第10話 一晩で数えたもの
寒波が来た日、クレアは屋敷にいなかった。
王都の市の下見で、叔母上のところに二晩泊まる。ハンナが厨房でそう話しているのを、廊下で聞いた。
出かける朝、庭番が温室の炉のところに立っていた。
「留守のあいだ、火はお前が見るのか」
「はい。奥様から、夜半に一度と言いつかっております」
「私が見る」
庭番が、私の顔を見る。すぐには返事をしない。
「日が落ちてから、風が出るそうです」
「聞いている」
「湯の加減は、管の口のところで」
「分かっている。この温室は母のものだ」
そう言うと、庭番は頭を下げて下がった。下がるとき、もう一度こちらを見る。あの目を、私は覚えている。心配ではない。確かめている目だ。この屋敷の者は、いつからか、皆その目をするようになった。
昼のうちに、風が変わった。北からのものに変わり、庭の木の葉裏が一斉に返る。厨房では、料理番が水甕に布をかけている。凍る夜だと、屋敷の者は知っている。知っているのに、誰も私に言わなかった。
夕方に炉へ行った。
灰は掻いてあった。薪も積んである。私は火を入れた。煙が戻ったが、しばらくすると通った。
湯が沸くまでのあいだ、硝子の内側に手を当ててみた。冷えが来る。継ぎ目のところが特に冷たい。右の端の目地が古いままで、そこだけ指の感じが違った。去年直しそこねた、とクレアが誰かに言っていた気がする。
株の並びを見て歩いた。冬を越すものの根元に藁が敷いてある。厚みが揃っている。
私は、この温室に何本の株があるのかを知らない。
数えようとして、途中でやめた。列の途中で、同じ株を二度数えているのか、飛ばしたのかが分からなくなる。クレアは、数えないでも分かると言っていたことがある。一巡すれば、どれが今週で、どれが来週か分かる、と。
湯が沸いて、管に回した。管が温まり始めるのを、手のひらで確かめた。書斎に戻って、書き付けを見ていた。ラーデン商会の受け渡しの日取りが決まっている。今月から、名義が変わると書いてあった。エッセンのクレア。
その名前を、私は初めて書面で見た。
見た日から、六日経っている。六日のあいだ、私はそのことを妻に聞いていない。聞けば、答えが返ってくる。返ってきた答えを、こちらが受け入れられるかどうかが分からなかった。
炭が減って、書斎の火が小さくなった。
私は薪を足す。足しながら、温室の炉のことを考えた。考えて、まだ大丈夫だと判断した。
夜が更けて、風の音が変わった。窓の桟が鳴る。書斎の火は保っている。
夜半に一度と、庭番は言った。
その言葉を、私は覚えていた。覚えていて、行かなかった。
行かなかった理由を、今、書いておかなければならない。眠かったからではない。私は起きていた。書斎で、書き付けを見ていた。
行けば、確かめることになる。確かめて、火が落ちていたら、自分の失敗になる。落ちていなければ、行った意味がない。
誰も見ていない場所で何かをするということを、私はしたことがなかったのだと思う。
書き付けを見ているうちに、卓に頭をつけていたらしい。
朝、目が覚めたのは、外が明るくなってからだった。
外套を引っかけて、庭を回った。硝子の戸を開けた瞬間に、空気が違うのが分かった。中の温かさがない。外と同じ冷たさが、そのまま溜まっている。
硝子の戸を閉め直して、炉のほうへ回る。灰の中に、赤いものが残っていない。
炉の火は落ちていた。
管に触れた。冷たい。芯まで冷えている。管の中の湯が冷えるのに、どれくらいかかるのかを、私は知らない。夜半に行っていれば、まだ温かかったのか。それとも、あの時刻にはもう落ちていたのか。それも分からない。分からないということは、行かなかった者には確かめようがないということだ。
株のあいだを歩いた。
葉先が黒い。触ると、指の先で崩れる。冬を越すはずのものだ。藁を掻き分けると、根元のところが白く濡れていた。凍って、溶けた跡だと分かる。
「霜が入りました」
庭番が、株の列を端から見ていく。
「この列は、駄目です。こちらの半分は、春まで待たないと分かりません」
「戻るか」
「戻るものもございます。ただ、根が一度傷むと、次の年の出方が変わります」
「作り直せばいい」
「株は、種からですと三年かかります」
三年、と私は繰り返した。
「奥様には」
「私から言う」
「はい」
庭番は道具を取りに行く。行くとき、足を速めない。
乾燥室にも行った。
板は下りている。ハンナが毎日見ているらしい。梁から下がった束のうち、この二日に吊るしたものが、少し湿っていた。
一つ取って、鼻先に寄せてみた。
匂いがしない。
昨日、書斎の卓の上で同じ束を見たときは、部屋中に匂いがしていた。ラーデンが何か言っていた。乾いて縮んでも、匂いを溜めている粒は潰れない、と。
潰れたのだと思う。凍れば潰れる。
私は束を戻して、しばらく暗い部屋に立っていた。
板の隙間から、光の帯が入っている。床の上を斜めに横切って、埃が動いている。この部屋にクレアが立っているところを、私は見たことがない。入ったことが、そもそも数えるほどしかない。妻の仕事場の中を、私は今朝はじめて歩いている。
屋敷に戻って、卓についた。ハンナが茶を持ってきた。渋い。この娘が淹れると渋くなる。この二月ほど、ずっとそうだ。
「ハンナ」
「はい」
「この茶は、以前は誰が淹れていた」
「奥様でございます」
「毎朝か」
「毎朝でございます。旦那様がお発ちになる日は、その前に」
「湯の加減があるのか」
「沸かしすぎると渋くなります。境目が難しいと、奥様は」
「奥様は、今日お戻りか」
「明日と伺っております」
「そうか」
私は椀を置いた。
「客間の椅子は」
「奥様が向きを変えておられました。お客様によって」
「炭を入れる日は」
「奥様がお決めになっておりました」
「温室の火の当番は」
「今年から、奥様がお一人で」
ハンナは、こちらを見ずに答えている。
「ハンナ。お前は、この三年の当番表を付けていたそうだな」
「はい」
「なぜ私に見せなかった」
「お尋ねになりませんでしたので」
「そうか」
「もう一つ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「言え」
「今年の冬は、夜半の火を奥様がお一人で見ておられました。私が代わりますと申し上げたのですが、断られました」
「なぜ断った」
「起きられるから、と」
「もういい」
ハンナが下がった。
私は椀を持ったまま、卓に向かっていた。
朝の茶。客間の椅子の向き。炭を入れる日。温室の火。乾燥室の日除け。荷の縄の結び方。王都までの往復。市の下見。書き付けの名義。
指を折って数えていた。折る指が足りなくなって、右手を開き直した。開き直したところで手が止まる。数えている自分の手が、この十年で何を一つ作ったのかを、思い出せなかった。
数え始めると、止まらなかった。
去年の晩餐で、私は温室を金食い虫の道楽と呼んだ。あの席の卓には、その温室の香草が乗っていた。医院の者はそれを褒め、私はそれを笑い話にした。妻も笑っていた。笑わせたのは私だ。
私が知らないだけで、この屋敷の一日は、誰かの手で全部組んであった。組んでいた者は、十年、この家にいた。
母のことを思い出す。
母は庭の人だった。私が学校から帰っても、まず庭へ回らなければ会えなかった。呼べば出てくる。手を拭きながら、どうしたの、と聞く。用がないと言えば、また戻っていく。
私は、母が何を育てていたのかを、一度も聞いていない。
聞けばよかったのだと、今なら分かる。分かったところで、母はもういない。
クレアに温室の鍵を渡した日のことも思い出した。母の場所を渡せば、この人はここに残るだろうと考えたのを覚えている。残ってもらうために渡したものを、私は途中で壁に掛け直した。掛け直したのは私だ。取り上げたつもりはなかった。つもりの話ではないと、叔母上は言った。
「朝の茶も、乾燥室の火も、客の名も、私は一つも覚えていない」
外で、荷車の音がした。門のほうだ。今日は納品の日ではない。誰かが来たのか、誰かが出て行くのか、私はこの家の予定を知らない。
窓の外が白んできた。
数え終えたのではない。数えられるものが尽きただけだ。尽きた先に何が残っているのかを見ようとして、私は自分の手のひらを見た。
十年ぶんを数え終えるのに、私は一晩かかった。




