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「あなたが奥様なんですよね?」いいえ、その方の妻という役は先月で終わっておりますので、ご用件はご本人へ  作者: 九葉(くずは)


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第11話 ご用件はご本人へ

薬草市の受け渡しは、王都の園芸協会の広間で行われる。


硝子を張った屋根の建物で、冬でも昼は明るい。継ぎ目に細く雪が残っていて、そこだけ光が濁って見える。長い卓が三列。売り手が荷を並べ、買い手が端から見ていく。


わたしの卓は、いちばん奥の列だった。


「エッセンさん。こちらへ」


ラーデンさんが場所を空けてくれた。名前で呼ばれるのに、まだ慣れない。


木札を荷の上に置いた。杉の板に、自分の字で書いたものだ。


初めてこの卓に立った日、わたしはこの札を裏返しにして置いた。ラーデンさんが通りかかって、何も言わずに表に返して行かれた。それから三度、市に出ている。今日はもう、自分で表を向けて置いた。


荷を並べる順にも決まりがある。値の高いものを手前に置くと、買い手は手前しか見ない。奥に良いものを置くと、端から見る人だけが気づく。


買い手が三人、続けて来た。二人は葉のもの、一人は花のもの。


束を解いて、下の段から見る人が一人いる。年配の女の方で、指で葉の茎を折って、折り口を見てから顔を上げた。


「どちらの手ですか」


「わたしのものです」


「そう。乾かし方が丁寧ね」


その方には、多く売れた。値を負けてくれとは言われない。


午前のうちに、荷の三分の二がはけた。乾かした葉のものは、去年の倍の値で引かれている。花は少し残った。花は買い手が限られる。


前掛けの下で、指を数えた。売れた束の数と、残りの数。


叔母様は、少し離れた柱のところに立っておられる。今日は買い付けの用があるとおっしゃっていたが、たぶん、それだけではない。


昼前に、ラーデンさんが卓の向こうへ来られた。


「春の分の話をしてもよろしいですか」


「はい」


「根のものを、今の倍で引き取りたい。畑がいります」


「屋敷の温室では、足りません」


「ええ。ですから、土地の話になります。急ぎませんが、頭の隅に置いておいてください」


「考えておきます」


その人は頷いて、自分の卓へ戻った。畑、という言葉が、頭の中で場所を探している。屋敷の外に自分の土地を持つということを、わたしはこれまで考えたことがなかった。


昼を過ぎて、広間の人が増えた。


硝子の屋根の下は音がよく響く。誰かが荷を落とせば、端まで届く。


そのころに、夫が来た。


外套を着たままだった。この建物は暖かいので、皆すぐに脱ぐ。


列のあいだを歩いてくるのが見えた。歩き方が速い。この広間では、皆もっとゆっくり歩く。品を見ながら歩くからだ。


夫は列のあいだを歩いて、わたしの卓の前で止まった。


広間の話し声が、少しだけ落ちる。


「クレア」


「はい」


わたしは束の紐を結ぶ手を止めた。止めてから、顔を上げた。


夫は、そこで少し待つ。待ってから、口を開いた。


「これを、返しに来た」


卓の上に、厚紙の束が置かれた。


封を切っていないものが十数枚。上の一枚に、この家の宛名がある。宛名の下の行に、わたしの名前が書いてある。角の潰れ方が一枚ずつ違う。同じ日に届いたものではない。


「秋の会の招きだ。ほかにもある。二年ぶんだ」


「そうですか」


「私が、書斎に入れていた」


「はい」


「入れて、そのままにした」


夫は、次の言葉を探しているようだった。探しているあいだ、広間の音がこちらに集まってくるのが分かる。柱のところで、叔母様が動かれない。


「叔母上には、もう頼まない。自分で来た」


「はい」


「クレア。屋敷の温室は、春に植え直す。庭番と話をつけた。三年かかると聞いたが、待つ」


「そうですか」


「炉の火は、今年から私が見ている。湯の回し方も覚えた」


覚えた、という言い方をされた。


十年、わたしは覚えたと言ったことがない。


「株は、どのくらい残りましたか」


「半分は駄目だそうだ。残りは春に分かると」


「そうですか」


「クレア。私は、その半分を戻す」


「それは、よろしゅうございました」


「朝の茶も、自分で淹れている。渋くなる」


夫が少し笑う。笑ってから、笑うところではないと気づいた顔をした。


「聞いている」


「聞いているだけか」


「ほかに、何を申し上げればよろしいでしょう」


夫が卓の縁に手を置く。置いてから、そこが売り物の上だと気づいて、手を引いた。


「クレア。戻ってくれ。私が間違っていた」


広間は静かだった。


すぐそばの卓の売り手が、手を止めている。買い手の一人が、扇を持ち替えるのをやめた。誰も、こちらを見ないようにしながら、こちらの音だけを聞いている。


わたしは、卓の上の厚紙の束に手を伸ばした。


伸ばして、いちばん上の一枚を取らなかった。束を持ち上げて、下から三枚目を抜いた。


角が潰れて、端が少し湿っている。二年前の夏のものだ。隣領の夫人の名前が書いてある。この方が、去年の晩餐で笑った人だ。笑った席で、わたしも笑っていた。


下の段を見るのは、癖になった。上に良いものを並べる人がいるからだ。


二年前の夏、わたしは招かれていた。招かれていないと思って、その年の会に出なかった。夫人は今日、この広間にいる。三つ向こうの列で、こちらに背を向けて立っている。


束を持つ手のほうを、広間の何人かが見ている。会の招きの束は、遠目にも何であるか分かる。分かる人には分かるように、この人はそれを卓の上に置いた。


「読まれましたか」


「いや。読んでいない」


「では、中身をご存じないのですね」


「ああ」


「この一枚は、夏の会の招きです。返事の期限は、その年の秋でした」


夫が何か言いかける。言いかけて、やめた。


わたしは束を揃えて、卓の端に置く。


「お返しくださって、ありがとうございます」


夫の顔に、色が戻った。


戻ったのが分かった。この人は、こちらが受け取ったことを、受け入れたことと同じだと思っている。十年、そう思ってきた人だ。


「クレア」


「はい」


「では」


わたしは束の角を揃えていた。揃えながら答えたので、顔は上げていない。


「その方の妻という役は、とうに終わっております。ご用件はご本人へどうぞ」


角が揃う。厚紙が卓の板を打つ音が、思ったより高く響いた。


その音の後に、広間の音が戻ってこなかった。


「その方、というのは」


「わたしのことでございます」


顔を上げると、夫の背中の向こうに、三つ向こうの列が見えた。隣領の夫人がこちらを向いている。向いてから、隣の人に何か言う。言われた人が、卓の上の厚紙の束を見る。


柱のところで、叔母様が扇を開かれた。開いただけで、何もおっしゃらない。買い手の何人かが、目だけをそちらへ向けた。


夫が、周りを見る。


初めて、周りを見た。


こちらへ歩いてくるあいだ、この人は誰の顔も見ていなかった。広間に何人いるかも数えていない。門のところで泣いていた人を、わたしが名前も知らずに帰したように、この人も、ここにいる人たちを一人も知らずに入ってきた。


「クレア。お前は、私を愛していないんだな」


その言葉を、この人は十年、繰り返してきた。


繰り返すたびに、わたしは違いますと答えてきた。答えると、この人は少し落ち着く。


わたしは、今日は答えなかった。


広間の誰も、その言葉を否定しなかった。


夫が外套の前を握る。握って、それから離した。


一歩下がって、卓の角に手をつく。ついた手を、すぐに引いた。


広間の端で、誰かが咳をする。咳の音が長く残るくらい、この場所は静かになっていた。


「荷が」


ラーデンさんの声だった。


「エッセンさん。北の卓の方が、花のほうをお求めです。下の段までご覧になりたいと」


「うかがいます」


わたしは前掛けの紐を結び直す。結び直すとき、指が震えていないのを、自分で確かめた。


息が、いつもの深さで入る。広間の空気は乾いていて、草の匂いがする。


夫の脇を通るとき、外套の裾が卓の角に触れて、木札が少し動いた。わたしはそれを直した。杉の板の、自分の字が上を向くように。


背中のほうで、誰かが夫に話しかけようとして、やめる気配があった。


叔母様の脇を通った。目が合ったが、どちらも何も言わなかった。


硝子の屋根から、光が落ちている。継ぎ目の雪は、昼のうちに溶けたらしい。濁っていたところが、今は明るい。


歩くと、帯の内側の鍵が腰に当たる。この重さにも、もう慣れた。


北の卓の買い手が、束を解いて待っていた。


わたしは会釈をして、次の買い手のところへ歩いた。

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