第3話 鍵の在り処
王都へ行く日は、朝が早い。
荷は前の晩に積んである。麻袋が六つ、木箱が二つ。木箱のほうは花で、袋よりも扱いが面倒だ。荷車の後ろに乗せて、揺れの少ないところに置く。
ハンナが門まで出てきた。
「奥様。旦那様には」
「王都の商会へ行くと伝えて」
「それだけで、よろしいでしょうか」
「それだけよ」
ハンナが頭を下げる。下げてから、荷車の縄を一度引いて、緩みがないのを確かめた。
道は坂を下って、川沿いに出る。霜が降りた朝で、川面から靄が上がっていた。御者は無口な人で、わたしも黙って座っていた。
荷車の板の上で、麻袋の口の縄が揺れている。縄の結び方は実家で覚えたものだ。エッセンの家では、薬種を扱う者は縄の結び方から仕込まれた。父の代で店をたたんだので、今それを使うのはわたしだけになった。
昨日の夜、寝つく前に数えたことがある。
三年前の冬、わたしは熱を出した。三日下がらない熱で、峰は二日目の夜。ハンナが濡らした布を替えに来て、替えるたびに、旦那様はまだお戻りではありませんと言った。
三日目の夜は、庭番の当番だった。朝までもつかどうかが気になって、わたしは起きて温室へ行った。廊下を歩くとき、自分の足音がやけに大きい。ハンナは翌朝、そのことに何も言わなかった。
四日目の朝に夫が帰ってきて、寝台の脇に立って、こう言った。
心配させたかったんだ。
その言葉を、わたしはそのとき理解しなかった。熱のせいだと思っていた。今は意味が分かる。分かったところで、あの夜に戻れるわけではない。
熱が下がってから、わたしは温室に行った。三日ぶりの株は、庭番が水をやりすぎて、根のあたりが重い。乾かすのに十日かかる。ただ、そのときに、この十日は誰の十日なのだろうと思った。
夏には客間に人が泊まった。わたしの寝室の隣の部屋だ。使用人が朝に水を運んで、昼前に出ていって、その日の午後に部屋の窓が開けられた。誰が泊まっていたのかは、聞かなかった。聞かなくても、寝室の壁は薄い。
数え終えると、眠くなった。
王都に入るのは半年ぶりだった。市の日で、通りに荷車が詰まっている。花売りの娘が二人、束を抱えて荷車の間を抜けていった。歳は二十くらい。片方が声を出して、片方は黙って歩いていた。
ラーデン商会は、王都の南の通りにある。石造りの二階建てで、一階の奥が荷を見る場所になっている。天井が高くて、乾いた草の匂いが天井のあたりに溜まっている。
土間に樽が並んでいて、壁ぎわには紙の袋が積んである。袋の腹に、産地と月が書かれていた。
荷を下ろすと、店の者が三人がかりで卓に並べた。麻袋の口を開けて、束を出す。
奥から出てきたのは、年配の男の人だった。四十くらいだろうか。袖を留めて、卓の前に立つ。
「ラーデンです」
「アルンハイムから参りました」
その人は頷いて、それから束の紐を解いた。解いてすぐには見ない。上の葉を横へ寄せて、束の下のほうから引き抜いた。
引き抜いた葉の茎を、指で折る。折り口が鋭く割れる音がした。
「下の段まで揃っている束は珍しい。これはご当主の手ではありませんね」
わたしは答えなかった。
「上だけ良いものを並べる者は多いのです。売り手の癖は下の段に出ますから、こちらは下から見ます」
ラーデンさんは二つ目の束を解いて、同じことをする。三つ目は解かずに、重さだけを見た。
「香りの立ち方が違いますね。乾いて縮んでも、匂いを溜めている粒は残ります。急いで乾かすと、その粒ごと潰れる」
「火を使うと早いのですが」
「早いものは、早いなりの値になります」
ラーデンさんは花の木箱の蓋を開けて、指を入れずに顔を近づけた。
「花のほうは、日数をかけましたね」
「葉より、四日多く」
「四日」
その人が顔を上げる。
「日に一度、上下を入れ替えましたか」
「はい」
「笊の置き方は変えていない」
「変えると、乾き方に癖が出ますので」
ラーデンさんは、それきり何も言わずに、書き付けを取りに行った。戻ってきて、卓の上で数字を書いて、こちらに向けた。前の月より二割高い。
「値が違います」
「品が違いますので」
「以前のものも、同じ場所で作られたものです」
「存じています」
その人は書き付けの端をそろえた。
「以前の分は、名義の方の品として値をつけておりました。うちは作り手と取引をします。どなたの手か分からないうちは、それ以上の値がつけられません」
天井の高いところで、鳩が動く音がした。
「以前の書き付けを見ました。この五年、同じ月に同じ品が同じ量だけ届いています。荷が乱れないというのは、作る人が一人だということです」
「そうかもしれません」
「うちの先代は、名義だけを見て取引をして、いい作り手を二人ほど逃しました。その二人は、別の商会で自分の名前を出しています」
「作り手の名前を、うかがってもよろしいですか」
わたしは、その問いに答えなかった。答えるには、決めなければならないことが二つある。決めていないことを口にすると、後で自分が困る。
「今日のところは、このままで」
ラーデンさんは頷いた。押してはこない。
「では、このままで。次にお持ちいただくときに、うかがいます」
店を出るとき、ラーデンさんが戸口まで来た。
「次はいつごろに」
「霜が三度降りたあとに、根のものを」
「では、そのころに」
それから、その人は御者のほうへ声をかけた。
「川沿いは、日が落ちると凍ります。橋の手前で一度、輪を見てください」
御者が頷いた。わたしにではなく、御者に言う人だ。
握手も、見送りの長い挨拶もなかった。荷車が動き出してから振り返ると、その人はもう店の中に入っていた。
帰りの道で、荷車は軽い。空の麻袋が畳んで積んであるだけだ。川沿いに出るころには靄が消えていて、水の色が見えた。
温室に着いたのは、日が傾いてからだった。
硝子の継ぎ目に手を当てる。冷えが指の腹に来る。今年は例年より早い。継ぎ目の目地に、去年の詰め物が残っている場所があって、そこだけ冷たさが違う。
炉のところへ行って、灰を掻き出した。管の口を開けて、詰まりがないのを確かめる。冬のあいだ、この管に湯を回し続ける。一晩落とせば、朝には葉先から傷む。
株のあいだを歩いた。冬に向けて葉を落とすものと、そのまま越すものが混ざっている。越すもののほうに、藁を敷く。敷き方が薄いと、朝に霜が入る。
火の当番は、去年まで庭番と分けていた。夜半に一度起きて見に行くのは、わたしの当番だ。庭番の日は、朝にわたしが見に行って、足りない分を足した。足りないと言ったことはない。言えば、あの人が困る。
今年は分けないことにした。
庭番に言うと、あの人は喜ぶかもしれない。夜半に起きなくてよくなる。決めていいことだったのに、これまで一度も、自分で決めた覚えがない。
日が落ちる前に、乾燥室に寄った。日除けの板は下りている。ハンナが確かめたのだろう。笊の上下は入れ替わっていた。指の跡が笊の縁に残っていて、置き方は少し違うけれど、順番は守られている。
屋敷に戻ると、書斎の灯が消えていた。夫は今夜も遅い。
わたしは書斎に入って、壁の鍵を見た。鍵は五つ並んでいる。倉の鍵、酒蔵の鍵、東の門の鍵、書物の棚の鍵、それから温室の鍵。
十年前、この鍵はわたしの手に渡された。母上が遺されたものだからと、夫が言った。あのときの手つきは丁寧だった。
いつ壁に戻ったのかは、やはり思い出せない。誰かが取り上げたのではない。わたしが自分で、みんなの分と一緒に掛けたのだ。
鍵を外した。壁の釘には、鍵の形の色の差が残っている。長く同じところに掛かっていたものは、外すと跡が出る。
抽斗は、昨夜と同じ幅で開いたままだった。厚紙の束も同じ位置にある。触らずに、書斎を出た。今日はそれを持ち出す日ではない。持ち出す日が来るとしたら、その日は、こちらが場所を選ぶ。
廊下でハンナとすれ違った。灯を持っている。わたしの手元を見て、それから何も見なかった顔をした。
「奥様」
「明日から、温室の火はわたしが見ます。庭番には、そう伝えて」
「夜半のぶんもですか」
「夜半のぶんも」
「奥様。私がお起こしします」
「起きられるから、いいのよ」
「では、湯だけ置いておきます」
断る理由がなかったので、頷いた。
ハンナは頭を下げて、灯を持ったまま少し立っている。
「奥様。旦那様に、お伝えすることは」
「必要なら、ご自分で聞かれるでしょう」
自分の部屋に戻って、帯を解いた。解いて、締め直すときに、鍵を内側に挟んだ。歩くと、腰のところに硬いものが当たる。
温室の鍵は、その日からわたしの帯の内側に移った。




