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第1話 身代わり令嬢は、温度計ハズレを携えて

第1話 身代わり令嬢は、温度計ハズレを携えて


馬車が止まった瞬間、エルナは薄く目を閉じた。


窓の外では、冬の風が黒鉄の門扉を鳴らしている。レードル公爵家――帝都でもっとも「感情の強い一族」と呼ばれる家だった。


怒鳴り声が絶えず、愛憎が渦巻き、歴代当主は皆、激情の魔力で名を轟かせてきた。


そして同時に、もっとも醜聞の多い家でもある。


御者が震えた声で言う。


「お、お嬢様……到着いたしました」


エルナは静かに頷いた。


「ありがとうございます」


その声を聞いた老執事が、なぜか怪訝そうな顔をした。


感情が、ない。


そう思われたのだろう。


慣れていた。


昔から、ずっと。


泣けば叩かれた。

笑えば気味悪がられた。

怒れば「庶子の分際で」と水を浴びせられた。


だからエルナは、いつしか感情を外へ出すことをやめた。


冷たくなったわけではない。


ただ、諦めただけだ。


馬車を降りると、頬に刺さるような冷気が触れた。冬薔薇の香りが風に混じっている。見上げた公爵邸は、灰色の空に沈む巨大な城のようだった。


「まるで処刑台ですね」


ぽつりと呟く。


すると後ろにいた侍女が青ざめた。


「お、お嬢様! そんなことを!」


「違いましたか?」


侍女は答えられなかった。


実際、この結婚は処刑みたいなものだった。


本来、公爵家へ嫁ぐはずだったのは、異母姉のセシリアだ。美しく、感情豊かで、帝都でも評判の令嬢。


だが伯爵家は直前になって怖気づいた。


『感情の嵐』と恐れられる若き公爵ギルバート・フォン・レードル。


彼は短気で苛烈、癇癪持ちで、使用人が何人も辞めているという。


そんな男に可愛い娘を嫁がせたくない。


だから代わりに、いなくなっても困らない庶子を送った。


それだけだ。


玄関ホールへ通された瞬間、空気が変わった。


重たい。


まるで雷雲の中へ踏み込んだようだった。


使用人たちは皆、顔を強張らせている。


遠くから足音が響いた。


硬い革靴が、大理石を叩く音。


一歩ごとに、空気が張り詰めていく。


そして現れた男を見て、侍女が小さく息を呑んだ。


背が高い。


漆黒の軍服に似た正装。鋭い銀灰色の瞳。整った顔立ちなのに、その全身から吹き荒れる圧力のせいで、まるで抜き身の刃みたいだった。


ギルバート・フォン・レードル。


エルナの夫になる男。


彼はエルナを見るなり、低く言った。


「……随分と舐められたものだ」


怒気が、肌に刺さった。


普通の令嬢なら泣き出していただろう。


だがエルナの視界には、別のものが見えていた。


ギルバートの頭上。


赤黒い数字。


【怒り:150度】


「お湯なら沸騰していますね」


思わず口から漏れた。


その瞬間、空気が凍った。


使用人たちが一斉に目を見開く。


ギルバートの眉がぴくりと動いた。


「……何だと?」


「いえ」


エルナは淡々と一礼した。


「初めまして、旦那様。エルナ・フォルクレインです」


「私を恐れないのか」


「恐れる理由がございませんので」


「……」


ギルバートの怒りの温度が、一瞬だけ揺れた。


普通なら、皆怯える。


泣く。

媚びる。

言い訳をする。


だが目の前の女は違った。


まるで暴風雨の中に一本だけ立っている、氷柱みたいだった。


ギルバートは苛立ったように舌打ちする。


「聞いている。感情のない出来損ないだとな」


「そう評価されることは多いです」


「否定はしないのか」


「事実かどうか、私には判断できませんので」


淡々。


どこまでも淡々。


その声音が逆に神経を逆撫でする。


ギルバートは苛立ちを隠さず言った。


「好きにしろ。だが妻として期待はするな。私は貴様を認めない」


「承知しました」


「……以上だ」


ギルバートは踵を返した。


怒りの温度は依然として150度近い。


けれど、その奥に微かに別の色が見えた。


【疲労:95度】

【諦め:70度】


エルナは少しだけ目を細めた。


ずいぶん、消耗している。


そう思った。


部屋へ案内されたエルナは、扉が閉まると静かに室内を見回した。


暖炉。

深緑の絨毯。

磨かれた木製の机。


そして窓際には、小さなティーセット。


エルナはそちらへ歩み寄った。


缶を開ける。


ふわりとダージリンの香りが立ちのぼった。


その瞬間だった。


胸の奥に、ほんの少しだけ柔らかいものが灯る。


「ああ」


小さく息を吐く。


「いい茶葉です」


伯爵家では、まともな茶葉など飲ませてもらえなかった。


割れた茶器。

冷えたスープ。

湿気たパン。


静かに息を潜めて生きるだけの日々。


それに比べれば、ここはずっとましだった。


怒鳴り声が飛ぼうと、

殺気が渦巻こうと、


温かい紅茶が飲める。


鍵のかかる部屋がある。


それだけで十分だ。


湯を注ぐ音が静かに響く。


琥珀色の液体から、柔らかな湯気が立ちのぼった。


エルナはカップを持ち上げ、一口飲む。


熱が喉を通り、冷え切った身体へゆっくり落ちていく。


窓の外では、冬の風が唸っていた。


まるで嵐の前触れみたいに。


けれどエルナは、少しだけ口元を緩めた。


「悪くありませんね」


狂気の公爵家。


感情だらけの泥沼。


その中心で彼女はただ、静かに紅茶を飲んでいた。



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