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第9話 氷解、そして本当の体温

第9話 氷解、そして本当の体温


雪が止んでいた。


長く続いた嵐のあとみたいに、レードル公爵邸は静まり返っている。


もう怒鳴り声は聞こえなかった。


廊下を走る足音も。

誰かを責め立てる叫びも。

泣き落としも。


全部、消えた。


前公爵は不正資金と違法担保契約の責任を問われ、爵位剥奪のうえ帝都から追放。


エドワードも公金横領で財産没収。


フォルクレイン伯爵家も、公爵家乗っ取りの証拠書簡が決定打となり、交易権を失った。


皆、最後まで「自分は悪くない」と叫んでいた。


けれど法廷では、感情より書類が強い。


泣いても。

怒鳴っても。

数字は変わらなかった。


エルナは窓辺で静かに紅茶を飲んでいた。


今日はセイロンだった。


透明感のある香りが、冬の朝によく合う。


窓の外では、庭師たちが雪かきをしている。積もった雪に陽光が反射して、白く眩しかった。


「……静かだな」


低い声がした。


振り返ると、ギルバートが立っていた。


黒いシャツ姿のまま、少し疲れた顔をしている。


けれど以前みたいな刺々しさは薄れていた。


エルナの視界へ浮かぶ温度も穏やかだ。


【疲労:40度】

【安堵:30度】


そして。


【安心:36.5度】


エルナは小さく瞬きをした。


平熱。


初めて見る温度だった。


ギルバート自身も気づいていないらしい。


彼は窓の外を見ながら言う。


「使用人たちが怯えなくなった」


「はい」


「廊下で話し声がする」


「以前は皆様、怒鳴り声を警戒しておりましたので」


ギルバートは苦く笑った。


「……私のせいか」


「半分くらいです」


「半分もあるのか」


「大きな声でしたので」


ギルバートが小さく息を漏らす。


それは笑いだった。


以前なら考えられないほど静かな笑い。


エルナはその変化を眺める。


怒りで燃えていた人が、ようやく冷えてきている。


暖炉の火がぱちりと鳴った。


窓から差し込む冬の日差しが、室内を柔らかく照らしている。


穏やかだった。


本当に。


信じられないくらいに。


ギルバートはソファへ腰を下ろした。


「妙だな」


「何がでしょう」


「静かなのに、苦しくない」


エルナは少し考えた。


それから紅茶を注ぎ足す。


湯気が立ちのぼる。


「皆様、感情は激しいほど価値があると仰いますから」


「ああ」


「ですので、静かな場所を知らないのかもしれません」


ギルバートは黙る。


カップを受け取り、一口飲んだ。


熱が喉を通る。


苦味のあとに、柔らかな甘みが残る。


「……美味いな」


「今日は蒸らし時間が丁度でしたので」


「そうか」


また静寂が落ちる。


けれど不思議と居心地が悪くない。


昔のギルバートなら、黙っている時間に耐えられなかった。


沈黙はいつも嵐の前触れだったから。


父親の怒声。

母の泣き声。

愛人たちの罵倒。


静かな瞬間ほど怖かった。


次に何が爆発するのか分からなかったから。


だが今は違う。


ただ、静かだった。


暖炉の火が揺れる。

時計の針が進む。

紅茶の香りが漂う。


それだけだ。


ギルバートはゆっくり息を吐いた。


「……私は」


珍しく、言葉を探すみたいに間が空く。


エルナは急かさなかった。


ギルバートは低い声で続ける。


「昔から、怒鳴らないと駄目だと思っていた」


「はい」


「感情をぶつけないと、舐められると」


「そういう環境でしたので」


「父はいつもそうだった」


ギルバートの視線が遠くなる。


「愛していると言いながら怒鳴って、殴って、壊して……それでも『家族だから許せ』と言った」


エルナは静かに聞いていた。


ギルバートは自嘲気味に笑う。


「気づけば私も同じだった」


「少し違います」


「……何?」


「旦那様は途中で止まりましたので」


ギルバートが目を見開く。


エルナは淡々と続ける。


「前公爵様は、最後まで止まりませんでした」


暖炉の火が静かに揺れた。


ギルバートはしばらく黙っていた。


それからぽつりと呟く。


「……君は、本当に妙な女だな」


「よく言われます」


「慰めるでもなく、否定するでもなく、ただ事実だけ置いていく」


「その方が分かりやすいので」


ギルバートは小さく笑った。


その瞬間、温度が少し上がる。


【安心:36.5度】

【信頼:42度】


穏やかだった。


怒りの赤ではない。


柔らかい陽だまりみたいな色。


ギルバートはカップを置く。


そして真っ直ぐエルナを見た。


「エルナ」


「はい」


「私は君がいてくれないと」


その声は、驚くほど静かだった。


「また、あの嵐に飲み込まれる」


エルナは瞬きをする。


ギルバートは続けた。


「離縁など絶対にしない」


以前の彼なら、もっと激情的に言っただろう。


怒鳴るように。

独占するように。


だが今は違う。


静かな声だった。


だからこそ重かった。


「君が必要だ」


それは愛の告白というより。


心からの信頼だった。


エルナはしばらく黙っていた。


胸の奥が少しだけ温かい。


不思議な感覚だった。


熱いわけではない。


苦しくもない。


ただ、じんわりしている。


エルナはそっとギルバートの頭上を見る。


【安心:36.5度】


平熱。


普通の人間の温度。


そしてその隣に、もう一つ。


【エルナへの信頼:48度】


エルナは小さく目を細めた。


「旦那様」


「何だ」


「その温度なら」


「……?」


「お茶が冷めにくくて、丁度良いですね」


ギルバートは一瞬ぽかんとして。


それから、声を上げずに笑った。


その笑い声は、冬の陽だまりみたいに静かだった。



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