第3話 被害者という名の「感情モンスター」
第3話 被害者という名の「感情モンスター」
その日の公爵邸は、朝から妙にざわついていた。
使用人たちが廊下を行き交うたび、小声が飛び交う。
「若様が……」
「また旦那様と……」
「お気の毒に……」
エルナはそれを聞き流しながら、静かにティーカップを磨いていた。
銀盆の上で白磁が小さく鳴る。
窓から差し込む冬の日差しは薄く、空は灰色だった。湿った冷気が屋敷全体を覆っている。
「奥様!」
侍女が慌てた様子で駆け込んでくる。
「応接間へ……その、旦那様とエドワード様が……!」
「喧嘩ですか」
「喧嘩というか……大変で……!」
エルナは磨き終えたカップを置いた。
「紅茶はまだ温かいでしょうか」
「え?」
「冷めると香りが落ちますので」
侍女はぽかんとした。
その間にも、遠くから怒鳴り声が響いている。
ギルバートだ。
雷みたいな声だった。
エルナは静かに立ち上がる。
「行きましょう」
応接間の前には、すでに使用人たちが集まっていた。
誰も中へ入れない。
重たい怒気が扉越しに溢れていたからだ。
「兄上はいつもそうだ!」
若い男の悲痛な声が響く。
「僕が何をしたって言うんです!? どうしてそんなに冷酷なんですか!」
続いて、机を叩く激しい音。
「黙れ、エドワード!」
ギルバートの怒声だった。
「公金に勝手に手をつけておいて被害者ぶるな!」
「僕は必要な交際費に使っただけです!」
「三十万リルがか!?」
ざわ、と使用人たちが騒ぐ。
三十万リル。
平民なら一生遊んで暮らせる額だ。
侍女が小声で言った。
「でも、エドワード様はお優しい方ですし……」
別の使用人も頷く。
「旦那様、最近ずっと怒ってばかりで怖いもの」
「若様は泣いておられたし……」
エルナは静かに扉を見つめた。
泣いている。
その言葉に引っかかった。
彼女には見えるからだ。
感情の温度が。
扉の向こう側。
二つの熱量がぶつかり合っている。
一つは燃え上がる炎。
【怒り:165度】
ギルバート。
もう一つは――。
エルナは目を細めた。
冷たい。
異様なほどに。
扉を開ける。
室内へ入った瞬間、張り詰めた空気が肌へ刺さった。
高級な絨毯。
散乱した書類。
倒れた椅子。
そして中央には、険しい顔のギルバートと、涙を流す美貌の青年。
エドワード・フォン・レードル。
柔らかな金髪に、儚げな顔立ち。潤んだ青い瞳は、今にも壊れそうなほど弱々しい。
だが。
エルナの視界に浮かぶ数値は違った。
【悲しみ:0度】
【計算:80度】
【優越感:90度】
――冷たい。
ぞっとするほど。
涙を流しているのに、心が全く濡れていない。
エドワードはエルナに気づくと、わざとらしく目を伏せた。
「……義姉上」
震える声。
「見苦しいところを……申し訳ありません」
【自己演出:95度】
なるほど。
エルナは納得した。
この人は「被害者」を演じている。
ギルバートが怒鳴るほど、自分が可哀想に見えるから。
エドワードは続けた。
「兄上は昔から僕を嫌っているんです。父上にも愛されない僕を、ずっと邪魔者扱いして……」
「黙れ!」
ギルバートが机を叩く。
インク瓶が倒れ、黒い液体が広がった。
「お前が勝手に浪費を繰り返すから注意しただけだ!」
「でも兄上はいつも怒鳴るじゃないですか!」
「お前が話を聞かんからだ!」
「ほら、またそうやって!」
エドワードは肩を震わせ、涙を零す。
使用人たちの視線が痛いほどギルバートへ集まった。
可哀想な弟。
怒鳴る兄。
誰が悪役に見えるかなど、一目瞭然だった。
ギルバートの温度がさらに跳ね上がる。
【怒り:180度】
危険だ。
このままでは完全にエドワードの思う壺になる。
エルナは静かに口を開いた。
「エドワード様」
「……はい?」
「お茶をお飲みになりますか」
場が止まった。
ギルバートが目を見開く。
使用人たちも固まる。
エドワードだけが、一瞬だけ笑いそうになった。
【優越感:100度】
勝ったと思っている。
「ええ……いただきます」
「ありがとうございます」
エルナは淡々と紅茶を注いだ。
琥珀色の液体から湯気が立ちのぼる。
甘い香りが、刺々しい空気へ少しずつ溶けた。
エドワードはカップを受け取りながら、悲しげに微笑む。
「義姉上はお優しいですね。兄上と違って」
その瞬間。
ギルバートの拳が震えた。
「貴様……!」
「旦那様」
エルナが先に声をかける。
「今、怒鳴ると負けます」
ギルバートが息を呑んだ。
エドワードの目が細くなる。
「……どういう意味ですか?」
「そのままの意味です」
エルナはエドワードを見た。
涙。
震える声。
弱々しい微笑み。
完璧だった。
けれど温度だけが、あまりにも冷たい。
「エドワード様は、とても頭が良いのですね」
「え?」
「ご自身が一番可哀想に見える角度をご存知です」
部屋が静まり返る。
エドワードの温度がぴくりと揺れた。
【焦り:20度】
初めて上がった。
「……何を仰っているのか分かりません」
「そうですか」
エルナは首を傾げた。
「では、本当に悲しいのではないのですね」
「っ……!」
その瞬間、エドワードの笑みが僅かに引きつる。
ほんの一瞬だった。
だがエルナには見えた。
【苛立ち:35度】
やはり。
悲しみはゼロ。
代わりにあるのは、計算と優越感だけ。
エドワードはすぐに涙声へ戻る。
「義姉上まで僕を疑うのですか……?」
「疑ってはおりません」
「なら……」
「観察しているだけです」
淡々とした声だった。
だからこそ不気味だった。
ギルバートでさえ黙っている。
エルナは続けた。
「人は悲しい時、もっと体温が下がりますので」
「……は?」
「エドワード様はむしろ熱いです。とても元気そうです」
使用人たちがざわついた。
エドワードの顔色が変わる。
「な、何なんですか貴女……!」
初めて声が尖った。
【焦り:60度】
エルナは静かに瞬きをした。
「怒りましたね」
「っ!」
「先ほどまでの涙は消えました」
エドワードが言葉に詰まる。
ギルバートが初めて、まじまじと弟を見た。
泣いていたはずの顔。
だが今そこにあるのは、苛立ちだった。
エルナはティーカップを持ち上げる。
「冷めますよ」
誰も動かなかった。
静まり返った応接間に、時計の針だけが響いている。
そしてエルナは、湯気の向こうで淡々と思った。
――なるほど。
この人は。
泣くことで、人を支配するのか。




