第2話 暴風雨のなかのティータイム
第2話 暴風雨のなかのティータイム
レードル公爵邸へ嫁いで三日目の夜だった。
窓の外では、激しい雨が石畳を叩いている。風が唸り、古い窓硝子がかたかたと震えていた。
エルナは部屋の暖炉の前で、静かに紅茶を淹れていた。
銀のケトルから立ちのぼる湯気。
温めたティーポット。
開いた茶葉が、ゆっくりと熱を含み、深い香りを解いていく。
ダージリン。
少し青さの残る香りが好きだった。
蒸らし時間を数えながら、エルナはぼんやりと湯気を見つめる。
静かだ。
実家にいた頃は、夜ほど怒鳴り声が酷かった。
酒に酔った父。
癇癪を起こす義母。
わざと聞こえるように悪口を言う姉。
だから今の静けさは、それだけで十分価値がある。
――そう思った瞬間だった。
バンッ!! と、扉が乱暴に開いた。
冷たい風が吹き込み、燭台の火が揺れる。
現れた男を見て、エルナは瞬きをした。
ギルバートだった。
濡れた黒髪が額に張りつき、軍服の肩には雨粒が散っている。鋭い灰色の瞳には、明らかな怒気が燃えていた。
そして頭上には、真っ赤な数値。
【怒り:170度】
昨日より上がっている。
「……なるほど」
エルナは小さく呟いた。
「本当に沸騰寸前ですね」
「何だと?」
ギルバートが低く唸る。
部屋の空気がびり、と震えた。
普通の令嬢なら悲鳴を上げるところだろう。実際、廊下にいた侍女たちは青ざめている。
だがエルナはただ、ティーポットの蓋を開けた。
「蒸らし時間が丁度でしたので」
「私は茶を飲みに来たわけじゃない!」
「そうですか」
「……貴様、なぜそんな顔をしている」
「どんな顔でしょう」
「何も感じていない顔だ!」
怒鳴り声が響く。
暖炉の火が揺れた。
ギルバートは机へ拳を叩きつけた。
「なぜ私の妻が、あのような冷酷な出来損ないなのだ!」
怒気が肌を刺した。
エルナの視界で、温度がさらに上がる。
【怒り:182度】
【疲労:110度】
【苛立ち:95度】
少し危険だ。
このままだと、本当に倒れるかもしれない。
エルナは静かにカップを用意した。
白磁のカップへ琥珀色の液体を注ぐ。
芳醇な香りがふわりと広がった。
「旦那様」
「聞いているのか!」
「はい」
エルナはカップを差し出した。
「85度です」
「……は?」
「ダージリンは熱すぎると香りが死にます。今が一番美味しい温度です」
ギルバートが呆気に取られた顔をする。
その隙に、エルナは続けた。
「怒るのにも体力が要ります。まずはお口を閉じて、糖分を補給してください」
「…………」
「こちら、蜂蜜を入れておりますので」
ギルバートのこめかみが引きつった。
「貴様は……私を馬鹿にしているのか?」
「いいえ」
エルナは真顔で答えた。
「空腹時の怒りは判断力を鈍らせます。効率が悪いので」
「効率……」
「はい」
あまりにも淡々としていた。
そのせいで逆に怒鳴る気力が削がれる。
ギルバートは険しい顔のままカップを睨みつけた。
湯気が静かに立ちのぼっている。
甘い蜂蜜と茶葉の香り。
ほんのりとした温かさ。
不意に、胃が軋むように痛んだ。
今日は朝から何も食べていない。
会議では古参貴族どもが好き勝手喚き散らし、戻れば異母弟のエドワードが「兄上は冷酷だ」と泣きついていた。
頭痛がする。
胸が焼ける。
何もかも投げ出したくなる。
ギルバートは苛立ったように舌打ちすると、乱暴にカップを掴んだ。
「……熱い」
「85度ですので」
「そういう意味ではない!」
一口飲む。
ふわり、と香りが抜けた。
渋みの奥に柔らかな甘みがある。
熱が喉を落ち、冷え切っていた身体へじんわり広がった。
ギルバートは眉を寄せたまま、もう一口飲む。
視界の端で、数値が少し下がった。
【怒り:160度】
下がった。
エルナは静かに観察する。
するとギルバートが睨んできた。
「……何を見ている」
「いえ。少し温度が下がったので」
「またその訳の分からん話か」
「旦那様は感情が見えやすいので助かります」
「意味が分からん」
「皆様もっと複雑ですので」
ギルバートは疲れたように額を押さえた。
怒鳴る気力すら薄れていく。
目の前の女は妙だった。
怖がらない。
媚びない。
泣かない。
まるで嵐の真ん中で、一人だけ別の季節に立っているようだった。
「……貴様は、本当に何も感じないのか」
低い声だった。
エルナは少し考えた。
暖炉の薪がぱちりと弾ける。
雨音が窓を叩く。
「感じます」
「嘘だな」
「いいえ。ただ」
エルナはティーポットへ湯を足した。
静かな仕草だった。
「昔、感じるたびに痛かったので。やめただけです」
その声には悲壮感がなかった。
だからこそ、妙に重かった。
ギルバートは黙る。
雨音だけが部屋を満たした。
エルナは新しい茶葉を蒸らしながら言う。
「旦那様は毎日、大変ですね」
「……突然何だ」
「皆様、旦那様へ感情をぶつけすぎです」
「公爵家とはそういうものだ」
「疲れませんか」
ギルバートは答えなかった。
代わりに、視線を逸らす。
その横顔に浮かぶ温度は、怒りだけではなかった。
【疲労:120度】
【孤独:88度】
エルナは何も言わなかった。
ただ、小皿へ焼き菓子を置く。
「こちらもどうぞ」
「……いらん」
「空腹は胃に悪いので」
「子供扱いするな」
「では、大人扱いします。食べてください」
ギルバートは思わず吹き出しかけた。
だが寸前で飲み込み、苦々しい顔になる。
「貴様は本当に……変な女だな」
「よく言われます」
「褒めていない」
「存じております」
窓の外では嵐が荒れ狂っていた。
だが部屋の中だけは、不思議なほど静かだった。
紅茶の香り。
暖炉の熱。
陶器が触れ合う小さな音。
ギルバートは気づけば、怒鳴ることを忘れていた。
カップの中の紅茶は、もう半分ほど減っている。
そして頭上の温度は、いつの間にか。
【怒り:130度】
そこまで下がっていた。
エルナは小さく頷く。
「良かった」
「何がだ」
「まだ沸騰していませんので」
ギルバートは数秒黙り込んだあと、深く息を吐いた。
それは今日初めての、怒鳴り声ではない呼吸だった。




