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魔法使いの王子様  作者: はちもく


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はじめての優しさ

 スープは、驚くほど温かかった。


 温かいというだけでなく、鶏肉の味と、野菜の甘みがした。


 それぞれの味がする食事を、王子は久しぶりに口にした。


 柔らかなパンをちぎり、スープへ浸す。


「おいしいですか?」


 向かいに座ったヨシュアが尋ねる。


 食事をしているあいだ、何度目になるかわからない質問だった。


「はい」


「本当に?」


「はい」


「よかった」


 ヨシュアは毎回、初めて聞いたように喜んだ。


 王子はもう一口、スープを飲んだ。


 身体の内側へ温かさが広がっていく。


「ヨシュアは、食べないのですか」


「私は大丈夫です」


「お腹が空かない?」


「空くこともありますよ」


「今は?」


 ヨシュアは少し考えた。


「テオが食べているところを見ているほうが楽しいですね」


 王子は匙を止めた。


 見られていると食べにくい。


 けれど、嫌ではなかった。


 食べるのが遅いと急かすでもなく、残すなと睨むでもない。ヨシュアは王子が一口飲むたび、本当に嬉しそうに笑う。


 王子は皿の半分ほどを食べたところで、匙を置いた。


「もう、いっぱいです」


「承知しました」


 ヨシュアは残った量を確かめた。


 怒られると思い、膝の上で手を握る。


「初めにしては、少し多く作りすぎましたね。次から気をつけます」


「残しても?」


「かまいません」


「本当に?」


「本当です」


 ヨシュアは林檎を煮た小皿を差し出した。


「こちらを一口だけ試しますか? お腹がいっぱいなら、明日でも」


 甘い匂いがする。


 王子は迷った末、小さな一切れを口へ入れた。


 舌の上で、柔らかな果肉がほどける。


 砂糖と香辛料の甘さが広がった。


「……好きです」


 その言葉は、考えるより先に出た。


 ヨシュアが目を見開く。


 次の瞬間、満面の笑みになった。


「では、明日も作りましょう」


 王子も笑った。


 今度は、口元を隠さなかった。


     *


 食事のあと、ヨシュアは大きな浴槽へ湯を満たした。


 古い浴室は長く使われていなかったが、金色の火で温められ、壁の汚れも魔法で落とされた。


 王子は一人で入るつもりだった。


 けれど、伸びきった髪をどう洗えばよいのかわからず、浴槽の中で困っていると、扉の向こうから声がした。


「お手伝いしましょうか?」


「大丈夫です」


「承知しました」


 ヨシュアは入ってこなかった。


 しばらくして、王子は絡まった髪へ指を引っかけた。


 強く引いたため、頭皮が痛む。


「ヨシュア」


 小さく呼ぶ。


 すぐに返事がした。


「はい」


「髪だけ、お願いしてもいいですか」


「もちろんです」


 ヨシュアは長い布を持って入ってきた。


 王子が身体を隠すのを待ち、浴槽の後ろへ回る。


「触れますね」


 前置きをしてから、濡れた髪をすくった。


 指先は驚くほど優しかった。


 絡まりを無理に引かず、端から少しずつ解いていく。泡立てた石鹸を馴染ませ、頭皮をゆっくりと洗った。


 王子は目を閉じた。


 誰かに髪を洗ってもらうのは、母が死んで以来だった。


「痛くありませんか?」


「はい」


「痒いところは?」


「ありません」


「お湯は熱くないですか?」


「ちょうどいいです」


 何度も確かめられる。


 そのたびに、自分がどのように感じているかを考えなければならなかった。


 今まで、痛いか、熱いか、嫌ではないかと尋ねられたことはない。


 尋ねられて初めて、自分にも答える権利があるのだと知った。


「ヨシュア」


「はい」


「どうして、僕の名前を知っているのですか」


 髪を梳く指が、一瞬だけ止まった。


「ずっと知っていましたよ」


「ずっと?」


「ええ」


「どこで?」


 ヨシュアは再び髪を洗い始めた。


「遠いところで、聞いたのです」


「僕に会ったことがある?」


「今日が初めてです」


「では、誰に聞いたのですか」


「それは――」


 ヨシュアは楽しそうに声を弾ませた。


「もう少し仲よくなってからのお話にしましょう」


「どうしてですか」


「秘密があったほうが、楽しいでしょう?」


 王子は納得できなかった。


 しかし、もう少し仲よくなってから、という言葉は嫌ではなかった。


 今日だけではない。


 ヨシュアには明日も、その次の日もここにいるつもりがある。


「逃げませんよ」


 心を読んだように、ヨシュアが言った。


「テオ、貴方の傍にいます」


 王子は目を閉じたまま頷いた。


     *


 浴室から戻ると、部屋はさらに変わっていた。


 暖炉の前には、柔らかな敷物が広げられている。寝台には新しいシーツと厚い毛布が用意され、窓には深い青色のカーテンが掛かっていた。


 小さな卓上には、林檎の煮物と水差しが置かれている。


「いつの間に」


「お風呂へ入っているあいだに、皆さんへ運んでいただきました」


 王子は辺りを見回した。


 寝台の上に、見覚えのないものがある。


 白い兎のぬいぐるみだった。


 長い耳に、紫色のリボン。片目を閉じ、笑っているような顔をしている。


「これは?」


「贈り物です」


「僕に?」


「はい」


 王子は寝台へ近づいた。


 兎を持ち上げる。


 新しい布は柔らかく、腹には綿がたっぷりと詰められていた。腕の中へ抱くと、古い熊より一回り大きい。


「僕は、もう十四になります」


「存じていますよ」


「ぬいぐるみで遊ぶ年ではありません」


 そう言いながらも、兎を置くことができなかった。


 ヨシュアは古い熊へ目を向けた。


「その子が一人では寂しそうでしたから」


 王子は腕に抱いていた熊と、新しい兎を見比べた。


「……これは、大切なものです」


「ええ」


「新しいものがあっても、捨てません」


「もちろんです」


 ヨシュアは迷わず頷いた。


「その熊は、その熊です。代わりを用意したつもりはありません」


 王子は顔を上げた。


「違うと、わかるのですか」


「違うものは、違いますから」


「でも、汚れています」


「長く一緒に過ごしてきた証拠ですね」


「目も揃っていません」


 右は黒い釦。


 左は青い石。


 不格好な顔をしている。


「とても素敵です」


 ヨシュアは笑った。


「テオが直してあげたのでしょう?」


「……はい」


「では、世界に一匹しかいない熊ですね」


 胸の奥が、また痛んだ。


 けれど今度は、ひび割れるような痛みではなかった。


 長く触れられなかった場所を、優しく撫でられたような痛みだった。


「この兎も、ここに置いていいですか」


 王子が尋ねる。


「もちろん」


「熊の隣に?」


「喜ぶと思いますよ」


 王子は二匹を寝台へ並べた。


 古びた熊と、真新しい白兎。


 大きさも色も揃っていない。


 それでも、並んで座っている姿は悪くなかった。


「もう一匹くらい必要でしょうか」


 ヨシュアが呟いた。


「いりません」


「犬はどうです?」


「いりません」


「猫は?」


「置く場所がありません」


「では、お部屋を広げましょう」


「そういう問題ではありません」


 ヨシュアは真剣に考え込んでいた。


 その顔がおかしくて、王子は笑った。


 声を立てて笑った。


 自分の笑い声を聞くのは、ひどく久しぶりだった。


 ヨシュアが、目を細める。


 金色の瞳に、暖炉の火が映っている。


「ようやく笑ってくださいましたね」


 王子は返事をしなかった。


 代わりに、寝台へ腰を下ろす。


 新しい毛布は柔らかかった。


 身体が沈み込むような寝台に、熊と兎を抱いて横になる。


 ヨシュアが毛布を胸元まで掛けた。


「眠るまで、ここにいても?」


「好きにしてください」


「では、そうします」


 暖炉のそばから椅子を運び、寝台の横へ座る。


 王子は目を閉じた。


 温かな部屋。


 満たされた腹。


 洗われた髪。


 新しい寝具。


 隣にいる人の気配。


 あまりにも多くのものが一度に与えられ、すべて夢のように思えた。


 眠って目を覚ませば、元の冷たい部屋へ戻っているかもしれない。


「ヨシュア」


「はい」


「明日も、いますか」


「いますよ」


「僕が眠っているあいだに、帰りませんか」


「帰りません」


「本当に?」


「本当です」


 白い指が、布団から出ていた王子の手へ触れた。


 強くは握らない。


 ただ、ここにいると伝えるように、指先を重ねる。


「おやすみなさい、テオ」


 名前を呼ばれ、王子は目を閉じた。


「……おやすみなさい、ヨシュア」


 その夜、王子は八年ぶりに、鈴の音を聞かずに眠った。

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