第7話 冷徹な書記官の「ざまぁ」の導火線
第7話 冷徹な書記官の「ざまぁ」の導火線
広間の空気は、完全に壊れていた。
前公爵の怒鳴り声。
愛人の悲鳴。
エドワードの焦った弁明。
それらが混ざり合い、まるで煮え立つ鍋みたいにぐつぐつと音を立てている。
その中心で、エルナだけが静かだった。
ティーカップから立ちのぼる湯気を見つめながら、淡々と紅茶を飲んでいる。
ダージリン。
今日は少し深めに蒸らした。
苦味が強い。
今の空気によく合っていた。
「貴様ァ!!」
前公爵が机を叩いた。
顔を真っ赤にし、額へ血管を浮かべている。
【怒り:190度】
かなり高温だ。
エルナはぼんやり思う。
――もう少しで吹きこぼれそうですね。
前公爵は唾を飛ばしながら怒鳴った。
「なんて冷酷な女だ!!」
「ありがとうございます」
「褒めておらん!!」
「存じております」
「ギルバート!! こんな女を妻にするとはどういうつもりだ!」
突然話を振られたギルバートが眉を寄せる。
だが彼はまだ黙っていた。
視線だけがエルナを追っている。
前公爵はさらに怒鳴る。
「この女は家族を壊そうとしている!」
「壊れているのでは?」
エルナが静かに言った。
広間が凍る。
愛人が引きつった声を出す。
「ちょ、ちょっとあなた……この子怖いわよ……」
「黙っていろ!」
前公爵は激昂したままエルナを睨みつけた。
「お前など追い出してやる! 今すぐ離縁だ!!」
その瞬間。
使用人たちがざわついた。
だがエルナは、まるで天気の話でも聞いたように頷いた。
「構いません」
全員が止まる。
ギルバートさえ目を見開いた。
「……は?」
エルナはカップを置いた。
小さな音が、静まり返った広間へ響く。
「私はただの身代わりですので」
静かな声だった。
「いつでも離縁していただいて結構です」
ギルバートの表情が険しくなる。
だがエルナは続けた。
「ただし、その前に」
机の上へ、分厚い帳簿を置く。
どさり、と重い音。
「この『未整理の負債』を、どなたが支払うか決めてください」
前公爵の顔色が変わった。
【焦り:120度】
エドワードも青ざめる。
エルナは帳簿を開く。
乾いた紙の匂い。
古いインク。
指先に伝わるざらつき。
「前公爵様名義の借入金」
「愛人様への別邸維持費」
「エドワード様の公金使用分」
ぱらり。
ページが捲れる。
「合わせて八十七万リルです」
愛人が悲鳴を上げた。
「は、八十七万!?」
「おや、聞いておられなかったのですか」
「あなた!?」
愛人が前公爵へ掴みかかる。
「公爵家は安泰だって言ったじゃない!!」
「お前のために使った金だろうが!」
「知らないわよ!!」
また始まった。
怒鳴り合い。
責任転嫁。
ギルバートは無言でそれを見ている。
その頭上では。
【絶望:-40度】
少しだけ戻っていた。
代わりに新しい温度が浮かんでいる。
【困惑:70度】
エルナを見ている。
まるで理解不能な生き物を見るみたいに。
その時だった。
エドワードが急に声を張り上げた。
「そ、そんなの僕だけの責任じゃない!」
皆の視線が向く。
エドワードは必死に言葉を繋げた。
「兄上だって悪いんだ! 冷たいから! 僕を追い詰めたから!」
【自己保身:180度】
熱い。
焦げつきそうなほど。
エルナは静かに彼を見た。
「では」
「え?」
「追い詰められると、人は公金で宝石を買うのですね」
「っ……!」
「勉強になります」
エドワードの顔が真っ赤になる。
使用人の一人が吹き出しかけ、慌てて口を押さえた。
空気が変わっていた。
以前ならエドワードが涙声を出した瞬間、皆が同情した。
だが今は違う。
感情より先に、数字が浮かぶ。
宝石。
酒。
劇場。
八十七万リル。
温度が下がったせいだ。
すると前公爵が突然、エルナを指差した。
「そもそも全部この女のせいだ!!」
「私ですか」
「お前が余計なことを暴くから!」
「はい」
「黙っていれば済んだものを!」
「つまり」
エルナは首を傾げた。
「隠したかったのですね」
「っ!!」
前公爵が詰まる。
エルナはさらにテーブルへ書類を並べ始めた。
一枚。
二枚。
三枚。
ギルバートが眉を寄せる。
「……それは何だ」
「伯爵家からの書簡です」
空気が止まった。
伯爵家。
エルナの実家だ。
前公爵の目が泳ぐ。
【焦り:150度】
エルナは封蝋を見せた。
見慣れた伯爵家の紋章。
そして淡々と読み上げる。
「『レードル公爵家の混乱に乗じ、北方交易権の一部をこちらへ譲渡させる件について』」
ギルバートの目つきが変わる。
広間の温度が一気に冷えた。
「……何だと」
エルナは続ける。
「『ギルバート殿は激情家ゆえ、いずれ自滅するでしょう。その際は我が娘セシリアを正式な後妻として――』」
ぴしり、と。
何かが割れる音がした。
前公爵だった。
顔色が真っ青になっている。
エドワードも固まっていた。
ギルバートは低い声で言う。
「父上」
その声音に、広間中が震えた。
怒鳴っていない。
だが今までで一番冷たい。
【怒り:50度】
【殺意:90度】
前公爵が後退る。
「ち、違う! それは!」
「伯爵家と繋がっていたのか」
「私はただ家族のためを――」
「家族?」
ギルバートが笑った。
初めて見る笑みだった。
冷たい。
何もかも凍らせるような笑み。
「公爵家を売ることがか」
前公爵が言葉を失う。
愛人は完全に距離を取っていた。
エドワードは汗を流し続けている。
エルナだけが静かに紅茶を飲んでいた。
苦味が少し強い。
でも悪くない。
そして彼女は思う。
――なるほど。
「ざまぁ」というのは。
怒鳴ることではなく。
勝手に崩れ始めた積み木を、静かに眺めることなのですね。




