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商人の帳簿と、黒猫の瞳

騎士団の詰所を離れたラミエラは、商業区画の喧騒の中を歩いていた。彼女が向かったのは、街で最も歴史のある大商会『銀の天秤亭』。そこの若き主、レイヴンは、ラミエラの幼馴染の中でも特に「街の裏表」を正確に把握している人物だ。


重厚なオーク材の扉を開けると、そこには紅茶の香りと、完璧に整頓された帳簿の山があった。


「おや、ラミー。騎士団への報告はうまくいかなかったようだね」

レイヴンは帳簿から目を離さず、穏やかに言った。

「詰所の門番がね、君が追い返された後にあからさまに溜息をついていたと、うちの使いが教えてくれてね」


レイヴンは、窓から差し込む陽光を背に受けて微笑んだ。その物腰はどこまでも柔らかいが、執務机に置かれた膨大な取引記録の山が、彼が街の血流そのものを管理していることを示している。


「……お兄ちゃんたちは、私を危険から遠ざけたいだけなの。でも、バラン家のカフスが捨てられているなんて、ただの事故じゃ済まされないでしょう?」


ラミエラはポケットから例のカフスボタンを取り出し、デスクの上に置いた。

レイヴンはそれをつまみ上げると、細めた瞳でじっと観察した。その瞬間、彼の穏やかな笑みから熱が消え、底知れぬ静かな野心が瞳に宿る。


「……バラン家か。彼らは最近、不可解な動きを見せている。街には流通しないはずの『高純度魔鉱石』を、裏ルートで大量に買い漁っているんだ」


「魔鉱石……?」


「騎士団が握りつぶした事件の裏には、この石が関わっている可能性がある。だが、彼らがそれをどこへ運んでいるのか、僕の商売仲間でも掴みきれない。……壁の向こう側を見通す『目』が必要だ」


レイヴンは独り言のように呟き、窓の外へと目を向けた。その視線の先、屋根の上に、不自然なほど静かに佇む漆黒の影があった。

ルナの使い魔、黒猫だ。


「さあ、ルナ。聞こえているんだろう? この『忘れ物』が、どこから来たのか……君の猫に教えてもらいたい」


レイヴンが窓を開けると、そこにルナの使い魔である黒猫が音もなく座っていた。猫はどこかからか舞い戻ってきたばかりのように、毛並みに少し埃を纏っている。


「……見てて」


離れた場所にいるルナの声が、小さな魔導通信機から聞こえる。

ラミエラが黒猫の金色の瞳を覗き込むと、猫が記憶していた『少し前のバラン邸での光景』が、走馬灯のようにラミエラの脳裏に再生された。


屋根裏に潜んでいた黒猫の視界。そこには、カーテンの隙間から見えた、カフスを落とした男と、禍々しい光を放つ魔導具を扱う貴族の姿がはっきりと映し出されていた。


それは、バラン家の私邸の窓。

カーテンの隙間から見えたのは、カフスを落としたと思われる男と、異様なまでに禍々しい光を放つ魔導具を扱う貴族の姿だった。


「……見つけた」


ラミエラは息を呑んだ。

騎士団が「証拠なし」と断じた事件の正体は、貴族による禁忌の魔導具実験だったのだ。


「面白い」


レイヴンが立ち上がり、初めて声を上げて笑った。その姿は、一人の商人ではなく、この腐敗した街をチェス盤のように塗り替えようとするカリスマそのものだった。


「ラミー、君の『チョウチョさん』と、ルナの『黒猫』。そして僕の『情報』。これさえあれば、どれほど高貴な貴族相手でも、尻尾を掴むのは難しくない」


ラミエラは決意を胸に深く刻んだ。

これは、騎士団には頼れない。自分たちが、この街の「掃除屋」になるしかないのだと。


「……ねえ、レイヴン。次の場所は、エリスの研究所ね。この石の正体を暴くわ」


小さな部屋で交わされた密約。それは、騎士たちがまだ気づいていない、巨大な陰謀の幕開けであった。

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