第6話 前公爵の襲来と「家族の絆」という呪い
第6話 前公爵の襲来と「家族の絆」という呪い
その男が公爵邸へ現れた瞬間、屋敷中の空気が変わった。
まるで古傷を無理やり抉るような、不快な熱。
玄関ホールにいた使用人たちは、一斉に顔色を変えた。
「あ……」
「前公爵様……」
重たい扉が開く。
毛皮の外套を翻しながら入ってきた男は、年齢を重ねてもなお威圧感に満ちていた。
レオンハルト・フォン・レードル。
先代公爵。
ギルバートの父親。
そして、この公爵家の泥沼を作った元凶。
彼の隣には、派手な香水を纏った女が腕を絡めている。新しい愛人だろう。
甘ったるい香りが廊下へ広がり、エルナは少しだけ眉を寄せた。
強すぎる匂いは苦手だった。
前公爵は使用人たちを見渡すと、大声で笑った。
「はっはっは! 相変わらず陰気な屋敷だな!」
愛人が媚びるように笑う。
「まあ、あなた様ったら」
その瞬間、階段を下りてきたギルバートの足が止まった。
空気が変わる。
エルナの視界に浮かぶ温度が、一気に崩れた。
【怒り:120度】
違う。
その奥。
もっと深い場所。
【絶望:-50度】
エルナは瞬きをした。
初めて見る温度だった。
まるで真冬の湖底みたいに冷たい。
ギルバートの顔色が、わずかに白い。
前公爵はそんな息子を見るなり、鼻で笑った。
「久しぶりだな、ギルバート」
「……何の用だ」
「息子の顔を見に来た父親へ、その態度か?」
「用件を言え」
「相変わらず冷たい男だ!」
怒鳴ったのは前公爵の方だった。
だが周囲の空気は、どこか怯えている。
昔からそうだったのだろう。
この男は、自分が怒鳴る側でいることに慣れきっている。
前公爵は広間へずかずか進みながら言った。
「聞いたぞ! お前がエドワードを虐げているそうじゃないか!」
奥から現れたエドワードが、待っていましたとばかりに俯く。
「父上……僕は大丈夫です……」
【計算:95度】
元気そうだった。
前公爵は息子の肩を抱く。
「なんて健気なんだ! 兄に苦しめられているというのに!」
ギルバートの拳が震える。
けれど怒鳴らない。
いや。
怒鳴れない。
【絶望:-65度】
温度が下がっていく。
エルナは静かに気づいた。
この人は父親に逆らえない。
幼い頃から、ずっと。
前公爵は大仰に両腕を広げた。
「家族とは愛だ!」
広間に声が響く。
「血の繋がりだ! 絆だ! 許し合う心だ!」
愛人がうっとりと頷く。
使用人たちも困惑しながら黙っている。
前公爵はギルバートを指差した。
「お前は昔から冷酷だった! 感情が足りん! だから弟を追い詰める!」
「……」
「当主失格だ!」
その瞬間。
ギルバートの温度がさらに落ちた。
【絶望:-80度】
冷たい。
見ているこちらが凍えそうなほど。
エルナは少しだけ目を細めた。
なるほど。
この言葉で、ずっと縛られてきたのか。
『お前は冷たい』
『愛がない』
『家族を大切にしろ』
そう責められ続けた。
父親自身が家族を壊したくせに。
エルナは静かに口を開く。
「愛、ですか」
広間の視線が一斉に向いた。
前公爵が眉をひそめる。
「何だ、お前は」
「妻です」
「……ああ、あの出来損ないか」
愛人がくすくす笑った。
「目が死んでて怖い方よねぇ」
エルナは気にしなかった。
ただ、近くのテーブルへ書類を並べ始める。
ぱさり。
ぱさり。
古い羊皮紙の乾いた音。
前公爵が訝しげな顔をする。
「何をしている」
「整理です」
「は?」
エルナは一枚の紙を持ち上げた。
「こちら、五年前の借用書です」
「……」
「前公爵様名義で、二十万リル」
前公爵の顔がぴくりと動く。
愛人が目を瞬かせた。
エルナはさらに並べる。
「こちらは愛人三号様への別邸購入費」
「こちらは愛人七号様への宝飾代」
「こちらは――」
「やめろ!」
前公爵が怒鳴った。
【怒り:170度】
エルナは淡々と続ける。
「愛、なのですよね」
「貴様……!」
「では、その『愛』の具体的な内訳を契約書にしましょう」
広間が静まり返る。
暖炉の火が揺れる音だけが響いた。
エルナは書類を一枚ずつ整えていく。
「愛人への毎月手当」
「別邸維持費」
「贈与記録」
「借入金返済遅延」
そして最後に、一枚の紙を置いた。
「こちら、公爵家名義で担保設定されています」
ギルバートが目を見開く。
「……父上」
前公爵の額に汗が滲んだ。
【焦り:90度】
愛人が狼狽える。
「ちょ、ちょっとあなた……聞いてないわよ……!」
「黙れ!」
「だって公爵家のお金は大丈夫って――」
「黙れと言っている!!」
怒鳴り声。
怒気。
混乱。
広間の温度がぐちゃぐちゃに乱れる。
だがエルナだけは静かだった。
「家族の絆は素晴らしいですね」
淡々とした声だった。
「なので当然、負債も家族で分かち合うおつもりかと」
前公爵の顔が引き攣る。
「……何?」
「愛とは支え合いでしょう?」
「っ……!」
エドワードが青ざめた。
【焦り:130度】
愛人は完全に前公爵から距離を取っている。
「わ、私は関係ないわよ!?」
「君のために払ったんだぞ!」
「知らないわよそんなの!」
ギルバートは呆然と立ち尽くしていた。
目の前で繰り広げられる醜い言い争い。
愛を語っていた男が、金の話になった瞬間、責任を押し付け始める。
エルナは静かに紅茶を口へ運んだ。
少し冷めている。
だが飲めないほどではない。
そして彼女は思った。
――なるほど。
この人たちは。
「愛」という言葉を。
責任逃れの毛布にしていただけなのですね。




