第5話 妻の名を知らなかった
ミレーユが、私の袖を引いた。
「奥様に、お会いしました」
借りている部屋は、火を大きくすると煙が戻る。それでもこの娘は、私が来る日は朝から焚いておく。
「いつだ」
「先週です。門のところで、ずっとお待ちしていたので」
「何を話した」
「奥様は、」
そこで言葉が切れる。何かを思い出す顔をして、それから続けた。
「お名前を存じません、とおっしゃいました」
「怒っていたか」
「いいえ」
「泣いたか」
「泣いてはおられません」
「顔色は」
ミレーユが黙る。黙ってから、少し体を離した。
「ゲオルク様」
「なんだ」
「奥様のことばかり、お聞きになりますね」
炭が一つ崩れて、火の色が変わった。ミレーユは膝を抱えて、私のほうを見ていない。
「わたし、宿を引き払いました」
「聞いている」
「引き払ってから、行ったんです。もう戻るところがないので」
「そうか」
「ゲオルク様。わたし、何をすればよかったんでしょう」
その問いの答えを、私は持っていなかった。
奥様のことばかり、と言われたのは初めてだ。そんなことはない、と私は答える。答えてから、自分がこの部屋に入って最初に聞いたことを思い出した。
クレアは、静かな女だ。
嫁いできた年、私は二十三で、家督を継いだばかりだった。母を亡くして半年で、屋敷の中の順序が何一つ分からなかった。誰が何をしているのか、いつ誰に礼をやるのか、冬の炭をいつ入れるのか。クレアは半年でそれを覚えて、一年で自分のものにした。私は助かったと思い、助かったことを口に出さなかった。口に出すと、頼っていると認めることになる気がした。
嫁いできた日から、声を荒らげたのを見たことがない。私が遅く帰っても、翌朝の食卓は同じ時刻に整っている。
叱られたいわけではない。ただ、何かこう、こちらの不在が向こうに残っている証拠が欲しかった。
母もそうだった。
母は温室にいる時間が長い人で、私が学校から戻っても、まず庭のほうへ回らなければ会えなかった。呼べば出てくる。出てきて、手を拭きながら、どうしたの、と聞く。用がないと言えば、また戻っていく。
私は、用のないときに呼び止める方法を、とうとう覚えなかった。
一度だけ、温室の硝子を割ったことがある。石を投げたのではない。梯子を倒した。母は割れた硝子より先に、私の手を見た。手を見て、怪我がないと分かると、また作業に戻った。あのとき、叱ってほしかったのだと思う。叱られれば、少なくともこちらを見ている時間が続く。
クレアに温室の鍵を渡したのは、母が死んだ年だ。あれは母の場所だった。渡すときに、これでこの家に残ってくれるだろうかと考えたのを、覚えている。
「ゲオルク様」
ミレーユが袖を引いている。
「聞いておられますか」
「聞いている」
「わたし、奥様に嫌われませんでした」
嫌われなかった、という言い方が引っかかった。嫌われるほどの位置にいなければ、嫌われることもない。
王都の受け渡しは、月の終わりにある。
ラーデン商会には、五年ほど前から納めている。乾かした薬草と、花のたぐい。値は悪くない。屋敷の炭代と、冬の使用人の手当は、ここからの入りで賄っている。書き付けはアルンハイムの名で受けてきた。
その日は、こちらから出向いた。取引先の会に呼ばれていたからだ。会と言っても、荷を見た後で酒が出るだけのものだ。年に二度あって、これまではクレアが荷と一緒に行っていた。今月は荷だけが先に届いていると聞いて、私が行くことにした。
店の奥に、乾いた草の匂いが溜まっている。天井が高く、壁ぎわには紙の袋が積んである。袋の腹に産地と月が書いてあって、うちの分は右の列の上から二段目にあった。数えると、十二袋ある。ひと月に一度、これだけの量が屋敷から出ていることになる。
卓の上に、うちの束が並べてあった。
ラーデンという主が出てきて、束の紐を解いた。上を寄せて、下から抜く。抜いた茎を折って、折り口を見る。
「良い品です」
「それはどうも」
「先月から、値を上げております」
「聞いている。ありがたいことだ」
「品が変わりましたので」
変わった、と言われて、私は束を見た。
「値の話でしたら、こちらは今のままで構いません」
「値の話ではありません」
ラーデンは束の下から抜いた茎を卓に置いた。
「同じ温室のものだが」
「ええ。同じ場所です」
ラーデンは束を戻して、こちらを見た。眼鏡はかけていない。四十くらいの、痩せた男だ。
「子爵様。束を作った方のお名前を、うかがえますか」
酒の卓のほうで、話し声が一つ止まった。
「作った者の名か」
「はい」
「うちの温室のものだ。うちの、その、家の者が」
「家のどなたでしょう」
去年の秋の晩餐が、そこで戻ってくる。
医院の者が、香草の出どころを褒めた。うちの温室のものだ、と私は答えている。それから、笑い話のつもりで言った。金食い虫の道楽でしてね。妻が好きでやっていることですから。
その席に、隣領の夫人がいた。その夫人が、今、酒の卓の向こうにいる。
「アルンハイム家の温室です」
私はそう答えた。
自分の声が、その言葉を出すのに少し時間をかけたのが分かった。ラーデンは待っている。
ラーデンは頷いた。頷いてから、書き付けを畳んだ。
「では、これまでどおりに」
酒の席で、隣領の夫人が私のところへ来た。
「奥様は、お元気でいらっしゃいますか」
「おかげさまで」
「秋の会にお招きしたのですけれど、お返事をいただけなくて」
私は、その招きを知らなかった。書斎の抽斗のことが頭に浮かんで、浮かんだところで止める。
「妻は、屋敷のことで忙しくしております」
「屋敷のことで」
夫人が扇を持ち替える。
「クレアさんのお作りになるものは、王都でも名が通っておりますのよ。ラーデンさんのところで、去年、譲っていただきました」
「妻の名を出しておられるのですか」
「いいえ。ラーデンさんは、作り手の名は伏せると。ただ、こちらが尋ねましたので」
夫人は扇を開いて、口元を隠した。
「あの方は、下の段まで揃っているとおっしゃいました。それで、どなたの手かと」
私は答えなかった。
扇の陰で、夫人が話を変える。天気の話になり、王都の道の普請の話になった。話が変わってからも、こちらの手のひらは湿っていた。
帰りの馬車の中で、外の暗さを見ていた。屋敷まではまだ長い。この道を、クレアは荷車で往復している。何度そうしていたのかを、私は数えられない。数えたことがない。
先月、妻が何と言ったかを思い出そうとした。離縁の手続きの順序を尋ねられた。あのとき、私は座って話をしようと言い、妻は座っておりますと答えた。
あれは、断りの言葉だったのだろうか。
離縁と言ったのは私だ。言葉のあやだった。あやだと分かるはずだと思っていた。十年、分かってきた相手なのだから。
分かってきたのは、どちらだったのか。
御者が坂の途中で馬を休ませた。夜の川の音がして、それから、また車輪が回り始めた。
馬車が門を入る。屋敷の窓は暗い。温室の側だけ、灯が一つ動いている。夜半の火の見回りだ。誰が回っているのかは、聞かなくても分かる。
妻の名を、私はその夜はじめて、取引先の口から聞いた。




