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魔法使いの王子様  作者: はちもく


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好きなもの、嫌いなもの

 王子は顔を背けた。


 頬が熱い。


 笑ったところを見られたことが、ひどく恥ずかしかった。


 灰色の鼠たちは部屋中の埃を集めると、一列に並んで暖炉へ向かった。一匹ずつ金色の炎へ飛び込み、音もなく消えていく。


 最後の鼠だけが、炉の前で振り返った。


 王子へもう一度お辞儀をして、炎の中へ飛び込む。


 同時に、部屋が明るくなった。


 汚れていた窓硝子は透き通り、午後の日差しが差し込んでいる。床から埃は消え、染みのついていた敷物も本来の色を取り戻していた。


 壁紙の剥がれや窓枠の隙間は残っている。


 けれど、朝までとはまるで違う部屋だった。


「いかがでしょう?」


 ヨシュアが尋ねた。


「……きれいです」


「明日には壁と窓も直しましょう。今日はこれ以上魔法を使うと、驚かせてしまいそうですから」


 もう十分に驚いている。


 そう言おうとしたとき、腹が鳴った。


 先ほどよりも大きな音だった。


 王子は寝間着の上から腹を押さえた。


 ヨシュアは笑わなかった。


「お食事にしましょう」


 扉の外へ顔を向ける。


「食材を厨房へ運んでください」


 廊下で待っていた下男が、弾かれたように返事をした。


「ただちに!」


 足音が遠ざかっていく。


 王子は不思議に思った。


 あの男が、誰かの命令へあれほど素早く従う姿を見たことがなかった。


「ヨシュア」


 初めて名前を呼ぶ。


 ヨシュアが勢いよく振り返った。


「はい!」


 待ち構えていたような返事だった。


「使用人ではなく、あなたが作るのですか」


「もちろんです」


「王宮魔導士なのに?」


「王宮魔導士は料理をしてはいけませんか?」


「そういう決まりはないと思います」


「では、問題ありませんね」


 ヨシュアは繋いでいた手をようやく離した。


 指先から温もりが消える。


 王子はわずかな寂しさを覚え、そんな自分に驚いた。


 会ったばかりの相手なのに。


「すぐに戻ります」


 ヨシュアは、その気持ちを見透かしたように言った。


「どこへ?」


「厨房です。お食事を作るには、お鍋が必要でしょう?」


「僕も、行っては駄目ですか」


 口にしてから、王子は俯いた。


 なぜそんなことを言ったのだろう。


 厨房には使用人がいる。部屋の外へ出れば、誰かと顔を合わせるかもしれない。


 それに、ヨシュアが一人で行きたいと言えば、それまでだ。


「かまいませんよ」


 ヨシュアは嬉しそうに微笑んだ。


「では、ご一緒しましょう」


 再び手が差し出される。


 王子は少し迷ってから、その手を取った。


     *


 王子が部屋の外へ出ると、廊下の端に女が立っていた。


 年嵩の侍女だった。


 洗濯物を抱えたまま動かず、こちらを見ている。


 王子と目が合った途端、女は顔を強張らせた。


 抱えていた布が床へ落ちる。


「悪魔――」


 女の唇から、掠れた声が漏れた。


 王子はヨシュアの手を離そうとした。


 部屋へ戻らなければ。


 自分が歩けば、皆を怖がらせる。


 だが、ヨシュアは王子の手を包み直した。


「ご挨拶を」


 侍女へ、にこやかに告げる。


 女は震えていた。


 ヨシュアを見て、それから王子を見る。


「第三王子殿下に、ご挨拶を」


 言葉は優しい。


 けれど、侍女の顔から血の気が引いた。


 女は洗濯物を拾うこともせず、その場へ膝をついた。


「ご、ご機嫌麗しゅうございます、殿下」


 王子は答えられなかった。


 使用人からそのような挨拶を受けたのは、母が生きていた頃以来だった。


「行きましょうか、テオ」


 ヨシュアが促す。


 侍女は、名前を聞いても何の反応も示さなかった。


 顔を伏せたまま、早く通り過ぎてほしいと願っている。


 王子はヨシュアに手を引かれ、女の横を歩いた。


 背中へ視線が突き刺さる。


 振り返らなくても、恐れられているのがわかった。


「やはり、部屋で待っています」


 王子は小声で言った。


「どうしてですか?」


「皆が怖がります」


「怖がらせておけばよいのですよ」


 ヨシュアは明るく答えた。


「でも」


「あなたを粗末に扱うより、ずっと健全です」


 聞いたことのない考え方だった。


 王子は隣を見上げた。


 ヨシュアは笑っている。


 金色の瞳に怒りはない。


 ただ、本当に何も問題はないと思っているようだった。


「それに」


 ヨシュアは、繋いだ手を軽く揺らした。


「今は私も一緒です」


 その一言で、王子は部屋へ戻るのをやめた。


     *


 厨房では、もっと多くの使用人が怯えた。


 王子が入った途端、包丁を落とす者がいた。鍋の蓋を取り落とし、床へ派手な音を響かせた者もいた。


 ヨシュアが「作業を続けてください」と言うと、皆は一斉に動き始めた。


 王子がいないふりをするように、誰もこちらを見なかった。


 ヨシュアは調理台の前へ立った。


 白く華やかな上着を脱ぎ、近くにいた料理人へ差し出す。料理人は震える両手で受け取った。


 黒い立襟の服に、金色の鎖や紫の宝石がいくつも揺れている。


「何が食べたいですか?」


 問われ、王子は困った。


「なんでも」


「なんでも、が一番難しいのですよ」


「では、いつものもので」


「いつものものとは?」


「パンと、スープです」


「どんなスープでしょう」


「薄いものです」


 ヨシュアは首を傾げた。


「何が入っていますか?」


「……お湯と、塩」


 厨房が静まった。


 使用人たちは手を動かしているが、誰も音を立てない。


 ヨシュアも黙っている。


 王子は間違えたと思った。


「すみません」


「なぜ謝るのです?」


「変なことを言ったから」


「変なのは、そのようなものを食事と呼んでいた方々です」


 ヨシュアは笑った。


「今日は、鶏肉と野菜のスープにしましょう。柔らかなパンも焼きます。それから、林檎を甘く煮て――」


「そんなに食べられません」


「では、少しずつ」


 ヨシュアは腕まくりをした。


 白い袖を肘まで折り上げる。


「たくさん食べる必要はありません。好きなものを見つければよいのです」


「残したら、怒りませんか」


「怒りません」


「料理を作ったのに?」


「ええ」


「嫌いだと言っても?」


「次は作らないようにします」


 王子はヨシュアを見つめた。


 冗談を言っている様子はない。


 ヨシュアは野菜を手に取り、楽しそうに鍋の準備を始めている。


「好きなものを、見つける……」


 小さく繰り返す。


 好きなものを選んでよい。


 嫌いなものは残してよい。


 そんなことを言われても、どうすればいいのかわからない。


 けれど、少しだけ試してみたいと思った。

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