表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/11

第7話 冷徹な書記官の「ざまぁ」の導火線

第7話 冷徹な書記官の「ざまぁ」の導火線


広間の空気は、完全に壊れていた。


前公爵の怒鳴り声。

愛人の悲鳴。

エドワードの焦った弁明。


それらが混ざり合い、まるで煮え立つ鍋みたいにぐつぐつと音を立てている。


その中心で、エルナだけが静かだった。


ティーカップから立ちのぼる湯気を見つめながら、淡々と紅茶を飲んでいる。


ダージリン。


今日は少し深めに蒸らした。


苦味が強い。


今の空気によく合っていた。


「貴様ァ!!」


前公爵が机を叩いた。


顔を真っ赤にし、額へ血管を浮かべている。


【怒り:190度】


かなり高温だ。


エルナはぼんやり思う。


――もう少しで吹きこぼれそうですね。


前公爵は唾を飛ばしながら怒鳴った。


「なんて冷酷な女だ!!」


「ありがとうございます」


「褒めておらん!!」


「存じております」


「ギルバート!! こんな女を妻にするとはどういうつもりだ!」


突然話を振られたギルバートが眉を寄せる。


だが彼はまだ黙っていた。


視線だけがエルナを追っている。


前公爵はさらに怒鳴る。


「この女は家族を壊そうとしている!」


「壊れているのでは?」


エルナが静かに言った。


広間が凍る。


愛人が引きつった声を出す。


「ちょ、ちょっとあなた……この子怖いわよ……」


「黙っていろ!」


前公爵は激昂したままエルナを睨みつけた。


「お前など追い出してやる! 今すぐ離縁だ!!」


その瞬間。


使用人たちがざわついた。


だがエルナは、まるで天気の話でも聞いたように頷いた。


「構いません」


全員が止まる。


ギルバートさえ目を見開いた。


「……は?」


エルナはカップを置いた。


小さな音が、静まり返った広間へ響く。


「私はただの身代わりですので」


静かな声だった。


「いつでも離縁していただいて結構です」


ギルバートの表情が険しくなる。


だがエルナは続けた。


「ただし、その前に」


机の上へ、分厚い帳簿を置く。


どさり、と重い音。


「この『未整理の負債』を、どなたが支払うか決めてください」


前公爵の顔色が変わった。


【焦り:120度】


エドワードも青ざめる。


エルナは帳簿を開く。


乾いた紙の匂い。

古いインク。

指先に伝わるざらつき。


「前公爵様名義の借入金」

「愛人様への別邸維持費」

「エドワード様の公金使用分」


ぱらり。


ページが捲れる。


「合わせて八十七万リルです」


愛人が悲鳴を上げた。


「は、八十七万!?」


「おや、聞いておられなかったのですか」


「あなた!?」


愛人が前公爵へ掴みかかる。


「公爵家は安泰だって言ったじゃない!!」


「お前のために使った金だろうが!」


「知らないわよ!!」


また始まった。


怒鳴り合い。


責任転嫁。


ギルバートは無言でそれを見ている。


その頭上では。


【絶望:-40度】


少しだけ戻っていた。


代わりに新しい温度が浮かんでいる。


【困惑:70度】


エルナを見ている。


まるで理解不能な生き物を見るみたいに。


その時だった。


エドワードが急に声を張り上げた。


「そ、そんなの僕だけの責任じゃない!」


皆の視線が向く。


エドワードは必死に言葉を繋げた。


「兄上だって悪いんだ! 冷たいから! 僕を追い詰めたから!」


【自己保身:180度】


熱い。


焦げつきそうなほど。


エルナは静かに彼を見た。


「では」


「え?」


「追い詰められると、人は公金で宝石を買うのですね」


「っ……!」


「勉強になります」


エドワードの顔が真っ赤になる。


使用人の一人が吹き出しかけ、慌てて口を押さえた。


空気が変わっていた。


以前ならエドワードが涙声を出した瞬間、皆が同情した。


だが今は違う。


感情より先に、数字が浮かぶ。


宝石。

酒。

劇場。

八十七万リル。


温度が下がったせいだ。


すると前公爵が突然、エルナを指差した。


「そもそも全部この女のせいだ!!」


「私ですか」


「お前が余計なことを暴くから!」


「はい」


「黙っていれば済んだものを!」


「つまり」


エルナは首を傾げた。


「隠したかったのですね」


「っ!!」


前公爵が詰まる。


エルナはさらにテーブルへ書類を並べ始めた。


一枚。

二枚。

三枚。


ギルバートが眉を寄せる。


「……それは何だ」


「伯爵家からの書簡です」


空気が止まった。


伯爵家。


エルナの実家だ。


前公爵の目が泳ぐ。


【焦り:150度】


エルナは封蝋を見せた。


見慣れた伯爵家の紋章。


そして淡々と読み上げる。


「『レードル公爵家の混乱に乗じ、北方交易権の一部をこちらへ譲渡させる件について』」


ギルバートの目つきが変わる。


広間の温度が一気に冷えた。


「……何だと」


エルナは続ける。


「『ギルバート殿は激情家ゆえ、いずれ自滅するでしょう。その際は我が娘セシリアを正式な後妻として――』」


ぴしり、と。


何かが割れる音がした。


前公爵だった。


顔色が真っ青になっている。


エドワードも固まっていた。


ギルバートは低い声で言う。


「父上」


その声音に、広間中が震えた。


怒鳴っていない。


だが今までで一番冷たい。


【怒り:50度】

【殺意:90度】


前公爵が後退る。


「ち、違う! それは!」


「伯爵家と繋がっていたのか」


「私はただ家族のためを――」


「家族?」


ギルバートが笑った。


初めて見る笑みだった。


冷たい。


何もかも凍らせるような笑み。


「公爵家を売ることがか」


前公爵が言葉を失う。


愛人は完全に距離を取っていた。


エドワードは汗を流し続けている。


エルナだけが静かに紅茶を飲んでいた。


苦味が少し強い。


でも悪くない。


そして彼女は思う。


――なるほど。


「ざまぁ」というのは。


怒鳴ることではなく。


勝手に崩れ始めた積み木を、静かに眺めることなのですね。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ