魔法
その日、ヨシュアは指を切った。
ほんの小さな傷だった。
朝食の果物を切っている最中、林檎の皮と一緒に指先を掠めただけだ。
「あ」
ヨシュアが声を漏らす。
白い指に、赤い血が滲んだ。
王子は椅子から立ち上がった。
「どうしたの」
「少し切ってしまいました」
「見せて」
「これくらいなら大丈夫ですよ」
「いいから」
ヨシュアの手を取る。
人差し指の先に、小さな傷がある。
王子は眉を寄せた。
「料理が得意だと言ってなかった?」
「得意ですよ」
「得意な人は、自分の指まで切らない」
「林檎が少々、手強かったもので」
「林檎のせいにするなよ」
卓上には、半分まで皮を剥かれた林檎がある。
反論するように、つやつやと赤く光っていた。
「布を持ってくる」
王子が手を離そうとすると、ヨシュアは笑った。
「本当に大丈夫です。すぐに治りますから」
白い指先に、淡い光がともった。
光は傷を包み、すぐに消える。
血も、傷口もなくなっていた。
「また魔法?」
「はい」
王子は治った指を見つめた。
「痛くない?」
「ええ」
「傷もない」
「ありませんね」
「僕にも、できる?」
何気なく尋ねた。
ヨシュアが黙った。
王子は顔を上げる。
金色の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
「魔法」
もう一度言う。
「僕にも使える?」
「使えますよ」
答えはあまりにも簡単だった。
「どうして今まで教えてくれなかったの?」
「聞かれませんでしたから」
「聞けば教えた?」
「もちろんです」
「でも、僕には魔術の才能がない」
幼い頃、王都で適性を調べられたことがある。
教師に言われたとおり術式を描き、決められた言葉を唱えた。机の上の石を光らせるだけの課題だった。
石は何も変わらなかった。
教師は、第三王子に魔術の才はない、と父へ報告した。
「魔術と魔法は違います」
ヨシュアは林檎を置いた。
「魔術には、術式や道具や、正しい手順が必要です。決められた道を、間違えずに歩かなければなりません」
「魔法は?」
「道など、必要ありません」
ヨシュアは王子の前へ手を差し出した。
掌を上に向ける。
「行きたい場所へ、直接手を伸ばせばよいのです」
「それだけ?」
「それだけです」
王子は疑った。
「そんなに簡単なら、誰でも使える」
「ええ」
ヨシュアは微笑んだ。
「誰にでも使えますよ」
*
朝食のあと、二人は庭へ出た。
教室は、青い花が咲く場所だった。
王子は草の上に座り、ヨシュアと向かい合っている。
二人の間には、小石が一つ置かれていた。
「まず、この石を持ち上げましょう」
「手で?」
「魔法で」
「どうやって」
「持ち上げたいと思ってください」
王子は小石を見た。
黒く、丸い石だった。
持ち上がれ、と念じてみる。
何も起こらない。
「動かない」
「本当に、動くと思っていますか?」
「思ってる」
「いいえ。動くはずがない、と考えています」
ヨシュアは石へ指を向けた。
小石が浮かぶ。
王子の目の高さまで上がり、その場でくるくると回った。
「ずるい」
「ずるくありませんよ」
「ヨシュアには簡単だから」
「テオにも簡単です」
「できてない」
「できないと思っているからです」
小石が地面へ戻る。
「魔術なら、石を持ち上げるための理由を用意します。風を起こす。糸を使う。石を軽くする。けれど、魔法に理由はいりません」
「石は、自分で浮かばない」
「そうですね」
「なら、理由がいるだろ」
「いいえ」
ヨシュアは楽しそうに首を振った。
「石の都合を考える必要はないのです」
「石の都合?」
「石が浮きたいかどうかは、石が決めることではありません」
ヨシュアは小石を拾い、王子の掌へ載せた。
「テオが浮いてほしいと思う。ですから、浮くのです」
「わがままだ」
「魔法とは、そういうものですよ」
王子は掌の石を見た。
指を開く。
石は落ちた。
「もう一度」
草の上へ転がった石を見る。
浮いてほしいと願う。
動かない。
「言葉にしてもよいですよ」
ヨシュアが言った。
「浮かべ」
石は動かなかった。
「お願いするのではありません」
「お願いしてない」
「石が拒んだとき、諦める余地が声に残っています」
「そんなことまでわかるの?」
「ええ」
ヨシュアは王子の背後へ回った。
肩越しに腕を伸ばし、王子の手へ自分の手を重ねる。
「相手に選ばせないでください」
耳元で声がした。
「浮く以外の答えを、世界からなくすのです」
王子は小石を見た。
浮かばなければならない。
そういうものだと思う。
空を魚が泳ぐように。
生垣の兎が跳ねるように。
東の塔に星空があるように。
ここでは、ヨシュアが望んだことが現実になる。
ならば。
「浮かべ」
小石が震えた。
草の葉から、ほんの少し離れる。
王子は息を呑んだ。
驚いた瞬間、小石は落ちた。
「今」
「はい」
「浮いた」
「お見事です」
ヨシュアの声は穏やかだった。
けれど、重なっている手に力が入った。
「もう一度」
王子は小石を見つめた。
「浮かべ」
石が上がる。
今度は、膝の高さまで。
不安定に揺れながら、それでも落ちない。
「できた」
「ええ」
「ヨシュア、できた!」
振り返る。
すぐ後ろに、ヨシュアの顔があった。
金色の瞳が、王子よりも嬉しそうに輝いている。
「素晴らしいです、テオ」
小石が落ちた。
けれど、もう気にならなかった。
「もう一回やる」
「はい」
「次は、もっと高く」
「ええ。どこまででも」
その日、王子は小石を自分の頭より高く浮かせた。




