第9話 一番だと思っていた
その日、あの人は約束のない日に来た。
戸を叩く音でわかる。二回、間を置いて一回。二年、同じ叩き方だ。
「入るぞ」
「どうぞ」
あたしは荷を作っている途中だった。長持の蓋が開いていて、畳んだ服が床に積んである。あの人はそれを見て、少し立ち止まって、それから暖炉のほうへ行った。
部屋は寒い。煙が戻るので、火を大きくすると咳が出る。借りるとき、家主はそれを言わなかった。あたしも花を売るとき、下の段の萎れは黙っていた。だから文句は言えない。
「叔母に会ってきた」
「そうですか」
「叔母上は、私が悪いと言う」
火に手をかざしながら、あの人は話し始めた。当番表という言葉が出る。三年前の冬の話が出る。それから、屋敷の炭の話になった。
あたしは畳んだ服を長持に入れた。冬の外套は上に置く。西の町は風が強いと聞いた。
「クレアは、屋敷の火を自分で見ているそうだ。夜半に起きて、炉に湯を回している。庭番と分けていたものを、今年から一人でやっている」
「お寒いでしょうね」
「そういう話ではない」
「では、どういう話でしょう」
あの人は答えずに、火を掻いた。
「ミレーユ。聞いているか」
「聞いています」
「クレアは、ハンナに何も言わないらしい。以前は言っていた。私が遅い日の翌朝は、必ず何か言っていた」
「そうですか」
「言わなくなったのは、この二月だ」
数えている。この人も、数えることはできるのだ。
「ゲオルク様」
「なんだ」
「あたしのことは、数えていらっしゃいますか」
あの人がこちらを見る。ただ、その目は質問の意味を探している目だった。
「何の話だ」
「二年です。ひと月に何度いらしたか、あたしは全部言えます」
「ミレーユ」
「初めの半年は月に二度。次の半年は週に一度。それから決まった日がなくなりました。あたしは、それを近くなった証拠だと思っていました」
あの人が暖炉から手を離す。
「その二年で、あたしの話をなさったのは、何度でしょう」
答えは返ってこなかった。
「花のことは、一度も聞かれませんでした。あたしが市に立っていたことも、引き取られた家のことも。聞かれたのは、奥様に会ったときのことだけです」
「そんなはずはない」
「では、あたしの生まれた町の名前を言ってみてください」
あの人は黙った。
「引き取られた家の名前でも構いません」
黙ったまま、火のほうを見ている。あたしは急かさなかった。
「それは、お前が屋敷へ行ったからだろう」
「行く前からです」
暖炉の火が音を立てた。窓の外で、荷車が通っていく音がする。
「初めて会った日、あたしは聞きました。奥様がお育てになっているのですか、と」
「覚えていない」
「あなたは、そうだ、と答えて、それから黙りました。あの黙り方を、あたしはうれしいと思ったんです」
「ミレーユ」
「愛のない結婚をなさった方が、それを言えずにいるのだと思いました。物語で読んだ形に、ちょうど当てはまりましたので」
あの人は椅子に座った。座って、膝の上で手を組んだ。組んでから、すぐにほどいた。
「私は、お前を騙したつもりはない」
「はい」
「本当に、お前といるのは楽だった」
楽。
その言葉が、部屋の中に落ちた。
「奥様は、お怒りになりませんでしたね」
「ああ」
「あたしが訪ねても、何もおっしゃいませんでした」
「そうらしいな」
「それを聞いたとき、あなたはどんな顔をなさったか、覚えていらっしゃいますか」
あの人は答えなかった。
あたしは覚えている。あの日、あの人は五度同じことを聞いた。顔色は。泣いたか。怒っていたか。五度目のとき、あたしはこの人の顔を見た。
期待していた顔だった。
市に立っていたころ、常連の客がそういう顔をした。安く買える日を期待して来て、その日でないと分かっても、すぐには帰らない。次はどうかと待っている。あたしはあの顔を毎日見ていたのに、自分に向けられたそれを見分けられなかった。
期待していて、それが外れて、それでも次の答えを待っている顔だ。
「あたしは、奥様に見せるための人だったんですね」
言ってしまうと、思ったより静かな声になった。
あの人は立ち上がった。
「そんなことはない」
「では、あたしが今日ここを出ると言ったら、追ってきますか」
「何を言っている」
「追ってきますか」
あの人は口を開いて、言葉を選び始めた。選び始めた時点で、答えは出ている。市で値を聞かれて、すぐに言えない売り手は、その値では売る気がない。
「お前が出ていくと」
「はい」
「屋敷の話をする相手が、いなくなる」
そう言いかけて、あの人は言い直す。言い直したものは、もっと悪かった。
「クレアが戻るかもしれない」
そう言った。
言ってから、自分の言葉に驚いた顔になる。
「今、なんとおっしゃいましたか」
「いや」
「あたしが出ていくと、奥様が戻られるとき、困るということですか」
「そういう意味ではない」
「では、どういう意味でしょう」
あの人は答えなかった。答えないまま、暖炉のほうへ戻っていく。
あたしは長持の蓋を閉めた。
留め金が固い。二年前、宿を移るときに、あの人が買ってくれたものだ。ほかに受け取ったのは櫛が一つ。細工の良いものだったけれど、あれは市で売った。売ったのは、家賃のためだけではない。
紐をかけて、結び目を二つ作る。花の荷を運んでいたころの結び方だ。
「どこへ行く」
「西の町です。市が立ちますので」
「あの、荷車を一台、雇っていただけますか。長持が重いので」
「ああ」
「代金は、着いてから払います」
「いい。それくらいは」
それくらいは、という言い方も、二年で何度も聞いた。
「知り合いはいるのか」
「昔の得意先が二軒。まだ店をやっていれば」
「やっていなかったら」
「そのときは、また別のところへ行きます。花は、どこでも売れますので」
「戻ってこいと言ったら」
「言われますか」
あの人は、言わなかった。
あの人は、あたしの荷を持とうとしなかった。持ってもらったら、この人はそれを後で数えるからだ。
長持を戸口まで引いて、外套を着た。この部屋で暮らしたのは三月ほどだ。
戸の前で、一度だけ振り返った。
あの人は暖炉の前に立っていた。火を見ている。二年のあいだ、あたしが何度も見た背中だ。あの背中が誰のほうを向いていたのかを、あたしはずっと考え違いしていた。
「ゲオルク様」
「なんだ」
「奥様に、あたしの名前をお伝えにならないでください」
「なぜ」
「知らない人のままにしておいてください。そのほうが、あの方には正しいと思いますので」
あの人が何か言いかける。言いかけて、やめた。
扉を閉めるとき、あの人は追ってこなかった。




