第2話 妬いてほしかった人
夫が帰ったのは、夜の食事の時間を一刻ほど過ぎてからだった。
玄関で外套を脱ぐ音、それを受け取るハンナの声、階段の一段目で止まる足音。順番はいつもと同じだ。違ったのは、居間の戸を開けるまでの間が長かったことだ。
食事の卓はもう片づけてある。料理番は二人分を作って、片方に布をかけて残していた。
「起きていたのか」
「まだ、少し明るいので」
わたしは膝の上の紙に、来週の刈り取りの順を書いていた。書きかけの行に、夫の影が落ちる。
夫は卓の上の布を見て、それから何も言わずに椅子のところまで来た。
「今日は、何もなかったか」
答えを持っている人の聞き方だった。廊下でハンナと何か話してから、この部屋に入ってきたのだと分かる。
「変わりありません」
「客は」
「門のところに、ひとり」
夫が椅子の背に手を置いた。置いてから、座らなかった。
「それで」
「馬車を呼びました。乗らないと言われたので、そのままにしました」
紙の上の字が一行ぶん止まる。わたしは筆を置いた。
「そのままにした、というのは」
「門は屋敷の外です。わたしが指図する場所ではありません」
夫が、椅子の背から手を離した。
「怒っていないのか」
「何にでしょう」
「いや」
言いかけたものを引っ込める言い方も、この人は変わらない。
「ミレーユのことは、その、話せば長い」
名前を、この家の中で聞くのは初めてだった。
「聞かなくても大丈夫です」
夫が黙った。暖炉の火が薪の位置を変えて、音を立てる。
「大丈夫、というのは」
「困っていないという意味です」
「困っていない」
夫はその言葉を繰り返した。繰り返し方に、探すような響きがあった。
「お前は、何も聞かないんだな」
「聞いたほうがよろしいですか」
「そういうことではない」
夫は暖炉の前まで歩いて、火に背を向けて立った。この人は怒ったときにここに立つ。十年で覚えた場所だ。
「二年だそうです」
わたしがそう言うと、夫の肩の線が変わった。数えたのはわたしではない。門のところに立っていた人が、自分で数えて持ってきた。
「クレア」
「はい」
「お前は、私を愛していないだろう」
この言葉は初めてではない。三年前の冬にも聞いた。去年の春にも聞いている。そのたびに、わたしは違いますと答えて、答えたあとで温室に行き、火の残りを見た。
今夜は、答えが出てこなかった。
違いますと言えば、この人は少し落ち着く。落ち着いた顔を見れば、わたしも仕事に戻れる。十年、その順番でやってきた。今夜そうしないのは、腹を立てているからではない。言葉を探して、手が届く場所に何もなかった。それだけだ。
「返事は」
「何と申し上げればよろしいでしょう」
「そうやって、いつも」
夫の声が高くなって、途中で自分で下げた。使用人が廊下にいることを、この人はいつも忘れない。
「お前は、私と離縁でもしたいのか」
暖炉の薪がまた鳴った。
わたしは、その言葉が部屋の中に落ちてくるのを見ていた。十年のあいだ、拾わなかったものがいくつもある。拾わなければ、なかったことにできると思っていた。
「手続きの順序を教えていただけますか」
夫の顔から、火の色が引いた。
「今、何と言った」
「離縁の手続きです。書き付けが要るはずですが、どれを先に出すのか、わたしは存じません」
「クレア」
「登記所に届けるのは、両方の署名が揃ってからでしょうか。それとも、先に教会の記録のほうを直すのでしょうか」
「クレア。座って話をしよう」
「座っております」
「そんな話をしているんじゃない」
「では、どの話をしていらっしゃいますか」
夫が黙った。暖炉の前から動かない。
「私は、お前に出ていけと言ったわけではない」
「はい」
「言葉のあやだ。分かるだろう」
「分かります」
「分かるなら、なぜ書き付けの話をする」
なぜ、と聞かれても困る。出された言葉を、出したとおりに受け取っただけだ。
わたしは膝の紙を畳んで、卓の端に置いた。書きかけの行はそのままにしてある。明日の朝、続きから書けばいい。
「先月、商会からの書き付けが届いていました」
「乾かしたものの代金です。アルンハイムの名前で受けておられました」
「当然だろう。この家のものだ」
「ええ」
「お前が好きでやっていることに、名前まで付ける必要があるのか」
好きでやっていること。その言い方は、去年の晩餐の卓の上にもあった。あのとき笑った人たちの顔は、もう思い出せない。夫の言い方だけが残っている。
「必要かどうかは、まだ考えておりません」
「クレア」
「ただ、名前が違うと、次に買う方が、誰の手のものか分からなくなります」
夫は、その意味を聞き返さなかった。
夫が居間を出ていった。出ていくとき、扉を強く閉めなかった。閉めれば音が残る。音が残れば、明日の朝、使用人がそれを覚えている。
わたしは灯を持って廊下に出た。
書斎の戸が開いたままになっていた。廊下を通るとき、机の抽斗が半分開いているのが見えた。中に、封を切っていない厚紙の束が入っている。上の一枚に、この家の宛名が書かれていた。宛名の下の行に、わたしの名前がある。二枚目も、三枚目も、角の潰れ方が違う。同じ日に届いたものではない。
隣領の夫人の名前が見えた。去年の秋、晩餐で笑った人だ。その後、招かれた覚えがない。招かれていなかったわけではないらしい。
わたしは足を止めなかった。止まれば、見たことになる。
灯の油が少し跳ねて、廊下の壁に影が動いた。
自分の部屋に戻って、灯を細くした。窓の下は暗い。門のあたりに、もう人はいない。
十年前、わたしがこの家に来た日、夫は温室を見せてくれた。母上が遺されたものだと言って、鍵を渡してくれた。あのときの手つきを、わたしはまだ覚えている。渡すときの手のほうが、受け取るときの手より丁寧だった。
その鍵は今、書斎の壁にかかっている。いつ戻したのかは思い出せない。誰かに取り上げられたのではなく、わたしが自分で掛けに行った。
廊下に足音がして、扉の前で止まった。ハンナだ。灯りを消しに来る時間だが、扉を叩かずに立っている。叩けない用件を、この人は持っている。
わたしは扉を開けた。
「奥様。あの、旦那様が」
「いいのよ」
ハンナが言葉を切る。切ってから、頭を下げた。下げたまま、少し長い。
「奥様。私は」
「明日の朝、乾燥室の日除けを見ておいて。今日は開けていないはずだけれど、確かめて」
ハンナは頷いて、灯りを消して回った。
明日の朝、わたしは温室に行く。管の火を入れる日を決めて、笊の上下を入れ替えて、それから王都の商会に手紙を書く。順番はもう決まっている。手紙の文面も、半分は頭の中にある。残りの半分が書けないのは、差出人の欄をどう書くか決めていないからだ。
決まっていないのは、この家に自分の名前で残るものが何かということだけだ。
わたしは離縁に要る書き付けの数を、ハンナに調べてくるよう頼んだ。




