第5話 温度が下がれば、嘘が見える
第5話 温度が下がれば、嘘が見える
翌朝の公爵邸は、不気味なほど静かだった。
いつもなら朝食の準備と共に飛び交う私語が少ない。
使用人たちは皆、どこか落ち着かない顔をしていた。
昨日、書斎で行われた「整理」のせいだ。
黒板へ並べられた数字。
公金の流れ。
そして、エドワードの涙と噛み合わない現実。
一度見えてしまった違和感は、簡単には消えない。
エルナは厨房の隅で、静かに紅茶を淹れていた。
今日の茶葉はアールグレイだった。
柑橘の香りが、冷えた空気へ淡く広がる。
銀のスプーンがカップへ当たり、小さな音を立てた。
すると背後で、料理人たちの声が聞こえる。
「でも若様、劇場を毎晩貸し切ってたって……」
「給金遅延の原因、本当に旦那様だけか?」
「いや、でも若様は可哀想で……」
「可哀想で三十万リル使うか?」
声が止まる。
エルナは静かにミルクを注いだ。
温度は少しずつ下がっている。
人は熱狂している間、何も見えない。
だが冷え始めると、矛盾に気づく。
その時、廊下から騒がしい足音が近づいてきた。
「義姉上!」
勢いよく厨房へ入ってきたのはエドワードだった。
今日も整った服装。
今日も美しい顔。
そして今日も、悲しげな表情。
けれどエルナの視界には別のものが見える。
【焦り:95度】
【苛立ち:80度】
【自己保身:110度】
かなり熱い。
エドワードは周囲の使用人を気にするように、わざと苦しそうな顔を作った。
「兄上がまた使用人たちへ圧力をかけていると聞きました……」
料理人たちが困った顔をする。
エルナは静かにカップを置いた。
「そうなのですか」
「ええ。皆、怯えているんです」
「なるほど」
エドワードは続ける。
「兄上は昔からそうでした。感情的で、自分に逆らう人間を威圧して――」
「エドワード様」
「はい?」
「昨日、劇場を貸し切ったのは『必要な交際費』と仰いましたね」
エドワードの笑みが僅かに固まる。
「……ええ」
「では、なぜ『恋人との記念日』という領収書があるのでしょう」
厨房が静まり返った。
料理人の一人が目を丸くする。
エドワードはすぐに笑った。
「そ、それは……社交も兼ねていて」
「二人きりで?」
「っ……!」
【焦り:120度】
上がった。
エルナは淡々と続ける。
「あと宝石店の請求書ですが」
「義姉上!」
「『弟として惨めに見られたくなかった』という理由でしたね」
「え、ええ……」
「ですが同日に、別店舗で同額の男性用装飾品を購入しています」
エドワードの喉が詰まる。
使用人たちがざわつき始めた。
「……恋人への贈り物?」
「でも若様、お金がなくて苦しいって……」
「三十万リルって……」
空気が変わっていく。
それを感じたのだろう。
エドワードの笑顔が少しずつ崩れ始めた。
「義姉上は、僕を悪者にしたいんですか……?」
震える声。
潤んだ瞳。
完璧な「可哀想な弟」。
けれど。
【悲しみ:0度】
空っぽだった。
エルナは小さく首を傾げる。
「悪者とは?」
「僕はただ、兄上に愛されたかっただけなのに……!」
「はい」
「なのに兄上は冷酷で!」
「はい」
「……っ」
エドワードが詰まる。
普通なら、ここで慰める。
「そんなことありません」と言う。
だがエルナは肯定しかしない。
逃げ道を作らない。
「愛されたかったのですね」
「そうです!」
「だから公金を使った」
「それは……必要経費で……」
「先ほどは愛情不足と仰いました」
エドワードの顔色が変わる。
エルナは静かに言った。
「理由が増えています」
厨房の空気が凍った。
料理人たちが顔を見合わせる。
「あれ?」
「確かに……」
「さっきと言ってること違わない?」
エドワードの温度が急上昇する。
【焦り:150度】
汗が滲み始めていた。
「ぼ、僕は……!」
「あと」
エルナは帳簿を開いた。
紙の擦れる音がやけに大きく響く。
「領地予算停止で、冬支度が遅れている村があります」
「……え」
「暖炉用の薪が不足しているそうです」
料理人の顔が青ざめた。
「北領か……!?」
「今年かなり冷えるぞ……」
エルナは淡々と続ける。
「ですがエドワード様は昨日、新しい馬を購入されています」
沈黙。
エドワードの唇が震えた。
「そ、それは僕だって公爵家の人間として体面が――」
「村人は凍えていますが」
「っ!!」
その瞬間だった。
年配の使用人が、ぽつりと呟く。
「若様……本当に困ってたのか?」
空気が変わる。
完全に。
昨日まで「可哀想な弟」を見ていた目が、今は違う。
疑念。
違和感。
計算。
熱が下がり始めている。
エドワードはそれを理解したのだろう。
顔から血の気が引いていく。
【焦り:180度】
【怒り:90度】
【自己保身:160度】
ぐちゃぐちゃだった。
エルナは静かに紅茶を口へ運ぶ。
温かい。
香りが良い。
厨房の隅ではスープが煮えている。
焼き立てのパンの匂いがする。
その穏やかな空間の真ん中で、エドワードだけが汗を流していた。
「義姉上……」
かすれた声だった。
「どうして、そんなに冷たいんですか……」
エルナは少し考えた。
それから、静かに答える。
「冷たいのではなく」
カップを置く。
小さな音が響いた。
「温度を下げているだけです」
「……え?」
「熱すぎると、皆様なにも見えなくなりますので」
エドワードが言葉を失う。
そしてその時、厨房の入口から低い声が響いた。
「……なるほどな」
ギルバートだった。
黒い外套を羽織ったまま立っている。
鋭い灰色の瞳が、静かに弟を見ていた。
もう怒鳴ってはいない。
その代わり、ひどく冷えていた。
【怒り:80度】
【失望:110度】
エドワードが一歩下がる。
「に、兄上……」
ギルバートは静かに床へ散らばる領収書を見た。
劇場。
宝石。
酒。
贈答品。
そして震える弟。
「お前」
低い声だった。
「領民の薪代まで削ったのか」
エドワードの唇が戦慄く。
言い訳を探している。
だがもう、涙では誤魔化せない。
周囲の温度が下がってしまったから。
冷えた場所では。
嘘は、やけに輪郭がはっきり見える。




