魔法使いの城
庭へ出た日から、王子の世界は少しずつ広がっていった。
最初は、部屋と庭だけだった。
朝になるとヨシュアがカーテンを開け、王子を起こす。二人で朝食をとり、天気がよければ庭へ出る。
青い花を探し、空を泳ぐ魚を追いかけ、生垣の動物たちとかくれんぼをする。
王子の足は、日に日に速くなった。
初めの頃は庭を半周しただけで息を切らし、帰りにはヨシュアの背を借りていた。それが一周になり、二周になった。
ある日、銀色の魚を追いかけて噴水を回り込むと、魚は急に向きを変えた。
王子の鼻先を掠め、ヨシュアのほうへ飛んでいく。
「ヨシュア、そっちへ行った!」
王子は走りながら叫んだ。
ヨシュアが目を見開いた。
ほんの一瞬、捕まえるべき魚のことを忘れたように、王子を見つめる。
「早く!」
「はい!」
ヨシュアは両腕を広げた。
銀色の魚がその間をすり抜ける。
「あっ」
「何をしているんだ!」
「申し訳ありません。見惚れてしまいました」
「魚に?」
「いいえ」
ヨシュアは嬉しそうに笑った。
それ以上は何も言わず、魚を追って走り出す。
王子もその背中を追った。
自分の言葉から丁寧さが消えていたことには、気づかなかった。
*
庭を歩けるようになると、次は城の中だった。
「探検をしましょう」
ヨシュアは、いつものように突然言った。
「この城は、もう知っています」
「本当に?」
「八年も住んでいますから」
「では、東の塔の最上階に何があるか、ご存じですか?」
王子は黙った。
離宮へ移された日から、ほとんど自室を出なかった。
厨房へ行ったことも、浴室以外の一階を歩いたことも、ヨシュアが来るまでは一度もない。
城に八年住んでいたのではない。
一つの部屋に、八年閉じ込められていただけだった。
「東の塔には、何があるのですか」
「それを確かめるのが、探検というものですよ」
ヨシュアは王子へ外套を着せた。
「城の中なのに?」
「探検家には外套が必要です」
「どうして」
「格好がよいからです」
深い青の外套には、以前より多くの星が刺繍されていた。
王子の背が少し伸びたため、仕立て直されている。
腰には小さな鞄を提げた。中には水筒と、林檎を挟んだパン、それから方位磁針が入っていた。
「城の中で迷うのですか」
「迷うかもしれません」
「ヨシュアがいるのに?」
「私が先に迷うかもしれませんよ」
「王宮魔導士なのに?」
「方向感覚と魔法は関係ありません」
ヨシュアも白い外套を羽織った。
王子のものと同じ星が、裾へ縫い取られている。
二人は並んで部屋を出た。
廊下には誰もいなかった。
王子が歩く時間には、使用人を近づけない決まりができているらしい。
以前は、そのほうが安心した。
今は、少し静かすぎると思うことがある。
「皆は、どこにいるのですか」
「お仕事中ですよ」
「見かけないけど」
「テオを怖がらせないよう、離れていただいているのです」
「もう、そんなに怖くない」
「そうですか?」
「ヨシュアがいるから」
ヨシュアは足を止めた。
「どうしたの?」
「いいえ」
金色の瞳が柔らかく細められる。
「とても嬉しいことを言っていただいたので」
王子は先へ歩いた。
何をそれほど喜ばれたのかわからない。
けれど、ヨシュアがついてくる足音を聞いていると、口元が緩んだ。
*
東の塔の最上階には、空があった。
扉を開けた先に、床がない。
壁も、天井もなかった。
星空だけが、どこまでも広がっている。
王子は入口で足を止めた。
あと一歩進めば、暗い空へ落ちるように見える。
「ヨシュア」
「大丈夫ですよ」
「床がない」
「あります」
「見えない」
「見えないだけです」
ヨシュアは先に足を踏み出した。
白い靴が、星空の上へ着く。
波紋が広がった。
夜空が水面のように揺れ、無数の星が足元から舞い上がる。
「ほら」
ヨシュアが手を差し出した。
王子は、その手を取った。
恐る恐る足を下ろす。
たしかに、何かがある。
透明な床。
歩くたび、星が足元からこぼれた。
「夜まで待たなくても、星を見られます」
ヨシュアは両手を広げた。
「ここは、テオの星空です」
「作ったの?」
「少しだけ、空を借りました」
ヨシュアが指を鳴らす。
遠くに星が集まり、大きな熊の形になった。
片方の目だけが青く輝いている。
王子は息を呑んだ。
「熊です」
「ええ」
「僕の?」
「世界に一匹しかいない熊ですから」
星の熊が歩き出した。
四本の足で夜空を踏み、王子の前へ来る。
鼻先を差し出した。
触れると、星が指の間で明滅する。
温かかった。
「名前をつけますか?」
ヨシュアが尋ねた。
「この子は、熊です」
「それが名前ですか?」
「ずっと、そう呼んでいました」
「では、熊ですね」
ヨシュアは星の獣へ頭を下げた。
「初めまして、熊」
王子は笑った。
「変な挨拶」
「名前をいただいたのですから、必要でしょう?」
星の熊が背を低くした。
乗れと言っているらしい。
王子はヨシュアに支えられ、その背へ跨った。
「ヨシュアも」
「私は歩きますよ」
「一緒に乗れる」
「では、失礼して」
ヨシュアが後ろへ乗る。
白い腕が、王子の身体を支えるように回った。
星の熊は夜空を駆け出した。
二人を乗せ、星座の間を走る。
流星の群れを追い越し、月の輪をくぐり抜けた。
王子は何度も笑った。
声を上げるたび、背後のヨシュアも笑った。
その日から、東の塔は二人の星空になった。




