第6話 木札に書く名前
叔母様が来られたのは、霜が三度降りた朝だった。
マルタ様は先触れを出さない方だ。門のところで馬車を降りて、そのまま温室のほうへ歩いてこられた。玄関ではなく、温室へ。
「クレアさん。手を止めなくてよろしい」
「はい」
「わたくしは、勝手に座りますから」
叔母様は硝子ぎわの台に腰かけて、外套の前を合わせた。温室の中は外より暖かいが、まだ炉を入れる前だった。
わたしは藁を敷いていた。冬を越す株の根元に、薄すぎず、詰めすぎず。手で押さえて、厚みを確かめながら進む。
「姉が、この床にも同じことをしておりました」
叔母様がそう言われた。
「藁の敷き方で嫁の腕が分かる、と。あの人は嫁いびりのような言い方をしましたけれど、本気で言っていたのだと思います」
「先代の奥様に、お目にかかったことはありません」
「ええ。あなたが来る半年前でした」
叔母様は温室の天井を見上げられた。硝子の継ぎ目が細く光っている。
「姉は、この温室をあなたに残すつもりでした」
藁を持つ手の中で、束が少しほどけた。結び直す。
「遺言には書かなかったのですか」
「書く前に亡くなりました。冬の入りに風邪をひいて、それだけです。この家の者は、みんな冬に弱い」
「そうですか」
「わたくしが覚えている、というだけの話です。証文にはなりません」
わたしは手を止める。止めてから、また藁を押さえた。
「息子には向かないと申しておりました。ゲオルクは、ものを育てるのに向かない。待てないから、と」
「そうですか」
「あなたのことは、姉は知りませんでしたよ。誰が来るか分からないうちから、来た人に残すと決めていたのです。姉はそういう決め方をする人でした」
藁の束が一つ足りなくなって、わたしは倉のほうへ取りに行った。戻ると、叔母様は台の上の笊を覗いておられる。
「これは」
「花のほうです。葉より日数がかかりますので」
「色がきれいね」
「日を入れないようにしておりますから」
叔母様は笊を戻して、指を軽く払われた。
「ゲオルクが、あなたの話をしていました」
「そうですか」
「詳しく聞きましたか、とは聞きません。あの子の話は、いつも半分です」
「クレアさん。あなた、鍵をお持ちですね」
帯のあたりを見て言われた。
「先月から」
「そう」
叔母様はそれ以上聞かれない。聞かない代わりに、外套の前をもう一度合わせて、立ち上がられた。
「姉が死んだ年、ゲオルクは十日ほど、この温室に入り浸っておりました。何をするでもなく、椅子を置いて座っていたそうです。庭番が困って、わたくしのところへ相談に来ました」
「そのお話は、伺っておりません」
「言わないでしょうね、あの子は」
その日の午後に、王都から書状が届いた。
ラーデン商会の名で、封は蝋で止めてある。宛名は、この家ではなくわたし個人になっていた。ハンナが持ってきて、宛名を二度見てから渡した。
書かれていたのは短いことだった。次の受け渡しの前に、話をしたい。こちらから出向く、と。
ハンナが茶を運んできて、卓の隅に置いた。置いてから、下がらずにいる。
「奥様。旦那様には」
「王都の商会から書状が来たと伝えて」
「中身は」
「聞かれたら、読んでいないと答えていいのよ。読んでいないでしょう」
ハンナは頷いて、下がった。廊下の足音が、玄関のほうへ向かった。
三日後、ラーデンさんが屋敷へ来られた。その日、叔母様がまた馬車で来ておられる。用があるとは言われない。
温室の戸口で立ち止まり、中を見回してから、頭を下げられる。
「立派なものです。南面の硝子は入れ替えておられますね」
「三年前に、下の段だけ」
「継ぎ目の目地が新しい。……いや、右の端は古いままだ」
「そこは、去年直しそこねました」
ラーデンさんは笑わなかった。
乾燥室に案内した。梁から下げた紐に、束が並んでいる。
束の下に受けの布を敷いてある。
「これだけの数を、お一人で」
「十年やっておりますので」
ラーデンさんは束の一つを手に取って、鼻先へ寄せた。
「乾いて縮んでも、匂いを溜めている粒は潰れない。実家で教わりました」
「エッセンの」
「ご存じですか」
「薬種を扱う家に、その名を知らない者はおりません。先代の乾かし方は、王都でも真似ができませんでした」
紐を結び直す手が、少し遅くなった。父の店は、わたしが嫁ぐ年にたたんでいる。
「本題を申し上げます」
ラーデンさんは束を戻した。
「あなたの名前で納めませんか。私は作り手と取引をします」
乾燥室の中は暗い。板の隙間から入る光の帯が、床の上を斜めに横切っている。その帯の中を、埃が動いている。
「アルンハイムの名では、いけませんか」
「いけないということはありません。ただ、うちは名義の方が代わっても値を変えません。作り手が代わったときだけ、値を変えます」
「それは」
「その温室の品が、どなたの手で作られているかを、うちは知っておく必要があるということです」
わたしは、光の帯を見ていた。
胸のあたりが、少し落ち着かない。
「わたしの名前で納めた場合、代金は」
「作り手にお支払いします。婚姻中の所得のうち、妻名義のものが妻に属することは、登記所の書式にも書いてあります。私は法の者ではありませんが、書式は読めます」
「お返事は、次の受け渡しまでで結構です」
「今、申し上げます」
自分の声が、思っていたより早く出た。
「お願いします」
ラーデンさんは頷いた。それだけだった。書き付けを出して、卓の上で書式を確かめて、名前を書く欄をこちらに向けただけだ。
「お名前を」
ラーデンさんは、筆を渡すとき、わたしの手を見た。指の節のところが荒れている。乾いた葉を扱う手はこうなる。その人は何も言わずに、筆だけを置いた。
わたしは筆を取った。取ってから、手が止まった。
アルンハイムのクレア。十年、この名前で書いてきた。
「実家の名で書くことは、できますか」
「作り手のお名前でしたら、どちらでも」
エッセンのクレア、と書いた。
書いてから、字の並びを見た。十年ぶりに書く形だ。線の癖が、昔と少し変わっている。
ラーデンさんは書き付けを二つに折って、片方をこちらへ置いた。
「ひとつ、お伺いしても」
「どうぞ」
「なぜ、下の段からご覧になるのですか」
ラーデンさんが書き付けを畳む手を止める。
「先代が、名義だけを見て取引をしていたからです。私はその帳面を引き継ぎました。良い作り手が二人、うちから離れています。二人とも、名義の方の陰にいた」
「その方たちは、今は」
「別の商会で、自分の名前を出しております」
「では、次の霜のあとに」
「はい」
その人は帰り際、温室のほうを一度だけ見た。
「炉は、いつ入れますか」
「明後日から」
「早いですね」
「今年は、継ぎ目から冷えますので」
叔母様が門のところで待っておられる。ラーデンさんの馬車が坂を下りるのを、二人で見ていた。
「クレアさん」
「はい」
「ゲオルクは、あの品の値がどこから来ているのかを、知りません」
「ええ」
「知らないままにしておきますか」
わたしは答えない。
叔母様はそれ以上聞かずに、馬車へ戻られた。
夕方、温室の炉のところで灰を掻いた。明後日から火を入れる。夜半に一度起きる暮らしが、今年は春まで続く。
去年までは、この作業をしながら、夫が今夜帰るかどうかを考えていた。今年はもう考えていない。考えなくなったのがいつからかは、思い出せない。
日が落ちてから、わたしは倉で木札を作った。杉の端材を薄く割って、角を落とす。納品の荷につける札だ。これまではハンナに書かせていた。アルンハイムの家名を、あの子の丁寧な字で。
墨を磨って、筆を下ろした。
木札に、エッセンのクレア、とわたしの字で書いた。




