表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/11

第6話 前公爵の襲来と「家族の絆」という呪い

第6話 前公爵の襲来と「家族の絆」という呪い


その男が公爵邸へ現れた瞬間、屋敷中の空気が変わった。


まるで古傷を無理やり抉るような、不快な熱。


玄関ホールにいた使用人たちは、一斉に顔色を変えた。


「あ……」

「前公爵様……」


重たい扉が開く。


毛皮の外套を翻しながら入ってきた男は、年齢を重ねてもなお威圧感に満ちていた。


レオンハルト・フォン・レードル。


先代公爵。


ギルバートの父親。


そして、この公爵家の泥沼を作った元凶。


彼の隣には、派手な香水を纏った女が腕を絡めている。新しい愛人だろう。


甘ったるい香りが廊下へ広がり、エルナは少しだけ眉を寄せた。


強すぎる匂いは苦手だった。


前公爵は使用人たちを見渡すと、大声で笑った。


「はっはっは! 相変わらず陰気な屋敷だな!」


愛人が媚びるように笑う。


「まあ、あなた様ったら」


その瞬間、階段を下りてきたギルバートの足が止まった。


空気が変わる。


エルナの視界に浮かぶ温度が、一気に崩れた。


【怒り:120度】


違う。


その奥。


もっと深い場所。


【絶望:-50度】


エルナは瞬きをした。


初めて見る温度だった。


まるで真冬の湖底みたいに冷たい。


ギルバートの顔色が、わずかに白い。


前公爵はそんな息子を見るなり、鼻で笑った。


「久しぶりだな、ギルバート」


「……何の用だ」


「息子の顔を見に来た父親へ、その態度か?」


「用件を言え」


「相変わらず冷たい男だ!」


怒鳴ったのは前公爵の方だった。


だが周囲の空気は、どこか怯えている。


昔からそうだったのだろう。


この男は、自分が怒鳴る側でいることに慣れきっている。


前公爵は広間へずかずか進みながら言った。


「聞いたぞ! お前がエドワードを虐げているそうじゃないか!」


奥から現れたエドワードが、待っていましたとばかりに俯く。


「父上……僕は大丈夫です……」


【計算:95度】


元気そうだった。


前公爵は息子の肩を抱く。


「なんて健気なんだ! 兄に苦しめられているというのに!」


ギルバートの拳が震える。


けれど怒鳴らない。


いや。


怒鳴れない。


【絶望:-65度】


温度が下がっていく。


エルナは静かに気づいた。


この人は父親に逆らえない。


幼い頃から、ずっと。


前公爵は大仰に両腕を広げた。


「家族とは愛だ!」


広間に声が響く。


「血の繋がりだ! 絆だ! 許し合う心だ!」


愛人がうっとりと頷く。


使用人たちも困惑しながら黙っている。


前公爵はギルバートを指差した。


「お前は昔から冷酷だった! 感情が足りん! だから弟を追い詰める!」


「……」


「当主失格だ!」


その瞬間。


ギルバートの温度がさらに落ちた。


【絶望:-80度】


冷たい。


見ているこちらが凍えそうなほど。


エルナは少しだけ目を細めた。


なるほど。


この言葉で、ずっと縛られてきたのか。


『お前は冷たい』

『愛がない』

『家族を大切にしろ』


そう責められ続けた。


父親自身が家族を壊したくせに。


エルナは静かに口を開く。


「愛、ですか」


広間の視線が一斉に向いた。


前公爵が眉をひそめる。


「何だ、お前は」


「妻です」


「……ああ、あの出来損ないか」


愛人がくすくす笑った。


「目が死んでて怖い方よねぇ」


エルナは気にしなかった。


ただ、近くのテーブルへ書類を並べ始める。


ぱさり。

ぱさり。


古い羊皮紙の乾いた音。


前公爵が訝しげな顔をする。


「何をしている」


「整理です」


「は?」


エルナは一枚の紙を持ち上げた。


「こちら、五年前の借用書です」


「……」


「前公爵様名義で、二十万リル」


前公爵の顔がぴくりと動く。


愛人が目を瞬かせた。


エルナはさらに並べる。


「こちらは愛人三号様への別邸購入費」

「こちらは愛人七号様への宝飾代」

「こちらは――」


「やめろ!」


前公爵が怒鳴った。


【怒り:170度】


エルナは淡々と続ける。


「愛、なのですよね」


「貴様……!」


「では、その『愛』の具体的な内訳を契約書にしましょう」


広間が静まり返る。


暖炉の火が揺れる音だけが響いた。


エルナは書類を一枚ずつ整えていく。


「愛人への毎月手当」

「別邸維持費」

「贈与記録」

「借入金返済遅延」


そして最後に、一枚の紙を置いた。


「こちら、公爵家名義で担保設定されています」


ギルバートが目を見開く。


「……父上」


前公爵の額に汗が滲んだ。


【焦り:90度】


愛人が狼狽える。


「ちょ、ちょっとあなた……聞いてないわよ……!」


「黙れ!」


「だって公爵家のお金は大丈夫って――」


「黙れと言っている!!」


怒鳴り声。


怒気。


混乱。


広間の温度がぐちゃぐちゃに乱れる。


だがエルナだけは静かだった。


「家族の絆は素晴らしいですね」


淡々とした声だった。


「なので当然、負債も家族で分かち合うおつもりかと」


前公爵の顔が引き攣る。


「……何?」


「愛とは支え合いでしょう?」


「っ……!」


エドワードが青ざめた。


【焦り:130度】


愛人は完全に前公爵から距離を取っている。


「わ、私は関係ないわよ!?」


「君のために払ったんだぞ!」


「知らないわよそんなの!」


ギルバートは呆然と立ち尽くしていた。


目の前で繰り広げられる醜い言い争い。


愛を語っていた男が、金の話になった瞬間、責任を押し付け始める。


エルナは静かに紅茶を口へ運んだ。


少し冷めている。


だが飲めないほどではない。


そして彼女は思った。


――なるほど。


この人たちは。


「愛」という言葉を。


責任逃れの毛布にしていただけなのですね。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ