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第1話 妹の口で、死んだ王が話した

「抜くな」


 三か月前に死んだ父の声が、折れた支柱から聞こえた。


 その下で、クルトの脚が潰れかけている。地下水路の天井から砂が落ち、膝まであった水が腰へ迫った。


「グレーテ、もういい。お前まで――」

「よくない。帰ってから言って」


 私は小槌で石を二度叩いた。高い音。隣は濁る。割れ目は右へ走っている。


 左の石なら、まだ支えにできる。


 焼けた革手袋を脱ぎ、鉄片に巻きつけたとき、今度は父ではない声がした。


『私の剣よ』


「工具だよ」


 歯を食いしばり、鉄片を石の隙間へ差し込んだ。


「上の二人、縄を引いて。私が上げるんじゃない。そっちで引くんだ」


 石工師の見習いの頃、腕力で石を動かそうとして左の人差し指を駄目にした。曲がりにくいその指を、鉄片の下から逃がす。


 支えが噛んだ。


 クルトが、私を押し退けようとした。水に浮いた服の裾が、天井から出た釘へ引っかかっている。


「暴れない。上げるのは石一枚だけ。あんたまで動くと、その一枚が落ちる」


 私は裾を釘から外し、クルトの手を縄へ置いた。


「これを握って。握ってる間に、私が脚を抜く」


 指が縄を掴む。自分で帰ろうとする力が、まだあった。


 足元の古い留め金が軋む。錆びた輪の奥で、何かが息を吸った。


「いま!」


 縄が張る。


 クルトの脚が抜けた瞬間、留め金が外れた。


 熱いものが右の手首に巻きついた。鉄ではない。鉄の形をした熱だった。


 目の前に、頭のない影が立つ。


 まばたきをすると消えていた。


 逆流していた水が、嘘みたいに静まる。壁を叩く音だけが、しばらく遠くで鳴っていた。


 私はクルトの襟を掴んで、梯子の下まで引きずった。


「脚、動く?」

「わからん」

「じゃ、動かさない。上で誰かに診てもらう」

「お前の手、血が出てる」

「そっちは動く」


 答えてから、右手を握って確かめた。


 よかった。嘘にはならなかった。


     *


 地上の光は、泥だらけの人間にも平等に眩しかった。


 クルトを含めて三人。全員が水路から上がるのを見届け、私は石段に座った。


 聖都レギオムントの大聖堂の西塔に、完成式の旗が垂れている。


 完成式までは、今日を入れて七日。


 その日に新しい水路へ水を通すのだと、昨日まで親方は自慢していた。今日は工事の遅れと壊れた留め金のことばかり気にしている。


「シュミートの娘。検分だ」


 男が一人、私の前にしゃがんだ。


 黒髪に、白い房が混じっていた。古い旅装なのに、袖口に泥一つない。差し出された検分証には封蝋があり、名前の上に親指がかかっている。


「留め金を見せてくれるかな」

「三人助かった。奥に残りはいない。先に書いて」


 男は私を見た。


 それから、細い字で人数を書いた。最後の払いだけが、釣り針のように持ち上がる。


「これを、君が外した?」

「外れたの。外すための支えじゃなかった」


 男の指は金具の傷を撫でた。人が挟まっていた場所のことは聞かなかった。


「右の手は」


 私は袖を引いた。


「擦っただけ」

「そうか。熱が出たら、堂守を訪ねるといい」


 返された金具が掌で温まった。


 冷たい風が吹くたびに、また温まる。しばらくして、風ではなく、私の呼吸と同じ間隔だと気づいた。


 捨てようとした手を止める。


 壊れた物には、壊れた理由が残る。


 これを捨てれば、地下で聞いた声まで、なかったことにしてしまいそうだった。


「親方。今日の賃金」

「水が止まったんだぞ。半日分だ」

「三人分の引き上げと、仮の支えを打った。鉄片も私の持ち出し」

「ハンスなら、こんなときに金の話は」

「父の仕事の話はしてない」


 喉が乾いた。言い慣れない言葉は、泥水より飲み込みにくい。


「私の仕事の代金を払って」


 出てきたのは約束の八割だった。


 残りの額を親方の帳面に書かせた。クルトが運ばれながら証人の欄へ印をつけた。


 私は腰の銅札も、その脇へ置いた。直角定規とコンパスの間に、まだ小さな私の施工印がある。


 聖都の自由石工――フリーメイソンの工房組合で受け取った札だ。父に連れられて通った工房会議で、初めて自分の施工印を登録した。


 父の札の代わりに、自分の札で金を受け取るのは、まだ慣れなかった。


「悪いな」

「治ったら、うちの石材置き場の片づけ」

「それでいいのか」

「賃金は別に払う。落ちないでよ」


 クルトは笑いかけ、脚の痛みで変な顔になった。


 家へ帰れる顔だと思った。


     *


「扉の蝶番、また直したでしょ」


 工房へ戻った私を、妹は台所から責めた。


「鳴ってたから」

「鳴れば帰ってきたってわかるのに」


 エルザは銀灰の髪を耳にかけ、鍋の中をかき混ぜていた。十六歳のくせに、そういう小言は父よりうまい。


 私は工具袋を床へ置いた。中で金具が、こつりと鳴る。


 妹の匙が止まった。


「どうした?」

「なんでも。手、洗って」


 鍋は豆の煮込みだった。妹の皿には玉ねぎが少なく、私の皿には多い。


「選り分ける暇があったなら、もう少し煮ればいいのに」

「嫌いなものが柔らかくなっても、嫌いなままでしょ」


 言い返せず、私は二人分のパンを切った。


 父の椅子に、無意識に三つ目を置きかける。


 エルザは何も言わず、余ったパンを明日の袋へ入れた。


 父が死んでから、こういう手際ばかりよくなった。


「今日の分」


 私が銅貨を出すと、エルザも二枚出した。


「帳簿の代筆と、仕立屋の裾縫い」

「夜まで針を持ってたんじゃないでしょうね」

「あなたの手袋も縫うから、まだ持つ」

「それは明日でいい」

「あなたが明日も仕事に持っていくんでしょ」


 取り上げられた手袋の、内側が見えた。


 白い糸で、グレーテ、と縫ってある。


「十九にもなって迷子になると思う?」

「あなたはならなくても、道具はなる。石工の手袋なんて、石粉をかぶったらみんな同じ色になるから」


 父さん。


 エルザがその呼び名を使うたび、私は少しだけ胸を張りたくなる。


 私たちに血のつながりはない。妹は母親のロートハール姓を残し、父に育てられた。家族であることを説明する用事なんて、普段は一つもない。


 それでも、同じ人を父と呼べるのが嬉しかった。


 エルザは革の裂け目へ針を通し、顔を上げた。


「助けた人、帰れた?」

「帰した」


 妹が頷いた。


 その唇から、知らない男の声が出た。


『新しい器を受領した』


 匙が床へ落ちた。


 エルザの手からではない。私の手からだった。


「……エルザ?」


 青い瞳が揺れる。妹は自分の喉へ触れ、息を吸った。


「今の、私が言った?」


 私は椅子を蹴って立ち上がった。


 妹の肩を掴む。熱はない。呼吸はある。口の中を見ようとすると、エルザが顔を背けた。


「吐きそう。近い」

「ごめん」


 手を離した。その手の震えを見られたくなくて、床の匙を拾った。


 妹の足元に、細い針が一本落ちていた。


 刺さる前に拾えた。


 そんなことにほっとした自分が、情けなくてたまらなかった。


「水、持ってくる」

「ここにあるよ」


 卓の杯を指され、私は立ち止まった。


 豆の鍋も、切り残したパンも、いつもの場所にある。壁にはエルザが代筆を頼まれた帳簿が積んであって、明日取りに来る、と紙が挟まっていた。


 片づけなければいけない暮らしの中に、知らない声だけが残っていた。


「口の中、切ってない?」

「切ってない」

「胸は痛くない?」

「喉だけ。あと、あなたが怖い顔してる」


 私は頬へ触れた。


 泥が乾いて、皮膚が突っ張っていた。笑おうとしても、頬がうまく動かない。


「痛いところ、全部教えて」

「今、言ったので全部」


 エルザは私の濡れた袖を摘まんだ。


「姉さんも、座って。上から見られてると、答えを間違えた気になる」


 椅子へ腰を下ろした。


 いつもなら、湯を沸かし、布を濡らし、言われる前に何かをしていた。手が空いているのが、こんなに怖いとは知らなかった。


 工具袋から、こつ、こつ、と音がする。


 私は金具を引き出し、食卓へ置いた。


 エルザが喉を押さえた。


 金具を一歩遠ざける。妹の肩が下がる。


 もう一歩、離す。


「少し、楽」


 目の前の物なら、調べられる。


 金具を窓辺へ置き、傷の面を灯りに向けた。煤と泥の下に、小さな刻印が現れる。


 槌と、欠けた三角。


 父の印だ。


 父は自分の納めた仕事に、必ずこれを打った。石の戸樋にも、玄関の敷石にも。石を留める金具なら、据える前に縁へ小さく。傷んだら私を呼べと言うために。


 洗い鉢へ水を注ぎ、布の端で泥を落とした。


 指を切ったばかりの傷が滲む。金具は古いが、刻印の縁はまだ鋭かった。父が関わったのは、千年も前の話ではない。うちの食卓に三人で座っていた頃の仕事だ。


「読める?」


 エルザが覗き込む。


「父さんの印」

「うん。その下」


 布をずらすと、石粉の詰まった小さな筋が見えた。


 字ではない。深さを合わせるための罫書きだった。石の溝へ金具を据える前に、父がいつもつけた細い線。


 それが、輪の内側へ回り込んでいる。


「わからない。明るいところで、ちゃんと見る」


 父の仕事だから安心していいと、言いかけた。


 妹の手が、喉の下で止まっていた。


 私は右の袖を捲った。


 手首から肘へ、灰色の線が伸びていた。洗っても落ちなかった汚れが、皮膚の下で輪になっている。


「水路で、これがついた」

「いつ」

「支えを替えたとき。声も聞こえた」


 妹の目が、私の袖から顔へ戻った。


「怪我だけって、言おうとしてた?」


 答えられなかった。


 エルザは縫いかけの手袋を畳んだ。


「私も、先に言えばよかった」

「何を?」

「この頃、鐘の鳴ってない時間に、男の人の声がしてた。言葉までは、わからなかったけど」


 いつから、と聞こうとした。


 その前に、妹が笑おうとした。私を安心させるための、不器用な笑いだった。


「寝たら治るかな」


 そうだと言って、布団をかけてやりたかった。


 さっきまでなら、きっとそうしていた。


「わからない」


 唇がひりついた。


「だから、診てもらう。マルティンさんなら、父さんと一緒に水路を調べてた。あの人に」

「私のことも話す?」

「全部」


 妹の指が、手袋の白い名前を撫でた。


「糸、切ってないから。手袋、引っ張らないでね」


 妹が、縫いかけの手袋を私へ返した。


 針は抜かれ、糸だけが短く残っている。私は受け取ってから、どちらの手にはめる物か、少し考えてしまった。


「すぐ戻ったら、縫ってくれる?」

「戻る時間による。私、明日も代筆の仕事があるし」


 いつもの口調で言うので、ようやく息を吐けた。


「そうだね。明日の仕事がある」


 私は戸締まり用の鍵を取った。父の鍵と、妹の鍵と、私の鍵。今も三本、同じ釘へ掛かっていた。


 表の札は、石工房シュミートのままだ。下へ私の名を書こうとして、三か月、板を削れずにいた。


 今、妹がその札のほうを見ている。


「明日、仕立屋さんが来たら、代筆は少し待ってって言ってね」

「わかった」

「断らなくていいから。私の仕事だから」


 私は鍵を握り、もう一度頷いた。


 一本だけ外す。


 エルザが帰ってきて、自分の鍵を使うところを思い浮かべた。


 私は父の短剣を壁から下ろした。


 鍔の内側に、赤い十字の跡がある。


 テンプル騎士団から伝わった剣だと、父は言った。団が姿を消したあと、うちの祖先は石工となり、大聖堂の保守を継いだのだという。


 壁の小箱から、古い登録札を取る。白地に赤い十字を縫った布の端は、箱に残した。


 札の縁の一行は、父に読んでもらった。


 預かった名を、消すな。


 どんな名前を預かったのか、私は、その頃は知らなかった。


 剣は、まともに振ったこともない。


 エルザが鍔を見た。


「騎士のおじいさんに、助けてもらう?」

「使えるところだけ、借りる」


 柄を握る。握った手に、戸締まりの鍵が当たった。


 妹が自分の鍵で帰ってこられるように。それだけを願って、鞘を腰へ寄せた。


 鞘の紐を腰へ巻くと、少しだけ、何かできる人間になれた気がした。


 冷えない金具を工具袋へ入れる。


 エルザにも外套を着せようとして、やめた。


「歩ける?」

「歩ける。でも、先に水」


 差し出した杯を、妹は両手で持った。


 半分も飲まないうちに、その指が硬くなった。


 杯の水面に、輪が広がる。


 妹のものではない息遣いがした。


『アルドリックの封は緩んだ』


 灰の王。


 聖都の子供なら誰でも知っている。千年前、三人の星読みに封じられた、首のない王。


 寝つかない子を脅す話の中でしか、聞いたことのない名前だった。


「ここにはいない」


 私は言った。


「ここはうちの工房だ。あんたの聖堂じゃない」


 エルザの頬を、涙が一筋伝った。


 泣いているのは妹だ。


 笑ったのは、その口を使う別の誰かだった。


 私は杯を取り、冷えた手を握った。地下に置いてきたはずの声が、食卓の向こうから私を呼んだ。


『私の剣よ、その娘を連れてこい』


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