魔法使いの約束
魔法の練習は、毎朝行われた。
小石の次は、羽根。
羽根の次は、水。
器から水を持ち上げ、空中で魚の形にする。
ヨシュアの魚ほど美しくはなかった。
頭が大きく、尾が小さい。
泳がせようとすると、空中でひっくり返った。
「潰れた蛙みたいだ」
「猫ですよ」
「魚だよ」
「では、魚です」
「ヨシュアが前に作ったパンの話」
「何のことでしょう?」
「覚えてるくせに」
水の魚がヨシュアへ飛び、白い服を濡らした。
「おや」
「今のは事故」
「そうですか?」
「事故だって」
ヨシュアが指を振る。
濡れた袖から水が離れ、今度は小鳥になる。
鳥は王子の頭上へ飛び、水滴の雨を降らせた。
「冷たい!」
「事故ですよ」
「絶対に違う!」
王子も水を持ち上げる。
魚はすぐに形を崩したが、塊のままヨシュアへ飛んだ。
ヨシュアは笑いながら逃げる。
二人は庭中を走り回り、最後にはどちらもずぶ濡れになった。
魔法は楽しかった。
火をともす。
花を咲かせる。
鳥の歌を真似て、風に音を与える。
雨の日には水滴を硝子玉へ変え、晴れた日には雲を羊の形にした。
眠る前、天井に星を浮かべることも覚えた。
ヨシュアの助けがなくても、暖炉へ火を入れられるようになった。
「もう僕が起こしてあげられる」
金色の火を見ながら、王子は言った。
「何をですか?」
「ヨシュアを。朝、僕のほうが早く起きたら」
「楽しみにしています」
「起きないでよ」
「難しいお願いですね」
王子が目を覚ますと、ヨシュアは必ず先に起きている。
眠る必要がないのではないかと疑ったこともある。
尋ねても、ヨシュアは「寝ていますよ」と笑うだけだった。
「魔法で眠らせればいい?」
「私を?」
「そうすれば、先に起きられる」
「できますか?」
「やってみようか」
王子が手を伸ばす。
ヨシュアは目を閉じ、されるがままに待った。
本当に魔法をかけてもよいらしい。
王子は途中で手を止めた。
「やめる」
「なぜです?」
「ヨシュアが眠りたいと思っていないから」
金色の瞳が開く。
「石の都合は考えないのでは?」
「ヨシュアは石じゃない」
「同じですよ」
「違う」
王子は手を引いた。
「人に魔法は使わない」
ヨシュアはしばらく王子を見つめた。
やがて、いつものように微笑む。
「テオがお決めになったのなら」
「ヨシュアも、僕に使わないで」
「はい」
返事は早かった。
「約束して」
「約束します」
「絶対に?」
「ええ」
ヨシュアは王子の手を取り、その甲へ唇を触れさせた。
「あなたの心を変える魔法だけは、決して使いません」
少し変な言い方だと思った。
身体ならよいのか。
記憶なら。
名前なら。
けれど、その頃の王子には、言葉の隙間を疑う理由がなかった。
「なら、いい」
ヨシュアの指へ、自分の指を絡める。
約束は交わされた。
*
人に魔法を使えばどうなるのかを、王子は偶然知った。
午後の茶を庭へ運ばせた日だった。
若い侍女が盆を持ち、東屋へ入ってくる。
以前、廊下で洗濯物を落とした女だった。
あの頃より、顔つきが穏やかになっている。
いつもの笑顔。
いつもの足取り。
侍女は卓上へ茶器を置いた。
王子が礼を言おうとしたとき、女の手からカップが滑った。
「あ」
白い磁器が落ちる。
王子は反射的に手を伸ばした。
「止まれ」
音が消えた。
カップが空中で止まっている。
床へ落ちる直前。
王子の魔法が間に合った。
「できた」
カップへ手を伸ばす。
そのとき、侍女も止まっていることに気づいた。
女はカップへ腕を伸ばした姿勢のまま、動かない。
指も。
髪も。
瞬きすらしない。
「どうしたの?」
声をかけても返事がない。
王子は侍女の顔を覗き込んだ。
笑っていた。
呼吸もせず、目だけを開いている。
「ヨシュア」
「はい」
「この人まで止まった」
「そのようですね」
「僕は、カップを止めただけだ」
「命令が、どちらにも届いたのでしょう」
「戻して」
「テオの魔法ですよ」
「どうすればいい?」
「動いてよいと、決めてください」
王子は侍女を見た。
「動いて」
女が息を吸った。
腕が下がる。
何事もなかったように姿勢を正し、一礼した。
「失礼いたしました、殿下」
「今、何をされたかわかる?」
「カップを落としました」
「そのあと」
侍女は微笑んでいる。
「申し訳ございません、殿下」
「止まっていたことは?」
「カップを落としました」
同じ答えだった。
王子はヨシュアを見た。
「覚えていない」
「そのほうがよいでしょう」
「どうして」
「怖い思いをせずに済みます」
ヨシュアはカップを拾い、盆へ戻した。
「魔法は、人の身体にも使えるのですか」
「使えますよ」
「心にも?」
「ええ」
「記憶も?」
「もちろん」
「だから、禁じられている?」
「おそらくは」
ヨシュアは、どこか他人事のように答えた。
「怖いですか?」
王子は侍女を見た。
女は動かない。
今度は魔法で止められているのではなく、命令を待っているだけだ。
ヨシュアの魔法が、いつもこの人を動かしているのだろうか。
そう思いかけた。
けれど、女は王子の視線に気づくと、丁寧に頭を下げた。
「ほかにご用はございますか、殿下」
「……ない」
「失礼いたします」
侍女は盆を抱え、東屋を出ていく。
王子は自分の手を見つめた。
同じ手で、石を浮かせた。
水を魚にした。
花を咲かせた。
今は、人を止めた。
「怖くない」
王子は答えた。
「使わなければいいだけだから」
「そうですね」
ヨシュアは微笑んだ。
「テオは、とてもお優しいですから」




