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第10話 ただ紅茶が美味しいだけの場所

第10話 ただ紅茶が美味しいだけの場所


春だった。


長い冬が終わり、レードル公爵邸の庭園には柔らかな陽射しが降り注いでいる。


白薔薇のアーチ。

風に揺れるラベンダー。

ローズマリーとミントの青い香り。


以前はどこか冷たく張り詰めていた屋敷も、今は別の場所みたいに穏やかだった。


使用人たちは廊下で普通に笑うようになった。


料理人は新作の菓子を競い始めた。


庭師は鼻歌を歌いながら薔薇を剪定している。


怒鳴り声で空気が震えることは、もうない。


エルナは庭園の東屋で、静かにティーポットを温めていた。


今日は春摘みのダージリンだった。


若い茶葉特有の爽やかな香りが、花の匂いと混ざり合っている。


銀のポットへ湯を注ぐ。


白い蒸気が春風に溶けていった。


「奥様」


後ろから侍女が嬉しそうに声をかける。


「今年の収支報告、すごいですよ!」


「そうですか」


「無駄な支出が減ったおかげで、北領の冬支度費用まで余裕が出たそうです!」


エルナは静かに頷いた。


帳簿整理。

契約見直し。

不要経費削減。


ただ淡々と処理しただけだ。


だが結果として、公爵家の財政は劇的に改善していた。


「あと、使用人たちの間で奥様は『氷の書記官』って呼ばれてます」


「なるほど」


「怒らないんですか!?」


「事実ですので」


侍女がくすくす笑う。


以前なら、この屋敷でこんな笑い声は聞こえなかった。


エルナは少しだけ目を細める。


悪くない。


その時、足音が近づいてきた。


「また妙な二つ名が増えているな」


ギルバートだった。


黒い上着を肩に掛けたまま、呆れた顔をしている。


けれどその表情は柔らかい。


昔みたいな鋭さがない。


エルナの視界に浮かぶ温度も穏やかだった。


【安心:36.5度】


そして、その奥。


【エルナへの深い愛情:ひだまりの温度】


エルナは小さく瞬きをした。


数値ではなかった。


初めて見る表示だ。


まるで春の日向みたいに、柔らかく暖かい。


ギルバートは向かいへ腰を下ろす。


「いい香りだな」


「今日は春摘みですので」


「君の淹れる茶は、本当に落ち着く」


「温度管理をしておりますので」


「そういう問題か?」


「大事です」


エルナは真顔だった。


ギルバートが小さく笑う。


その笑い方も、以前とは違う。


誰かを威圧するためではない。


自然に零れる笑いだった。


風が吹く。


薔薇の花弁が一枚、テーブルへ落ちた。


遠くで小鳥が鳴いている。


静かだった。


ただ静かで、穏やかだった。


ギルバートは紅茶を一口飲み、ふっと息を吐く。


「……昔の私は、静かな場所が嫌いだった」


「はい」


「沈黙はいつも、嵐の前だったからな」


エルナは黙って聞いていた。


ギルバートは庭園を眺めながら続ける。


「父は怒鳴り、母は泣き、愛人たちは喚いていた。誰かが感情を爆発させていないと、逆に不安だった」


「慣れていたのですね」


「ああ」


ギルバートは苦笑する。


「今思えば、異常だったが」


エルナはティーカップを持ち上げた。


温かい。


丁度いい温度だ。


ギルバートが彼女を見る。


「君は変えたな」


「何をでしょう」


「この家を」


エルナは少し考えた。


そして静かに首を振る。


「いいえ」


「……違うのか?」


「皆様が勝手に壊れただけです」


ギルバートが吹き出した。


「相変わらず容赦がないな」


「事実ですので」


「だが、その通りだ」


前公爵。

エドワード。

伯爵家。


皆、自分の熱に呑まれて自滅した。


エルナはただ、書類を並べて、数字を整理していただけ。


すると勝手に崩れていったのだ。


ギルバートは穏やかな目でエルナを見る。


「それでも私は、君に救われた」


エルナは少し黙る。


救う。


その感覚は、まだよく分からない。


自分はただ、整理していただけだ。


感情は苦手だった。


今でも、たぶん。


けれど。


ギルバートの頭上に浮かぶ温度を見ると、不思議と胸が静かになる。


【深い愛情:ひだまりの温度】


熱すぎない。


苦しくない。


ただ、柔らかい。


エルナはぼんやりと思う。


――不思議ですね。


昔は、感情は全部「痛み」だった。


怒りは火傷みたいで。

悲しみは冷水みたいで。

愛情は、鎖みたいだった。


なのに今は違う。


暖炉の火みたいに、ただ部屋を暖かくしている。


ギルバートがぽつりと言う。


「エルナ」


「はい」


「君は、幸せか」


風が止んだ。


庭園の花々が静かに揺れている。


エルナは少し考えた。


幸せ。


難しい言葉だった。


けれど。


温かい紅茶がある。

静かな部屋がある。

怒鳴り声はもうない。


目の前には、穏やかな顔で自分を見る人がいる。


エルナはカップを両手で包み込んだ。


じんわりと熱が伝わる。


そして、本当に少しだけ。


ほんの少しだけ口元を緩めた。


「よくわかりませんが」


ギルバートが目を細める。


エルナは静かに続けた。


「この温度なら、お茶が冷めにくくて丁度いいですね」


春の風が吹き抜ける。


ひだまりの中で、ギルバートは小さく笑った。


その笑い声はもう、誰も傷つけなかった。



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