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魔法使いの王子様  作者: はちもく


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魔法のネズミ

 王子の手を握ったまま、ヨシュアはしばらく動かなかった。


 温かな指が、触れている。


 ただ、それだけだった。


 強く掴まれることも、どこかへ引かれることもない。王子が離したければ、いつでも離せるほどの力だった。


 それなのに、王子は手を引けなかった。


「どうしましょう」


 ヨシュアが言った。


 金色の瞳が、王子の頭から爪先までをゆっくりと眺める。


「お食事が先でしょうか。それとも、お風呂でしょうか。お部屋もなんとかしたいですし……ああ、でも、その前に」


 ヨシュアの顔が近づいた。


 王子は反射的に身を固くした。


 白い指先が額へ伸びてくる。


 殴られる。


 そう思って目を閉じた。


 けれど、触れたのは指ではなかった。


 柔らかな髪が頬をくすぐり、額に何か温かいものが重なった。


 一瞬のことだった。


 ヨシュアはすぐに顔を離した。


「やはり、少し熱がありますね」


 額と額を合わせていたのだと、遅れて気づいた。


 王子は目を見開いた。


 ヨシュアは何事もなかったように考え込んでいる。


「空腹と冷えのせいでしょう。まずは身体を温めて、それから消化のよいものを――」


「死にませんか」


「はい?」


「僕に触って」


 王子は重なったままの手を見た。


「呪われませんか」


 ヨシュアは瞬きをした。


 それから、繋いだ手を持ち上げる。


 王子の手の甲へ、今度は唇が触れた。


 ごく自然な動作だった。


「どうでしょう」


 ヨシュアは首を傾げた。


「何か起こるでしょうか?」


「わかりません」


「では、確かめてみましょう」


「確かめる?」


「私が呪われるかどうか、しばらくこのままで」


 ヨシュアは指を絡めた。


 先ほどよりも深く繋がれる。


 王子は息を止めた。


「それは、危ないです」


「そうですか?」


「僕は、悪魔の子だから」


「テオ」


 名前を呼ばれる。


 それだけで、胸の奥が大きく揺れた。


「私は、あなたを怖いと思いません」


 ヨシュアは笑っていた。


「ですから、あなたも私を怖がらなくてよいのですよ」


 無理な話だと思った。


 白い髪の青年は、まだ出会ったばかりの他人だ。見たことのないほど美しい姿をして、誰も知らないはずの名前を知っている。


 怖くないはずがなかった。


 けれど、その恐怖は、使用人たちに感じるものとは違っていた。


 近づいてほしくないのではない。


 近づいてきた相手が、いつか離れていくことが怖かった。


「さて」


 ヨシュアは立ち上がった。


 それでも手は離さない。


「まず、寒いのをなんとかしましょう」


 空いているほうの手を、暖炉へ向けた。


 王子は慌てて周囲を見た。


「薪がありません」


「必要ありませんよ」


 ヨシュアが指を鳴らした。


 乾いた音が一つ、室内へ響く。


 次の瞬間、暖炉の中に火がともった。


 赤い炎ではない。


 淡い金色の火だった。


 何もない空間から生まれた炎は、薪も炭もない炉の中で、花びらのように揺れている。


 すぐに柔らかな熱が広がった。


 冷えきっていた部屋の空気が、春の日差しを含んだように温かくなる。


 王子は暖炉を見つめた。


「今のは……魔術ですか」


「いいえ」


 ヨシュアはあっさり答えた。


「魔法です」


 王子の身体が強張った。


 魔法。


 人の心や身体へ直接触れ、自然の理を曲げる力。


 かつて国中を混乱へ陥れたため、王国では固く禁じられている。魔術の教師から、その名を口にすることさえ慎むよう教えられた。


 そして母を殺したのも、悪い魔法使いだった。


「魔法は、いけないものです」


「そうなのですか?」


「禁じられています」


「誰に?」


「父上に。国の法律にも、そう書いてあります」


 ヨシュアは感心したように頷いた。


「なるほど。では、陛下には内緒にしましょう」


「そういう問題では……」


「テオは寒くなくなりましたか?」


 問われ、王子は口を閉ざした。


 凍えていた指先に、少しずつ感覚が戻っている。握られた手は、汗ばむほど温かい。


「……はい」


「では、よい魔法です」


 あまりにも簡単に言われ、何も返せなかった。


 魔法は悪いものだ。


 そう教えられてきた。


 けれど、目の前の火は誰も傷つけていない。冷えた身体を温め、凍えていた王子の手を動かせるようにしただけだ。


「おや」


 ヨシュアが屈み込んだ。


 その視線の先には、床に落ちた埃がある。


「こちらも、きれいにしましょう」


 また指を鳴らす。


 風が吹いた。


 窓から入り込む冷たい風ではない。温かな空気が床を撫で、積もっていた埃を巻き上げた。


 王子は咳き込みそうになり、口元を押さえた。


 けれど、埃は煙のように広がらなかった。


 一つの塊になって宙へ浮かび、くるくると渦を巻いている。


 渦は小さくなり、やがて灰色の鼠へ姿を変えた。


 丸い耳と細長い尻尾を持つ、埃の鼠だった。


 鼠は空中を駆けた。


 剥がれかけた壁紙を蹴り、天井近くの蜘蛛の巣を尻尾で絡め取る。寝台の下へ潜り込み、何年も溜まっていた汚れを引きずり出した。


 一匹だった鼠は二匹になり、三匹になった。


 それぞれが部屋中を走り回り、埃を集めていく。


 王子は呆然と見つめた。


 灰色の鼠の一匹が、王子の足元で立ち止まる。


 後ろ足で立ち上がり、丁寧に頭を下げた。


 そのまま、王子の裸足へ鼻先を近づける。


「噛みませんか」


「噛みませんよ」


 ヨシュアが答えた。


「お掃除が好きな子たちです」


 鼠は王子の足の甲を、小さな前足で二度叩いた。


 まるで、そこを退いてほしいと言っているようだった。


 王子が横へ避けると、鼠は満足そうに頷き、足跡がついていた場所を尻尾で掃き始めた。


「……ふふ」


 声が漏れた。


 自分が笑ったのだと気づき、王子は慌てて口元を押さえた。


 ヨシュアが振り返る。


 金色の瞳が輝いていた。


「今、笑いましたね」


「笑っていません」


「笑いました」


「違います」


「では、もう一度笑ってくだされば、最初の一度は数えないことにしましょう」


「笑いません」


「残念です」


 そう言いながら、ヨシュアは嬉しそうだった。

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