第7話 あの人が見ているもの
あたしは、数えるのが得意だ。
花売りをしていたころ、朝の市で束の数を数えて、売れた数を数えて、残りを数えた。数えられないものは持たないほうがいい。持てば、なくしたときに困る。
ゲオルク様と過ごした日を数えると、二年と一月になる。
初めの半年は、月に二度。次の半年は、週に一度。それから、決まった日がなくなった。決まった日がなくなるのは、近くなった証拠だと思っていた。よく来る人には、予定がいらない。
引き取られた家では、こういう数え方を教わらなかった。花の数と、代金と、釣りの銅貨。数えていいのはそこまでで、人の来る回数を数える娘は嫌われる。
その二年のうち、あの人が屋敷の話をした日を数えたことがある。ほとんど全部だ。屋敷の話をしない日のほうが少ない。
初めは、家のことで疲れておいでなのだと思っていた。当主というのは大変なものだと、あたしは知らなかったから。
でも、屋敷の話というのは、屋根の修理の話でも、小作の話でもなかった。
奥様の話だった。
「クレアは、その話を聞いて何と言った」
宿を引き払ってから、あたしは町の外れの部屋を借りている。家賃は安いけれど、暖炉の煙が戻る。ゲオルク様は来るたびに、煙の話をしてから、奥様の話を始める。
「何も、おっしゃいませんでした」
「何も、というのは」
「お名前を存じません、と。それだけです」
「顔色は変わらなかったか」
「あの、ゲオルク様」
「なんだ」
「その話、もう五度目です」
あの人は黙った。黙って、暖炉のほうを見た。
こういうとき、あたしの顔は見ない。
思い返すと、初めからそうだった。
会ったのは、王都の花市だ。あたしが束を作っていたら、この葉は何かと聞かれた。答えると、もう一つ聞いてくる。買いもしないのに三度来て、四度目に、屋敷の温室にも似たものがあると言われた。
そのとき、あたしはこう聞いた。
奥様がお育てになっているのですか。
あの人は、そうだ、と答えた。答えてから、少し長く黙った。あの黙り方を、あたしはうれしいと思ったのだ。奥様の話をするのがつらいのだと思った。愛のない結婚をした人が、それを口にできずにいるのだと。
物語で読んだことのある形に、うまく当てはまった。
引き取られた家の書棚に、そういう話が何冊もあった。冷たい妻がいて、心を持たない家があって、真実の愛だけが人を救う。読んだのは十六の年だ。あのころ、あたしはまだ市に立っていて、指にいつも茎の汁の匂いがついていた。
当てはめたのは、あたしだ。
「ミレーユ」
「はい」
「クレアが、王都の商会に自分で行ったらしい」
「そうですか」
「荷と一緒にだ。前は、荷だけを先に出していた」
「奥様は、お強い方ですね」
言ってから、しまったと思った。あたしは、そういうことを言う立場ではない。
けれど、あの人は怒らなかった。それどころか、身を乗り出した。
「強い、と思うか」
「……はい」
「どうしてそう思う」
あたしは答えられなかった。答えを持っていないからではない。答えると、この人が喜ぶからだ。
奥様の話をしているときの、この人の顔。
あたしは、それを二年見てきた。見てきたのに、名前をつけないでいた。
屋敷に呼ばれた夜のことを思い出す。
夏だった。客間に通されて、水差しが運ばれてきて、窓を開けたら庭の匂いがした。あたしは、いつか自分がこの家の女主人になるのだと思いながら、天井の模様を数えて眠る。
翌朝、廊下に出たとき、隣の部屋の戸が見えた。
女中が、その戸の前で盆を持って立っている。中の人が起きているかどうかを確かめている様子で、そのまま動かない。
誰の部屋なのかを、あたしはそのとき知らなかった。知らなくても、女中の立ち方で分かるべきだった。
その朝、女中は盆を持ったまま階段を下りていった。中の人は、もう起きて出た後だったのだと思う。温室は屋敷の裏にある。あたしが天井の模様を数えて眠っている間に、その人は火を見に行っていた。
あの人が、あたしをあの部屋の隣に泊めた理由。
それを今、考えている。
「ミレーユ。次の受け渡しは月末だ」
「はい」
「クレアも来るだろう」
「あの」
「なんだ」
「あたしは、どうしたらいいでしょうか」
あの人は、その問いを聞いていなかった。暖炉の火を見て、それから立ち上がり、外套を取る。
「今夜は帰る。明日、叔母のところへ行かなければならない」
「叔母様に、あたしのことをお話しになるのですか」
「話すわけがないだろう」
戸が閉まって、階段の音が遠ざかった。
あたしは、卓の上の花を見た。三日前に自分で買ったものだ。この部屋で花を買うのはあたしだけで、それを見るのもあたしだけになる。
数えるのは得意だ。
二年と一月。屋敷の話をした日、ほとんど全部。あたしの顔を見て話した日、数えられるほど。あたしの名前を呼んだ回数は、数えたくない。
「奥様に見せるため」
声に出すと、思ったより短い言葉だった。
短い言葉のほうが、たいてい正しい。
窓の外は暗い。町の外れは灯が少なくて、この時間になると、通りに人が歩いていない。
あの人が見ていたのは、いつもあたしの後ろだった。




