ずっと一緒
アルバが宙を舞う。
生垣の兎が跳び、背中で受け止めた。
王子はヨシュアの胸元へ倒れ込んでいた。
銀色の水滴が、二人の髪や服を濡らしている。
「大丈夫ですか?」
ヨシュアが尋ねた。
白い髪が顔へ張りついていた。
金色の瞳は心配そうに王子を見つめている。
その姿が、いつものヨシュアとは違って見えた。
あまりにもおかしくて。
王子は吹き出した。
「髪が」
「私の?」
「顔に、全部」
笑いながら、ヨシュアの髪を指で払う。
けれど濡れた髪は、すぐにまた頬へ落ちた。
「テオも、ずぶ濡れですよ」
「魚が水になったからです」
「魚は水の中にいるものですからね」
「空を泳がせたのはヨシュアです」
「それもそうですね」
ヨシュアも笑った。
二人は濡れたまま、草の上に寝転がった。
空を魚が泳いでいる。
色づいた葉の鳥が飛び、生垣の動物たちが庭を駆けている。
王子は息を切らしていた。
胸が大きく上下している。
足は疲れ、喉も痛い。
それでも、苦しくなかった。
「僕、走りました」
「ええ」
「庭を」
「とても速かったですよ」
「兄上たちよりは、遅いです」
「私は、テオが走っているところを見られただけで幸せです」
ヨシュアは、王子の濡れた前髪を払った。
「楽しそうでした」
「楽しかったです」
王子は空へ手を伸ばした。
指の間を、銀色の魚が泳いでいく。
「外へ来て、よかったです」
その声に、迷いはなかった。
ヨシュアは目を細めた。
「では、また来ましょう」
「明日も?」
「もちろん」
「雨だったら?」
「雨の庭で遊びましょう」
「寒かったら?」
「雪を降らせます」
「もっと寒くなります」
「では、夏にしましょう」
「季節を変えてはいけません」
「難しいですね」
王子はまた笑った。
*
そのあとは、青い花を探した。
ヨシュアが庭中へ隠したらしい。
噴水の縁。
東屋の屋根。
生垣の熊の耳。
飛んでいる魚の背にも、一輪だけ咲いていた。
見つけるたびに王子は指を差し、ヨシュアが数を数えた。
「十七です」
「十八です。噴水の魚にもありました」
「あれは魚では?」
「背中に咲いていました」
「では、十八」
「ヨシュアは数えるのが苦手なのですか」
「テオを見るのに忙しくて」
「僕を数えているのですか」
「はい」
「僕は一人です」
「大切な一人です」
王子は答えず、次の花を探した。
耳が熱くなっていた。
東屋へ着くと、卓上に昼食が並んでいた。
誰が運んだのかわからない。
籠に入ったパン。
果物。
冷たい茶。
王子の好きな林檎の煮物。
「用意していたのですか」
「庭へ来ると、お腹が空くでしょう?」
「僕が来ないと言ったら?」
「明日まで待ちました」
「明日も来なかったら?」
「明後日まで」
「食べ物が悪くなります」
「作り直します」
ヨシュアは椅子を引いた。
王子はアルバを隣の席へ座らせる。
生垣の兎も東屋の外で伏せ、こちらを見ていた。
「欲しそうです」
「葉でできていますから、パンは食べられませんよ」
「かわいそうです」
「では、食べられるようにしましょうか」
「魔法で?」
「はい」
「そこまでしなくていいです」
ヨシュアは生垣の兎へ顔を向けた。
「残念でしたね」
兎は耳を垂らした。
「わざとですか」
「何がでしょう?」
「悲しそうな顔をさせました」
「まさか」
ヨシュアは澄ました顔をしている。
王子はパンを小さくちぎり、生垣の兎の前へ置いた。
兎は鼻先を近づける。
口は開かない。
「食べられないのでしょう」
「気持ちです」
「なるほど」
ヨシュアは嬉しそうに王子を見つめた。
「やはり、テオは優しいですね」
王子は自分の席へ戻った。
卓上の林檎を一切れ食べる。
「ヨシュアも食べてください」
「私は――」
「見ているほうが楽しい、は駄目です」
ヨシュアは目を丸くした。
「どうしてですか?」
「僕ばかり食べているのは、嫌です」
「では、いただきます」
ヨシュアは王子の向かいへ座った。
同じパンを取り、同じ林檎を食べる。
「おいしいですか?」
王子が尋ねた。
いつもヨシュアがするように。
ヨシュアは少し考えてから、笑った。
「はい」
「本当に?」
「本当です」
「よかった」
王子も笑った。
初めて、二人で同じ食事をした。
*
夕暮れまで庭で過ごした。
走り疲れた王子は、帰りにはヨシュアの背へ負ぶわれていた。
抱き上げられるよりは恥ずかしくない、と主張した結果だった。
背中は温かく、歩くたびに白い髪が頬へ触れた。
王子は片手でアルバを抱き、もう片方の腕をヨシュアの首へ回している。
「眠ってもよいですよ」
「眠くありません」
「そうですか」
「まだ、庭を見ています」
ヨシュアの肩越しに、庭が遠ざかっていく。
銀の魚は噴水へ戻り、生垣の動物も元の場所へ帰っていた。
青い花だけが、夕風の中で揺れている。
「明日も来ます」
「はい」
「明後日も」
「もちろん」
「その次も」
「毎日でも」
ヨシュアは足を止めた。
王子を背負ったまま、振り返る。
「この庭は、すべてテオのものです」
「僕の?」
「ええ。花も、噴水も、空を泳ぐ魚も」
「空も?」
「お望みなら」
「空は、皆のものです」
「では、テオの空を作りましょうか」
「いりません」
王子は笑った。
ヨシュアも笑った。
離宮の窓には、厚い幕が下りたままだった。
誰もこちらを見ていない。
誰も王子を悪魔の子と呼ばない。
庭には二人しかいなかった。
そのことを寂しいとは思わなかった。
王子はヨシュアの肩へ頬を寄せた。
「今日は、楽しかったです」
「私もです」
「ヨシュアも?」
「ええ」
「何をしたから?」
「テオが笑っていたからです」
答えは、最初から決まっていたようだった。
王子は目を閉じた。
ヨシュアの背に揺られながら、今日一日のことを思い返す。
空を泳ぐ魚。
動く生垣。
名前をもらった白い兎。
草の匂い。
水の冷たさ。
自分の足で走ったこと。
そのすべての中心に、ヨシュアがいた。
「また明日、遊びましょうね。テオ」
「はい」
王子は微笑んだ。
その頃、城の中では、窓を塞がれた使用人たちが、誰一人言葉を交わすことなく働いていた。




