第12話 今日の分の火
離縁が成立したのは、雪の解けかけた日だった。
登記所の窓口で、書き付けを二枚出して、判をもらう。手続きは、思っていたより短い。
窓口の係の人が、名前を書く欄を指した。
エッセンのクレア。
書き慣れた。もう手が止まらない。
帰り道、川沿いで馬を休ませた。去年の冬、この道を荷車で通ったときは、屋敷に戻る道だった。今日は戻る先が違う。
土地は、王都から半日の丘の南側を借りた。ラーデン商会が間に入って、貸し主と話をつけてくれた。畑が二枚と、古い小屋が一つ。硝子の温室はまだない。今年の秋までに、南面だけでも硝子を入れる。
貸し主は、丘の下の村の人だった。畑を二枚も遊ばせておくのは惜しいが、息子が王都へ出て手が足りない、という話だった。契約の紙は一枚きりで、期限は五年。判を押すとき、貸し主が名前を二度見た。
「エッセンさんね。薬種の」
「父の代の店です」
「うちの祖母が、あの店の薬を使っておりました」
その話を、わたしはしばらく聞いていた。父の店を覚えている人が、こんなところにいる。
小屋の中を片づけて、乾燥室にした。窓が二つあったので、内側から板を当てた。日を入れないための板だ。北の壁ぎわに梁を渡して、紐を下げた。
初めて束を吊るした日、紐の位置が高すぎて、背伸びをした。翌日、紐を三寸下げた。
炉は、屋敷のものより小さい。管も短い。夜半に一度起きるのは同じだ。
春先に、実家の乾かし方を一つ試した。父が使っていた方法で、束を二段に分けて吊るす。下の段の風が通りやすくなる代わりに、場所を取る。小屋は狭いので、半分だけそうした。
春の終わりに、ハンナが来た。
荷を一つ持って、丘の道を歩いてくる。屋敷を辞めたのだと言った。
「旦那様には、お暇をいただくと申し上げました。引き止められました」
「そう」
「屋敷の手順を知っている者が、私しかおりませんので」
「それで」
「それで、私はもう、手順を教える気がありませんでした」
ハンナが荷を持ち替える。
「奥様。ここで働かせていただけませんか」
「奥様ではないのよ」
「では、なんとお呼びすればよろしいでしょう」
少し考えた。考えているあいだ、ハンナは荷を持ったまま待っていた。
「エッセンさん、でいいわ」
「エッセンさん」
「ええ」
「では、エッセンさん。私は、まだ何もできません」
「乾かすところから覚えて」
その日から、この人は乾燥室にいる。
束の作り方から教えた。ひとつかみより多く束ねない。大きな束は、外側だけ乾いて、芯からかびる。紐を締めすぎると茎が潰れる。
笊の並べ方も教えた。重ならないように広げて、日に一度、上下を入れ替える。並べ方の癖で乾き方に差が出るから、置き方を毎回変えない。
ハンナは覚えるのが速い。
夏の初めに、乾き上がりの見方を教えた。
「茎を折るの。乾いていれば、折り口が鋭く割れる」
ハンナが笊から一本取って、指の先で折る。
小さな音がした。
「折り口が、こんなに鋭いんですね」
「そう。まだ湿っていると、折れずに曲がるの」
「では、これは」
「上がっているわ。下の段も見て」
ハンナは笊の下の段に手を入れて、一本引き抜く。折って、折り口を見て、それからこちらを見た。
「同じです」
「なら、明日、王都へ出せる」
ハンナの手は、初めのころ、束を強く締めすぎた。
「潰れると、匂いを溜めている粒まで潰れるの」
「揃っていなくても、よろしいのですか」
「風が通ればいいのよ」
その日から、この人の束は少し不揃いになった。売れ行きは、そちらのほうがいい。
叔母様から手紙が来たのは、その月のことだ。
屋敷の温室は、まだ空のままだと書いてあった。庭番が三度植え直したが、根がつかない。ゲオルクは春に一度、種の店へ行って、店の者に育て方を聞いたそうだ。聞いて、帰って、それきり行っていない。後添えの話は、いくつか出ては消えている。
わたしはその手紙を、二度読んで、しまう。
しまってから、乾燥室に戻って、笊の上下を入れ替えた。
秋に、ラーデンさんが来る。
馬車を降りて、畑を端から見て歩いた。二枚のうち、南の一枚は根のものにしてある。
「よく育ちましたね」
「土が合いました」
「合わせたのでしょう」
小屋の中も見ていかれた。梁の高さ、紐の間隔、笊の数。
「笊が足りませんね」
「冬までに、あと六枚」
「うちで作らせます。値は市のものと同じで」
「では、お願いします」
小屋の前で、書き付けを広げた。今年の分の精算と、来年の分の取り決め。数字の欄をこちらへ向けて、そこで手を止めた。
「来年の分も、あなたの名前で頼みます」
「はい」
「量は、今年の倍で考えています。ただ、無理をするなら減らします。あなたが決めてください」
わたしは畑のほうを見た。
南の一枚は、来年から二毛にできる。北の一枚は、まだ土を作らなければならない。ハンナが一人で乾燥室を回せるようになるのは、たぶん冬の終わりごろ。
「倍で、お受けします」
「分かりました」
ラーデンさんが筆を出して、わたしに渡す。渡してから、少し待った。
「もう一つ、伺ってもよろしいですか」
「はい」
「取り決めの話ではありません」
そこで、この人が言葉を選んでいるのが分かった。
「冬に、王都の家を空けます。庭のある家です。手入れをする者がいないので、荒れています」
「そうですか」
「見に来ていただけませんか。手を入れるかどうかは、あなたが決めることです」
わたしは筆を受け取って、書き付けに名前を書く。書いてから、顔を上げた。
「霜が三度降りたら、伺います」
「では、そのころに」
その人は、それ以上何も言わない。荷車のところへ戻り、御者に何か言って、こちらを一度だけ振り返る。
振り返るときの顔を、わたしは覚えておくことにした。
霜が三度降りた日、わたしは王都へ行く。
庭のある家だった。荒れているというのは本当で、垣の内側に去年の枯れ草がそのまま残っていた。日当たりは南に開けている。土を見ると、悪くない。
「手を入れるとしたら、何から始めますか」
「枯れ草を焼いて、春まで置きます。今は何も植えません」
「置くのですか」
「置くのが仕事のこともあります」
その人が頷く。それから、垣の外の道を指して、市までの距離を言った。歩いて四半刻、と言う。近い、とは言わない。
「エッセンさん」
「はい」
「私は、待ちすぎる質でして」
垣の外の道を見たまま、その人は続けた。
「先代が急いで人を決めて、良い作り手を逃しました。同じことをするまいと思っているうちに、今度は待ちすぎる。今日も、庭を見てくださいと言うのに二月かかりました」
「二月」
「秋の受け渡しの日に言うつもりでした」
わたしは枯れ草の残った垣を見ていた。十年、こちらの返事を待たない人の隣にいた。待つと言われたのは初めてだ。
「ラーデンさん」
「はい」
「春に、ここへ何を植えるかを決めるのは、わたしでよろしいのですか」
その人は少し黙って、それから、こちらを見た。
「あなたが決めることです」
「では、伺います」
帰りに、わたしはもう一度庭を見る。次に来る季節のことを考えている自分がいた。考えていることに、しばらく気づかなかった。
冬が来た。
管に湯を回す暮らしが、また始まる。小屋の炉は小さいので、薪の減りは屋敷のときより少ない。夜半に起きて、火を見て、それから寝直す。
ハンナは、自分も起きると言う。断らずに、二日に一度ずつ分けた。
十年、わたしはこれを一人でやっていた。庭番と分けていた年も、足りない分は黙って足していた。言えば相手が困ると思っていたからだ。今は、困らせる心配をしていない。この人は、困ったら困ったと言う。
明け方に目が覚めた。
外はまだ暗い。窓の外に霜が降りているのが、光の届く前の色で分かる。
上着を羽織って、小屋を出た。
畑の土は硬い。踏むと、表面だけが割れる音がする。乾燥室の戸を開けて、笊の並びを見た。ハンナが昨日入れ替えたものだ。置き方は、わたしの手とは少し違う。違っていても、乾き方は揃っている。
苗床には、木札を差してある。
札は十二枚ある。畝ごとに一枚。春に作ったものは雨で色が抜けて、夏に足したものはまだ白い。白いほうの字は、少し崩れている。誰にも見せる札ではないので、丁寧に書く必要がない。丁寧に書かなくていいものを持つのは、十年ぶりだった。
小屋のほうの窓が、内側から明るくなった。ハンナが起きたらしい。湯を沸かす音がして、それから、笊を動かす音がした。音だけで、どの笊を持ち上げたのかが分かるようになった。
炉のところへ行って、灰を掻いた。
薪を組んで、火を入れる。煙が一度戻って、それから通った。
「エッセンさん。湯、置いておきます」
戸の外から声がした。返事をすると、足音が乾燥室のほうへ行った。今日の分の束を、あの人が先に見るのだろう。
管に手を当てて待つ。管が温まり始めると、指の腹から先に分かる。
東の空が、少し明るくなってきた。
苗床の木札が、暗いうちは白く見えて、明るくなるにつれて字が読めるようになる。
湯が回る音がした。
わたしは今日の分の火を入れた。
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