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「あなたが奥様なんですよね?」いいえ、その方の妻という役は先月で終わっておりますので、ご用件はご本人へ  作者: 九葉(くずは)


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第4話 報告するものがありません

朝の茶が出なくなって、四日になる。


出なくなった、という言い方は正しくない。誰も淹れなくなっただけだ。これまでは、私が厨房に下りる前に、奥様が湯を沸かしていた。湯の加減が難しい茶で、沸かしすぎると渋くなる。旦那様は濃いものを好まれるので、渋いのと濃いのの境目を守らなければならない。


その境目を知っているのは、この家で奥様だけだった。


四日前から、奥様は朝いちばんに温室へ行かれる。帰ってこられるのは、日が壁の上まで来てからだ。厨房に下りたときには、朝の卓はもう片づいている。


旦那様が茶の椀を持ち上げて、口をつけずに置かれた日があった。私が淹れたものだ。何も言われなかった。言われないほうが、こちらは困る。


客間も同じだった。


先週、隣領から使いの方が来られた。取次のあとで客間に通して、私は椅子の位置を直した。直しながら、何かが足りない。花のことではない。花はいつも奥様が温室から持ってこられるので、それが無いのは分かっている。


足りないのは、椅子の向きだった。


奥様は、客の身分と用件で椅子の角度を変えておられた。長居をしてほしくない客には浅く、話を聞きたい客には少し斜めに。教わったことはない。見ていて、そうしておられると知っていた。


自分でやってみると、どちらが浅いのかも分からない。


その日の使いの方は、思ったより早く帰られた。旦那様は、あれは急ぎの用だったのだろうと言われた。


乾燥室には、三日、日が入った。


板を下ろすのは、もともと私の仕事ではない。奥様がご自分でされていた。先日から、見ておくようにと言いつかっている。けれど、あの朝は霜が強くて、奥様は日の出前から温室に出ておられた。私は、板が上がったままなのを見て、そのまま通り過ぎた。誰の仕事でもないことは、誰もやらない。


三日目に奥様が戻られて、乾燥室の戸を開けて、しばらく黙っておられた。


笊の上の花の色が変わっている。白かったものが、薄い茶色になっている。奥様は一枚の笊を持ち上げて、光にかざしてから、下ろした。


「日除けを、下ろしておいてくれる」


叱られると思っていた。叱られたほうが楽だったと思う。


その日から、私は朝と夕に日除けを見に行く。板の隙間から入る光でも、色は抜ける。抜けた色は戻らない。値がつかないという意味だと、あとで教わった。


炭の減りも早い。前は、火を落とす時刻が決まっていた。誰が決めていたのかを、私はこの四日で知る。


旦那様に呼ばれたのは、その晩だった。


書斎の戸を叩く。入れ、と声がする。旦那様は机に向かっておられて、こちらを見ずに聞かれた。


「奥様の様子はどうだ」


この問いを、私は二年半ほど受けている。


初めて聞かれたときは、心配しておられるのだと思っていた。奥様が痩せられた時期で、私も気にしていた。だから、よく召し上がっていない、とお答えした。次の日の食卓に、奥様の好きなものが並んだ。それを見て、私は自分のしたことを良いことだと思った。


そのうち、問いの中身が変わった。


今日は何か言っていたか。誰かの名前を出したか。私が遅く帰った日、どんな顔をしていた。怒っていたか。泣いたか。


顔のことを聞かれるようになってから、私は答えを短くした。短くしても、旦那様は続きを待たれる。待たれると、こちらは何か言わなければならない気持ちになる。


言ったことはいくつもある。奥様が窓の外を見ておられた。奥様が食事を残された。奥様が、いつもより早く休まれた。


そのどれも嘘ではない。嘘ではないものを集めて渡すことが、何になっていたのかは、考えないようにしていた。


「様子は」


旦那様がもう一度言われた。


私は、この四日のことを思い返した。


奥様は朝に温室へ行かれる。夜半に一度起きて、炉を見に行かれる。乾燥室では笊の上下を入れ替えて、束を吊るし直しておられる。手の動きは前と同じだ。前と違うのは、こちらが部屋に入っても、顔を上げられないことだ。


上げないのではない。上げる用がないのだと思う。


問われたことに、当てはまるものが何もなかった。怒っておられない。泣いておられない。窓の外も見ておられない。


「旦那様にお伝えすることは、何もございません」


旦那様の筆が止まる。


「何もない、というのは」


「言葉のとおりでございます」


「クレアは何か言っていただろう」


「私にはおっしゃいません」


「お前には言うはずだ」


私は黙っていた。黙っているあいだ、旦那様は机の上の紙を一枚ずらして、また戻された。


「もういい」


書斎を出て、廊下を歩いた。灯を持つ手が少し重い。二年半、この廊下をこの用件で歩いてきた。


厨房の前を通るとき、料理番が顔を出した。何か聞きたそうな顔をして、それから引っ込めた。この家では、聞かないことが行儀になっている。行儀を守っているうちに、屋敷の中で誰が何をしているのかを、誰も言わなくなる。


翌朝、私は湯を沸かした。奥様の淹れ方をまねる。やはり渋い。


温室のほうから、硝子の戸の音がした。奥様が中におられる。私は椀を下げて、代わりに乾燥室の日除けを見に行った。板は下りている。下りているのを確かめるのが、今の私の仕事だ。


旦那様にお伝えすることは、その日から本当に何も無くなった。

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