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「あなたが奥様なんですよね?」いいえ、その方の妻という役は先月で終わっておりますので、ご用件はご本人へ  作者: 九葉(くずは)


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10/12

第10話 一晩で数えたもの

寒波が来た日、クレアは屋敷にいなかった。


王都の市の下見で、叔母上のところに二晩泊まる。ハンナが厨房でそう話しているのを、廊下で聞いた。


出かける朝、庭番が温室の炉のところに立っていた。


「留守のあいだ、火はお前が見るのか」


「はい。奥様から、夜半に一度と言いつかっております」


「私が見る」


庭番が、私の顔を見る。すぐには返事をしない。


「日が落ちてから、風が出るそうです」


「聞いている」


「湯の加減は、管の口のところで」


「分かっている。この温室は母のものだ」


そう言うと、庭番は頭を下げて下がった。下がるとき、もう一度こちらを見る。あの目を、私は覚えている。心配ではない。確かめている目だ。この屋敷の者は、いつからか、皆その目をするようになった。


昼のうちに、風が変わった。北からのものに変わり、庭の木の葉裏が一斉に返る。厨房では、料理番が水甕に布をかけている。凍る夜だと、屋敷の者は知っている。知っているのに、誰も私に言わなかった。


夕方に炉へ行った。


灰は掻いてあった。薪も積んである。私は火を入れた。煙が戻ったが、しばらくすると通った。


湯が沸くまでのあいだ、硝子の内側に手を当ててみた。冷えが来る。継ぎ目のところが特に冷たい。右の端の目地が古いままで、そこだけ指の感じが違った。去年直しそこねた、とクレアが誰かに言っていた気がする。


株の並びを見て歩いた。冬を越すものの根元に藁が敷いてある。厚みが揃っている。


私は、この温室に何本の株があるのかを知らない。


数えようとして、途中でやめた。列の途中で、同じ株を二度数えているのか、飛ばしたのかが分からなくなる。クレアは、数えないでも分かると言っていたことがある。一巡すれば、どれが今週で、どれが来週か分かる、と。


湯が沸いて、管に回した。管が温まり始めるのを、手のひらで確かめた。書斎に戻って、書き付けを見ていた。ラーデン商会の受け渡しの日取りが決まっている。今月から、名義が変わると書いてあった。エッセンのクレア。


その名前を、私は初めて書面で見た。


見た日から、六日経っている。六日のあいだ、私はそのことを妻に聞いていない。聞けば、答えが返ってくる。返ってきた答えを、こちらが受け入れられるかどうかが分からなかった。


炭が減って、書斎の火が小さくなった。


私は薪を足す。足しながら、温室の炉のことを考えた。考えて、まだ大丈夫だと判断した。


夜が更けて、風の音が変わった。窓の桟が鳴る。書斎の火は保っている。


夜半に一度と、庭番は言った。


その言葉を、私は覚えていた。覚えていて、行かなかった。


行かなかった理由を、今、書いておかなければならない。眠かったからではない。私は起きていた。書斎で、書き付けを見ていた。


行けば、確かめることになる。確かめて、火が落ちていたら、自分の失敗になる。落ちていなければ、行った意味がない。


誰も見ていない場所で何かをするということを、私はしたことがなかったのだと思う。


書き付けを見ているうちに、卓に頭をつけていたらしい。


朝、目が覚めたのは、外が明るくなってからだった。


外套を引っかけて、庭を回った。硝子の戸を開けた瞬間に、空気が違うのが分かった。中の温かさがない。外と同じ冷たさが、そのまま溜まっている。


硝子の戸を閉め直して、炉のほうへ回る。灰の中に、赤いものが残っていない。


炉の火は落ちていた。


管に触れた。冷たい。芯まで冷えている。管の中の湯が冷えるのに、どれくらいかかるのかを、私は知らない。夜半に行っていれば、まだ温かかったのか。それとも、あの時刻にはもう落ちていたのか。それも分からない。分からないということは、行かなかった者には確かめようがないということだ。


株のあいだを歩いた。


葉先が黒い。触ると、指の先で崩れる。冬を越すはずのものだ。藁を掻き分けると、根元のところが白く濡れていた。凍って、溶けた跡だと分かる。


「霜が入りました」


庭番が、株の列を端から見ていく。


「この列は、駄目です。こちらの半分は、春まで待たないと分かりません」


「戻るか」


「戻るものもございます。ただ、根が一度傷むと、次の年の出方が変わります」


「作り直せばいい」


「株は、種からですと三年かかります」


三年、と私は繰り返した。


「奥様には」


「私から言う」


「はい」


庭番は道具を取りに行く。行くとき、足を速めない。


乾燥室にも行った。


板は下りている。ハンナが毎日見ているらしい。梁から下がった束のうち、この二日に吊るしたものが、少し湿っていた。


一つ取って、鼻先に寄せてみた。


匂いがしない。


昨日、書斎の卓の上で同じ束を見たときは、部屋中に匂いがしていた。ラーデンが何か言っていた。乾いて縮んでも、匂いを溜めている粒は潰れない、と。


潰れたのだと思う。凍れば潰れる。


私は束を戻して、しばらく暗い部屋に立っていた。


板の隙間から、光の帯が入っている。床の上を斜めに横切って、埃が動いている。この部屋にクレアが立っているところを、私は見たことがない。入ったことが、そもそも数えるほどしかない。妻の仕事場の中を、私は今朝はじめて歩いている。


屋敷に戻って、卓についた。ハンナが茶を持ってきた。渋い。この娘が淹れると渋くなる。この二月ほど、ずっとそうだ。


「ハンナ」


「はい」


「この茶は、以前は誰が淹れていた」


「奥様でございます」


「毎朝か」


「毎朝でございます。旦那様がお発ちになる日は、その前に」


「湯の加減があるのか」


「沸かしすぎると渋くなります。境目が難しいと、奥様は」


「奥様は、今日お戻りか」


「明日と伺っております」


「そうか」


私は椀を置いた。


「客間の椅子は」


「奥様が向きを変えておられました。お客様によって」


「炭を入れる日は」


「奥様がお決めになっておりました」


「温室の火の当番は」


「今年から、奥様がお一人で」


ハンナは、こちらを見ずに答えている。


「ハンナ。お前は、この三年の当番表を付けていたそうだな」


「はい」


「なぜ私に見せなかった」


「お尋ねになりませんでしたので」


「そうか」


「もう一つ、申し上げてもよろしいでしょうか」


「言え」


「今年の冬は、夜半の火を奥様がお一人で見ておられました。私が代わりますと申し上げたのですが、断られました」


「なぜ断った」


「起きられるから、と」


「もういい」


ハンナが下がった。


私は椀を持ったまま、卓に向かっていた。


朝の茶。客間の椅子の向き。炭を入れる日。温室の火。乾燥室の日除け。荷の縄の結び方。王都までの往復。市の下見。書き付けの名義。


指を折って数えていた。折る指が足りなくなって、右手を開き直した。開き直したところで手が止まる。数えている自分の手が、この十年で何を一つ作ったのかを、思い出せなかった。


数え始めると、止まらなかった。


去年の晩餐で、私は温室を金食い虫の道楽と呼んだ。あの席の卓には、その温室の香草が乗っていた。医院の者はそれを褒め、私はそれを笑い話にした。妻も笑っていた。笑わせたのは私だ。


私が知らないだけで、この屋敷の一日は、誰かの手で全部組んであった。組んでいた者は、十年、この家にいた。


母のことを思い出す。


母は庭の人だった。私が学校から帰っても、まず庭へ回らなければ会えなかった。呼べば出てくる。手を拭きながら、どうしたの、と聞く。用がないと言えば、また戻っていく。


私は、母が何を育てていたのかを、一度も聞いていない。


聞けばよかったのだと、今なら分かる。分かったところで、母はもういない。


クレアに温室の鍵を渡した日のことも思い出した。母の場所を渡せば、この人はここに残るだろうと考えたのを覚えている。残ってもらうために渡したものを、私は途中で壁に掛け直した。掛け直したのは私だ。取り上げたつもりはなかった。つもりの話ではないと、叔母上は言った。


「朝の茶も、乾燥室の火も、客の名も、私は一つも覚えていない」


外で、荷車の音がした。門のほうだ。今日は納品の日ではない。誰かが来たのか、誰かが出て行くのか、私はこの家の予定を知らない。


窓の外が白んできた。


数え終えたのではない。数えられるものが尽きただけだ。尽きた先に何が残っているのかを見ようとして、私は自分の手のひらを見た。


十年ぶんを数え終えるのに、私は一晩かかった。

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