第8話 叔母の帳尻
甥から使いが来たのは、雪の前の週でした。
手紙を届けてほしい、と書いてありました。自分で出したものが戻ってきたので、叔母上から渡してほしい、と。
戻ってきた手紙は、封が切られておりません。宛名の下に、届けた者の名前だけが書き足してありました。
わたくしは、その手紙を持って屋敷へまいります。
道は凍っておりました。馬車が門を入るとき、車輪が一度滑り、御者が舌を鳴らします。この坂は昔から冬に難がございます。姉が嫁いだ年に直す話が出て、そのまま四十年、直っておりません。
クレアさんは乾燥室におられました。
戸を開けると、暗くて、目が慣れるまで少し待ちました。梁から束が下がっていて、部屋の隅に笊が積んであります。
「マルタ様。お寒いでしょう」
「構いません。ここは仕事場ですから」
クレアさんは、卓の上のものを片づけようとしました。わたくしはそれを止めました。
束の下に布が敷いてあって、落ちた葉が溜まっております。捨てないのだと分かります。姉も同じことをしておりました。
「甥から預かってまいりました」
手紙を卓の端に置きました。
クレアさんはそれをご覧になります。見ただけです。手も出さず、目も逸らさず、しばらく見てから、また束の紐に戻りました。
「お読みにならないのですね」
「読めば、返事を書くことになりますので」
「返事をしない、という返事もありますよ」
「それも、返事のうちに入るのでしょうか」
わたくしは、その問いに答えませんでした。
「クレアさん。ひとつだけ伺います」
「はい」
「戻る気は、おありですか」
クレアさんは紐を結び終えて、束を吊るします。吊るしてから、こちらを向かれました。
「戻る、というのは、どこへでしょう」
それが答えでした。
帰り際に、侍女に呼び止められました。ハンナという娘です。廊下の端で、紙の束を抱えて立っておりました。
「マルタ様。これを、お目にかけてもよろしいでしょうか」
「なんでしょう」
「これを、ご覧いただきたいのです。誰にお見せすればいいのか、分からなくて」
屋敷の当番表でした。
日ごとに、誰が何をしたかが書いてあります。炭を入れた者、湯を運んだ者、客間を整えた者、温室の火を見た者。几帳面な字です。三年ぶんございました。
「なぜ、これを」
「私が付けておりました。前の家でそう教わりましたので」
「甥に見せたことは」
「ございません。お尋ねになったことがありませんので」
わたくしはその束を借りました。借りるとき、この娘の指が少し震えておりました。
甥の屋敷へ行ったのは、その二日後でございます。
書斎に通されました。机の上に紙が広がっておりますが、書かれた形跡はありません。
「叔母上。手紙は」
「返されました」
「読まずにか」
「置いてまいりました。開くかどうかは、あの方が決めることです」
甥は椅子に座り直しました。座り直してから、こちらが何か言うのを待っております。昔からそうでした。この子は、待っていれば誰かが都合の良いことを言うと思っている。
「叔母上から、話していただけませんか。私が言うと、こじれます」
「何を話せと」
「あれは、言葉のあやだったと」
「離縁の話でございますか」
「そうです」
「あやで出た言葉は、あやで戻るものではございません」
「ゲオルク。三年前の冬を覚えていますか」
「三年前」
「クレアさんが熱を出された年です」
甥の指が止まりました。
「三日下がらず、二日目の夜が峰でした。あなたは三晩、屋敷におられなかった。四日目の朝に帰って、寝台の脇で、心配させたかった、とおっしゃった」
「なぜ、それを」
「屋敷の者は、みな覚えております」
わたくしは当番表を机の上に置きました。三年前の冬の月のところが開いてございます。
「その三日、湯を運んだのはハンナ。夜半に炭を足したのもハンナ。温室の火は、庭番と、それから三日目の夜だけクレアさんご自身です。熱のある方が起きて、火を見に行っておられる」
甥が紙を見ます。
「私は、そんなつもりでは」
「つもりの話はしておりません。何が起きたかの話をしております」
「クレアは、何も言わなかった」
「言われたら、あなたは何かなさいましたか」
甥は答えませんでした。
「ゲオルク。あなたは、ご自分が愛されているかどうかを確かめたかったのでしょう」
「叔母上」
「姉のときからそうでした。あの人は庭の人で、あなたを見るのが遅かった。それは姉の落ち度です。わたくしも姉に言いました。言っても直りませんでした」
炭が一つ崩れて、火の粉が上がります。
「けれど、姉に足りなかったものを、奥方から取り立てることはできません」
「取り立てたつもりはありません」
「二年、あの娘さんをお使いになった」
甥の顔から色が引きました。
「ミレーユという方だそうですね。あの方は、あなたが奥方の顔色を知るための道具でした。ご自分でそう思っていなくても、やったことはそういうことです」
「叔母上は、私を責めに来られたのですか」
「いいえ。数えに来ました」
わたくしは当番表を閉じます。
「あなたが確かめたかったのは愛情で、使ったのはあの方の十年です」
甥は口を開いて、何も言わずに閉じました。
「十年ぶんの朝の茶と、十年ぶんの客間と、十年ぶんの夜半の火です。あなたはその全部を、確かめるための材料になさった。材料は使えば減ります。減ったものは、謝っても戻りません」
「私は、屋敷のことを、あれに任せきりにしていた自覚はあります」
「自覚がおありなら、この三年の当番表を、なぜ一度もご覧にならなかったのですか」
「見る必要が」
「ええ。必要がなかったのです。必要がないというのは、そういうことでございます」
「戻すつもりです。私は」
「戻す、というのは、どこへでしょう」
甥は机の端をつかんでおります。
「クレアに、会わせてください」
「わたくしは門ではありません」
「叔母上」
「仲介は、これで終わりです。次にお会いになるなら、ご自分の足でどうぞ。ただ、場所は選べないと思っておきなさい」
「場所」
「あの方は、もう屋敷の中だけで暮らしておられません。会いたければ、あの方が行かれる場所へ行くことになります。人のいるところでございます」
わたくしは当番表を持って立ち上がりました。
廊下に出ると、玄関のほうに人の気配がありません。以前は、この時刻に客間の灯を入れる者がおりました。今は入っておりません。
窓の外は暗くなっておりました。温室のほうに、灯が一つ動いております。夜半の火です。今年からは、あの方がお一人で見ておられると聞きました。
「叔母上。私は、どうすればよかったのですか」
その問いを、わたくしは聞かなかったことにしました。答えたところで、この子は答えを使いません。使う相手が、もう屋敷にいないのです。
それだけ言って、わたくしは甥の屋敷を出た。




