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第4話 言い分の整理、始めます

第4話 言い分の整理、始めます


レードル公爵邸の空気は、日に日に重くなっていた。


廊下ですれ違う使用人たちは、エルナを見ると気まずそうに目を逸らす。


ひそひそ声。


止まる会話。


遠ざかる足音。


原因は明白だった。


「若様がお可哀想……」

「旦那様は怖すぎるのよ」

「怒鳴ってばかりじゃ……」


エドワードの涙は、公爵邸の中へ静かに染み込んでいた。


人は怒鳴る者より、泣く者へ同情する。


たとえ事実がどうであれ。


エルナはその様子を、窓辺で紅茶を飲みながら眺めていた。


今日の茶葉はアッサムだった。


深い香りと苦味が、曇った空気によく合う。


カップから立つ湯気の向こう、庭木が冬風に揺れている。


その時だった。


遠くで、何かが割れる音がした。


続いて怒声。


「放っておけ!!」


ギルバートだ。


侍女が肩を震わせる。


「ま、また旦那様が……」


エルナは静かにカップを置いた。


「書斎ですね」


「奥様、行かれるのですか?」


「はい」


「ですが今は……!」


侍女の顔は青ざめていた。


今のギルバートへ近づくのは危険だ。


実際、ここ数日で使用人が二人辞めている。


会議では古参貴族と衝突し、屋敷へ戻ればエドワードが泣き、周囲は弟の味方ばかり。


ギルバートは完全に孤立しかけていた。


エルナは静かに立ち上がる。


「お茶が冷める前に戻ります」


書斎の前には誰も近づいていなかった。


中から怒鳴り声と物音が響く。


まるで猛獣の檻だ。


エルナは扉をノックした。


「旦那様」


「入るな!!」


即答だった。


怒気が扉越しに伝わる。


【怒り:190度】


かなり高い。


エルナは少し考えたあと、静かに扉を開けた。


室内は酷い有様だった。


机の上の書類は散乱し、インクが床へ飛び散っている。壁際には割れたグラス。


そしてギルバートは、窓辺で荒い息を吐いていた。


黒髪は乱れ、瞳には血が滲んでいる。


「……貴様」


低い声だった。


「話を聞いていなかったのか」


「聞いておりました」


「ならなぜ入った」


「旦那様が限界値でしたので」


「……は?」


エルナの視界では、温度が危険域に達していた。


【怒り:193度】

【疲労:140度】

【孤独:130度】

【自暴自棄:120度】


あまり良くない。


このままだと、全部壊してしまう。


ギルバートは吐き捨てるように言った。


「どうせ貴様も思っているんだろう。私は冷酷な兄だと」


「思っておりません」


「使用人たちは皆そう見ている!」


「はい」


「……否定しないのか」


「事実ですので」


ギルバートのこめかみが引きつった。


「貴様は本当に人の神経を逆撫でする天才だな」


「ありがとうございます」


「褒めていない!!」


怒鳴り声が響く。


だが以前より少し勢いが弱い。


エルナは部屋を見回した。


床に落ちた帳簿。

散乱した領収書。

乱雑な収支報告。


なるほど。


「旦那様」


「何だ」


「少し、お時間をよろしいですか」


ギルバートは苛立った顔のまま眉を寄せた。


「今更説教か」


「整理です」


「……整理?」


エルナは廊下へ出ると、使用人から大きな黒板を借りてきた。


本来は会議用のものだ。


ギルバートが呆然とする。


「貴様、何を始める気だ」


「言い分の整理です」


エルナはチョークを持った。


白い粉が指先につく。


静かな音を立てながら、黒板へ文字を書き始めた。


【エドワード様の主張】


「兄上に虐げられている」


「必要な交際費だった」


「兄上は感情的で怖い」


ギルバートが顔をしかめる。


「見れば分かる」


「次です」


エルナは床の帳簿を拾った。


ぱらぱらとページを捲る音が響く。


インクの匂い。

古い紙の乾いた感触。


そして淡々と読み上げる。


「三十万リル支出。内訳、宝石類十六万。高級酒八万。劇場貸切三万。愛人への贈与二万」


「愛人じゃない!!」


突然、扉が開いた。


エドワードだった。


後ろには使用人たちまでいる。


どうやら様子を見に来たらしい。


エドワードは悲しげな顔を浮かべた。


「兄上……また怒鳴って……」


だがエルナの視界では。


【悲しみ:0度】

【優越感:85度】


変わらない。


エルナは淡々と黒板へ書き足した。


【実際の支出】

・宝石

・酒

・劇場

・贈与


「義姉上」


エドワードが困ったように笑う。


「そんな晒し上げみたいな真似……」


「事実確認です」


「でも人には事情が……」


「ありますね」


エルナは頷いた。


「なので書きます」


さらに書く。


【エドワード様の事情】

・寂しかった

・愛されたかった

・兄への不満


エドワードが一瞬黙る。


使用人たちも戸惑い始めた。


エルナは続ける。


「そしてこちらが結果です」


チョークが乾いた音を立てた。


【結果】

・公金不足

・領地予算停止

・使用人給金遅延


静寂。


暖炉の薪がぱちりと鳴る。


ギルバートでさえ黙っていた。


エルナは振り返る。


「感情は自由です」


静かな声だった。


「寂しいのも、悲しいのも構いません」


エドワードの眉が引きつる。


「ですが」


エルナは黒板を軽く叩いた。


「お金は消えません」


空気が止まった。


使用人たちの視線が、ゆっくり黒板へ向かう。


三十万リル。


給金遅延。


領地予算停止。


数字になると、生々しかった。


エドワードが笑顔を保ったまま言う。


「義姉上は冷たいですね」


【苛立ち:50度】


上がった。


エルナは頷く。


「よく言われます」


「人の気持ちが分からないのでしょう」


「はい。なので数字を使っています」


「……っ」


エドワードの顔から、一瞬だけ余裕が消えた。


周囲の空気も変わり始める。


侍女の一人が、小さく呟いた。


「給金遅延って……本当?」


別の使用人も帳簿を見る。


「領地予算まで……?」


「でも若様は、兄上が酷いって……」


疑問。


ほんの小さな綻び。


それが生まれた瞬間だった。


エドワードの温度が跳ね上がる。


【焦り:70度】


エルナは静かに思った。


――冷えてきましたね。


感情が熱すぎると、人は見えなくなる。


だが温度が少し下がれば。


数字は、嘘を隠さない。



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