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路地裏の蟲使いと貴族の忘れ物

ギネタール市の喧騒から少し離れた、石畳の小道。

湿った空気が漂う路地裏で、ラミエラ・フォルドフィーマは小さく膝をついた。


「……チョウチョさん、ここね」


ラミエラがそう囁くと、彼女の栗色の髪に留まっていたアゲハ蝶──チョウチョさんが、ひらりと舞い降りて血だまりの縁で翅を休めた。それはただの飾りではない。ラミエラが幼い頃から対話してきた、鋭敏な感覚を持つパートナーだ。


騎士の名門フォルドフィーマ家の令嬢でありながら、剣ではなく蟲と心を通わせる道を選んだ彼女は、冒険者ギルドでは「F級の蟲使い」と陰口を叩かれる存在だ。だが、今の彼女の瞳には、そんな周囲の評価など微塵も映っていない。


今回の依頼は、近隣の貴族邸から逃げ出したという飼い猫の捜索。

「ごめんね、怖かったでしょう。もうすぐ見つけてあげるから」


蟲たちが地面を這い、微細な気配をラミエラの脳へと伝えてくる。猫の足跡を辿り、ゴミ溜めの奥まった死角へ。しかし、そこにいたのは愛らしい猫ではなく、冷たい現実だった。


路地裏の隅で、黒く凝固した血だまりが異様な存在感を放っている。

その端に、真新しい銀色のカフスボタンが転がっていた。


「……これは」


ラミエラは息を呑み、慎重にカフスボタンを拾い上げた。刻まれているのは、高貴な家紋。

「フォルドフィーマ家の紋章……ではないわね。でも、この盾の重なりと棘の数、これは間違いなく『バラン家』の家紋……」


騎士の家系で育った彼女にとって、その刻印は瞬時に理解できる重みを持っていた。街の治安を司る有力貴族、バラン家の品。しかも、この血の匂いは、ただの怪我のそれではない。蟲たちが伝えるのは、「禁忌の魔法」が介在した特有の魔力の残滓だ。


「怖い……」


本能的な震えが背筋を駆け抜ける。しかし、それ以上にラミエラを支配したのは、愛する人たちの顔だった。この路地裏は、幼馴染たちが所属する騎士団の管轄区に近い。もし、この闇に彼らが関わっているとしたら。あるいは、彼らがこの事実に気づかぬまま「貴族の圧力」で処理させられようとしているとしたら。


「……ねえ、チョウチョさん。私たちがやるしかないみたいね」


ラミエラは決意を込めて髪飾りのアゲハ蝶を撫でた。彼女の周囲には、チョウチョさん以外にも、小さな甲虫や蜘蛛たちが次々と集まってくる。彼らはラミエラが言葉を発する前に、現場のあらゆる情報を記録し始めていた。


足早に路地裏を抜け、彼女は騎士団の詰所へと向かった。


詰所の重厚な扉を開けると、見慣れた顔──幼馴染の騎士が、温かな眼差しでこちらを振り返った。


「おや、ラミーじゃないか。またそんな汚れた格好で……。猫探しなら、うちの部下の誰かに任せておけばいいだろう?」


彼は大柄な手で、ラミエラの頭を優しく撫でる。まるで、何も知らない幼い妹を慈しむような手つきだ。


「お兄ちゃん、聞いて。……バラン家の紋章が入ったカフスを見つけたの。この路地裏で」


その言葉が出た瞬間、騎士の表情から笑みが消え、部屋の空気が張り詰めた。彼はラミエラの肩を掴み、真剣な瞳で諭すように言った。


「それ以上は聞くな、ラミー。帰れ。……これは、お前のような冒険者が首を突っ込んでいい事件じゃない」


それは彼なりの、精一杯の愛情だった。ラミエラを危険に晒したくない、という過保護なまでの優しさ。しかし、その「壁」が今のラミエラには、何よりも高く、冷たく感じられた。


「……わかったわ。今日は帰る」


ラミエラは従順に頷いて、詰所を後にした。

街の外れ、夕暮れに染まる広場まで歩くと、彼女は肩のチョウチョさんに問いかける。


「お兄ちゃんたちは、守りたいから言わないのよね。でも、守られているだけじゃ、何も変えられない」


彼女は商人の友人、そして学者の友人たちが住まう街の区画を見つめた。

騎士団が動けないなら、自分が彼らを動かすための「確かな証拠」を揃えればいい。


「ねえ、皆。手伝ってくれる?」


彼女の呼びかけに、路地の影や街路樹の先から、数え切れないほどの小さな羽音や足音が呼応する。

F級の冒険者ラミエラ・フォルドフィーマの、静かで熱い戦いが、今ここから始まった。

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