き上げたら外れた」

「どの石に」


 紙をもらい、断面を描いた。


 声のことを話すより、ずっと楽だった。楔を入れた位置と、水が逆向きに走った溝。自分が確かめたものなら、線にできる。


 マルティンさんの顔が険しくなった。


「下へ行こう。古い接合の記録がある」

「エルザはここで休ませて」

「私も行く」


 即答だった。


「階段、暗いよ。私が話は聞いてくるから」

「私の喉で起きてるのに?」


 妹は杯を置いた。


「姉さん、さっき、水を飲めるかも聞かずに外套を着せようとした」


 言い返す言葉を探した。危ないから。心配だから。全部、さっき自分で使った言葉だった。


「途中で苦しくなったら、戻る。それなら」

「苦しいかどうかは、私が言うね」


 マルティンさんは妹へ灯りを渡した。


 私はその手から取り上げかけて、工具袋の紐を握り直した。


「足元が見えないから、灯りは少し下げて」


 代わりに、そう言った。


 エルザは灯りを下げ、私より先に一段下りた。背中の縫い目が綻んでいた。忙しくても私の手袋を縫って、自分の服はあと回しにしていたのだ。


 直してやる、と言いかけたとき、妹が振り返った。


「戸、閉めるの手伝って」


 言いかけた言葉を呑み、重い扉の端を押した。


     *


 地下聖堂へ下りる階段は、真ん中だけ浅く擦り減っていた。


 父に連れられて大聖堂の樋を直したことはある。でも、その下にこんな部屋があるとは知らなかった。


 石の席が三つ。


 右には香炉、左には蓋つきの小壺。中央には、細い金の輪を収めた箱がある。


「乳香、没薬、黄金。礼拝堂にあるのは、こちらの写しだ」


 老人が金具を香炉の前に置いた。


「メルヒオール。起きているか」


 石像の頭が動いた。


 私は妹の前へ出た。


「何をする!」


 怒鳴られたのは私だった。


「図の上へ泥を落とすでない。八百年前の羊皮紙だぞ」


 背の低い、痩せた老人が香炉の上に立っていた。


 向こうの石目が、胴を透けて見える。顔は隣の石像とそっくりだ。


「……死んでる?」

「もう長いことな」


 答えたのは小壺の上に現れた丸顔の老人だった。


「バルタザールだ。そちらは夕飯の匂いがする」

「豆」

「玉ねぎも」


 エルザが外套の前を閉じた。


 私はその隣で、出しかけた短剣の柄から手を離した。幽霊を見たのは初めてだったが、妹の食べ残しを当てる相手に、どう構えていいかわからなかった。


 香炉の老人が金具を見下ろす。


 笑いかけていた口が、真一文字になった。


「これを、どこから」

「西塔の新水路。今日、事故があった」

「位置が違う。昔の接合は、もっと西だ」


 マルティンさんが広げた古図を、透けた指が叩いた。


「この壁から七尺だ」

「六尺半」


 丸顔の老人が言う。


「お前は外壁から測っている」

「内壁からだ。お前こそ、増築前の壁と取り違えておる」


「どっちも違う」


 私は工具袋から折尺を出した。


 紙の壁厚を測り、縮尺と比べる。父と働いた頃、こういう図面の食い違いで現場が半日止まったことがある。


「ここだけ尺が違う。増築した人が、自分の尺で継ぎ足してる」


 図の隅の数字を指で追った。


「今の壁からは、五尺と指三本ぶん。私が見たのはその位置」


 二人の老人が黙った。


 エルザが小さく咳払いをする。


「姉さん、図に泥」

「……ごめん」


 メルヒオールは、実に嫌そうな顔をした。


 それから、紙を私のほうへ押し出す真似をした。


「では、今の寸法を書き足せ」


 触れられないのだと、そのとき気づいた。


 長くここにいるのに、間違い一つ、自分で直せない。


「こっちの水路は、もう使ってない」


 私は消された古い線を示した。


「東の道を広げたとき、埋めた。父さんが下を測りに行ったから覚えてる」

「水はどこへ流した」

「新しい側溝へ。でも、今の水量までは知らない」

「知らぬことは、そう書け」


 メルヒオールは、余白の小さな数字を指した。


「昔も、誰かが『同じはずだ』と省いた。次に読む者は、測った数字だと思う」


 私は、不明、と書いた。


 父の図面は、そういう空白が多かった。埋めずに残すのは手抜きだと、見習いの頃は思っていた。


 エルザが、書き足した日付の隣へ私の名前を入れた。


「誰が測ったかも、要るでしょ」


 グレーテ・シュミート。


 父の名ではない字が、古い図面に残った。


 私は古い数字を消さず、隣へ今日の寸法を入れた。


 紙の縁に、直角の線を横切る、小さな赤い十字がある。


「うちの保守札と、同じ印だ」


 マルティンさんが、その場所を見た。


「テンプルの後継保守人が、あとから加えた印だ。封印を作った千年前の者たちより、ずっと後の仕事になる」


 私は自分の規矩札を重ね、補修した石の高さを記す、自由石工の書き方を見つけた。家にあったのは飾りの紋章だけではなかった。


「父さんも、これを読んだ?」

「読んだ。何を引き受けたかは、現物と記録で確かめよう」


 老人は、私が知りたい答えを先に作ってはくれなかった。


 中央の席は静かなままだった。


 金の輪の向こうに、小さな石像がある。その顔だけは、灯りが届かずよく見えない。


「真ん中の人は?」

「返事がない」


 バルタザールの答えは短かった。


 眠っているのかと聞く前に、金具が鳴った。


     *


 私の右腕に、熱が走った。


 エルザが椅子の背を掴む。


 香炉から細い煙が伸びた。妹の喉の高さで止まり、すっと金具へ折れる。


 針に通した糸みたいに。


「声が通っている」


 メルヒオールの目が細くなる。


「金具を皿へ。素手で持つな」


 私は布を使って持ち替えた。鉄皿へ置くと、底が微かに鳴った。


「エルザ。名前を言える?」

「エルザ……ロートハール」


 途中で、低い声が重なった。


『受領を確認――』


 妹の肩が跳ねる。


 マルティンさんは皿を持ち上げ、下へ厚い石板を敷いた。音が変わり、煙の糸が途切れた。


 エルザが咳をした。


「今、私の声、聞こえた?」

「聞こえた。エルザって」


 私はもう一度、はっきり呼んだ。


「エルザ」


 妹は口を押さえたまま頷いた。


「もう一回、言わなくていい?」


 妹の問いに、私はすぐ答えられなかった。もう一度だけ試せば、音が出る場所も、温まる順も、もっとはっきりする。


 けれど、エルザは頷いたあとも、喉を押さえている。


「今日は、わかったところまでにする」


 マルティンさんが先に答えた。


 私は頷き、妹の背後へ椅子を寄せた。


 椅子の背へ手を置いたまま、工房で迎えた夜明けを思い出した。父の請け残した仕事を終えれば、誰も困らずに済む。そのつもりで、食卓へ戻らなかった夜もある。


 妹が座ってから、私も黒鉛を置いた。


 手首の灰色の輪は消えていない。石板も、脈打つたびに少しずつずれた。


「これは、止められたの?」

「音を弱めただけだ。いつまで持つかはわからん」


 マルティンさんは、石板を押さえ続けていた。


「エルザは、私が金具を外したから、こうなったの」


 聞くと、老人はすぐには答えなかった。


「もともと声を通しやすい者はいる。だからといって、勝手に誰かの器になるわけではない。つなぐ物と、つなぐ手が要る」

「その手が、私だった?」

「お前が何を動かしたかは調べる。誰が何のために作ったかもだ。先に一つへ決めるな」


 私は布越しに、刻印の位置を確かめた。


「父の仕事なら、壊れないはず」


 言ってから、変な言い方だと気づいた。


 妹を苦しめている物が、壊れない。


 マルティンさんが私を見た。


「壊れないことが、人を救うとは限らん」


 反論しかけた口を閉じた。


 代わりに、紙へ線を引いた。近づけた距離と、妹が苦しいと言った位置。金具の鳴る間隔。


 エルザが隣から覗く。


「温まるのは、音のあと。ほんの少し」

「わかる?」

「喉の奥も、同じ順番だから」


 鉛筆代わりの黒鉛を、妹へ渡した。


 エルザは私より細かい字で、音、熱、声、と書いた。代筆の仕事で使う、読みやすい字だった。


 音、熱、声。何度も消しかけた図の端に、妹の字が三つ残った。


 妹の肩へ毛布をかけようとすると、エルザは首を振った。


「暑い。足だけでいい」


 私は膝へ折って置いた。


 そのとき、バルタザールの小壺から、苦い木の匂いが流れてきた。


 エルザが、小さく鼻歌を歌った。


 三音で、止まる。


「父さんが歌ってたの」

「母さんの歌だって言ってたやつ?」

「うん。その先、今ならわかりそうだったのに」


 妹は少し考え、紙の隅へ、続き、と書いた。


 今日、失くしたくないことの覚え書きみたいだった。


 マルティンさんが、包みを一つ出した。


 昼に食べ損ねたらしい、硬いパンだった。


「腹は」

「すいてない」


 私が答えるより先に、妹の腹が鳴った。


 エルザは私を睨んだ。私のせいではないのに。


「水と一緒なら、食べられるかも」


 老人はパンを小さく割った。バルタザールが、真剣な顔でその手元を見る。


「焼いた皮がよい匂いだ」

「食べられるの?」

「匂いまでだ」


 エルザは割れたパンを、壺から少し離れた皿へ置いた。


「じゃあ、こっちは、こげてないところにする」


 丸顔の老人は、何も言わずに頷いた。


 妹が一口飲み込むまで、私もパンへ手をつけなかった。飲めた、と目で知らせてくれたので、私も一かけら取った。


     *


 地上へ戻ると、夜番の鐘はとうに終わっていた。


 廊下の端に、黒い外套の女が立っていた。


 高い襟。右目の縁に、赤いひびのような痕。若いのに、壁へ預けた背中が疲れている。


「その金具、見せてもらえる?」


 女は私ではなく、工具袋を見ていた。


「教会の人?」

「今は、似た物を持ってる人」


 マルティンさんは女を知っているらしかった。けれど、代わりに紹介はしなかった。


 私は金具の入った皿を、布の上へ置いた。


「父の工房印があった。ハンス・シュミート。知ってる?」


 女の口元から、薄い笑みが消えた。


「ハンス」


 声は小さかった。


 父に会ったことがあるのか。何を頼んだのか。


 聞く前に、女は高い襟へ指をかけた。


「じゃあ、あなたに見てもらうほうが早いね」


 白い喉に、金属の輪が食い込んでいた。


 真ん中に大きな鋲。そのすぐ脇に、半分の太さの鋲。補強にしては、二つの間隔が近すぎる。


 私は顔を寄せた。


 錆はない。手入れされた銀色の縁に、毎日擦れた細い傷がある。傷の下の皮膚は、もっと深く擦り切れていた。


 見慣れた印があった。


 槌と、欠けた三角。


 父が戸樋にも敷石にも打った印が、この人の首を縛る留め金に刻まれていた。


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