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「あなたが奥様なんですよね?」いいえ、その方の妻という役は先月で終わっておりますので、ご用件はご本人へ  作者: 九葉(くずは)


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第01話 名前を知らない人が泣いている

その人の名前を、わたしは知らなかった。


扉を開けたのはハンナで、開けたまま動かなくなった。その肩の脇から、外套の裾が見える。裾の色が下半分だけ濃い。歩いてきた人の濡れ方だ。砂利の上に、馬車の輪の跡は一つもない。


「奥様ですよね」


声が先に届いて、それから顔が上がった。目のふちが赤い。泣いていたのは、ここへ来る前からだ。


「あなたが、奥様なんですよね」


わたしはハンナの前に出て、頷いた。二度目は確かめる声ではなくて、自分に言い聞かせる声だった。


「ミレーユと申します」


その名前に、心当たりがなかった。この家に出入りする商人の名にも、去年の招待の返事にも、聞いた覚えがない。


「どうやって来られたのですか」


「歩きました。麓の宿を引き払ってきたので」


「ゲオルク様から、お聞きになっていませんか」


聞いていない。夫が誰かの名前をわたしに教えることは、この数年なかった。


風が出て、玄関先の砂利が鳴った。ハンナは中へ下がって、扉を細く引いた。隙間からこちらを見ていて、目が合うと、扉はその幅で止まる。


この人は小さな包みを胸の前で持っていた。布の角が擦り切れている。中身は聞かなかった。聞けば、それも受け取ることになる。


「わたしたち、二年になります」


ミレーユさんはそう言って、泣いた。声を出さずに、肩の高さだけが少し変わる。泣き方に手順のようなものがあった。ここへ来るまでの馬車のない道で、何度か練習してきたのだろうと思う。


「二年です。王都の宿の名前も、いただいた櫛の細工も、全部言えます」


言えるのだろう。数えられるものを持っている人の言い方だった。


「ゲオルク様は、奥様のお話をよくなさいます」


その一言だけ、泣き方の手順から外れていた。言ってしまってから、この人は自分の言葉を聞き直すような顔になる。


わたしは、自分が何を言うべきかを少し考えた。


十年のあいだに覚えた返事なら、いくつもある。客が困ったときの返事、夫が試すような聞き方をしてきたときの返事。どれも、相手が次に何を言うかを楽にするための返事だった。


この人が待っているものは分かる。わたしが青ざめること。声を荒らげること。名前を呼んで問い詰めること。腕をつかんで、いつからだと聞くこと。そういう形をした返事を受け取るために、この人は雨の残った道を歩いてきた。


けれど、探しても出てこないものは出てこない。


「奥様。何か、おっしゃってください」


「失礼ですが、お名前を存じません。ご用件はご当主へどうぞ」


言い終えてから、自分の声が思っていたより低いのに気づいた。玄関先の空気が変わる。ミレーユさんの表情から、ここへ来るまでに用意してきたものが一枚ずつ落ちていく。


「そんな。悔しくないんですか」


悔しい。その言葉を、わたしは口の中で一度置いてみた。十年前なら形になったはずのものが、今は輪郭を持たない。


「わたし、奥様に会いに来たんです」


「そのようですね」


「ひどいことを言われる覚悟で来ました」


覚悟という言葉を、この人は正しく使っている。それでも足りないものは足りない。


「奥様は、ゲオルク様が朝に何を召し上がるかご存じですか」


「卵は半熟で、茶は濃いものを」


「……お答えになるんですね」


「聞かれましたので」


ミレーユさんが黙った。用意してきた問いのうち、いくつが使えなくなったのかを数えているように見えた。門のほうで風が鳴って、外套の裾がまた膝に貼りついた。


「ハンナ。馬車を呼んで差し上げて」


扉が開いて、ハンナが出てくる。頭を下げる角度が、いつもより浅い。


ハンナは馬車の手配に行く前に、外套の裾を一度見た。濡れた布は、日が落ちれば体温を持っていく。それを知っている顔だった。


「乗りません」


ミレーユさんは砂利の上で一歩下がった。


「ゲオルク様がお帰りになるまで、門のところで待ちます」


好きになさってください、とは言わなかった。言えば、それも返事の一つになる。わたしは会釈をして、扉を閉めた。閉めた後の廊下は暗くて、外の明るさが目の裏に残っていた。


乾燥室は屋敷の北の端にある。日の入らない部屋で、それが理由でこの部屋を選んだ。窓には内側から板を当てて、光を通さないようにしてある。色が抜けた葉は値がつかない。


乾燥室へ行く前に、温室へ回った。


硝子の継ぎ目に手を当てると、外の冷えが指の腹に伝わる。継ぎ目は、この建物でいちばん熱の逃げるところだ。炉はまだ入れていない。今年は入れる日を五日ほど早めることになる。壁ぎわの管に触れて、湯が回っていない冷たさを確かめた。冬になれば、この管が冷えないように夜中に一度起きる。十年、そうしてきた。


株のあいだを歩いて、葉先の様子を見た。数を数えるわけではない。一巡すれば、どれが今週で、どれが来週かが分かる。


乾燥室へ入った。朝に刈った枝が、まだ卓の上に広げたままになっていた。麻紐を取って、少しずつ束にしていく。ひとつかみより多くまとめない。大きな束は、外側だけ乾いて、芯のところからかびる。十年やっていれば手が量を覚える。数えなくても、指の間の太さで分かる。


束ねたものを、梁から下げた紐に逆さに吊るす。間隔も決まっている。詰めると風が通らない。吊るし終えた列を端から見ていくと、昨日の分がもう色を変え始めているのが分かる。


隣の卓には笊が三枚。花を広げたものは、葉より日数がかかる。日に一度、上下を入れ替える。並べ方の癖で乾き方に差が出るので、笊ごとに置き方を変えない。誰も見ていないから、誰も数えない。屋敷の者はこの部屋を、奥様の手仕事の部屋と呼ぶ。


去年の秋、この家で晩餐があった。王都から医院の方が二人と、隣領の夫人が来ていた。卓には秋の鴨が出て、付け合わせに温室の香草を使った。医院の方が、この香りはどちらのものかと尋ねる。うちの温室のものです、と夫が答えた。そこまでは正しい。


それから、話の流れで温室そのものの話になって、夫が笑いながら言った。


うちのは金食い虫の道楽でしてね。妻が好きでやっていることですから。


医院の方が、それは失礼、と笑った。隣領の夫人も笑った。わたしも笑った。あの席に、笑わないという選択はない。


その月に商会へ納めた乾燥薬草の代金は、屋敷のひと冬の炭代の三倍あった。翌朝、夫は寝室の戸口で足を止めて、昨日は機嫌が悪かったのか、と聞いた。そんなことはありません、とわたしは答える。答えてから、自分がどんな顔で笑っていたのかを思い出そうとして、思い出せなかった。


紐の端を結び終えて、手を離す。束が少し揺れて、止まる。


束のひとつを鼻先に寄せた。乾くと葉は縮むのに、匂いを溜めている粒はそのまま残るからだと、母に教わった。


指の腹に葉の匂いが残る。この匂いは石鹸では落ちない。三日ほどかけて薄くなって、その頃にはまた次の枝が来る。


廊下に足音がした。厨房のほうへ行く足音で、途中で止まって、それから低い声になった。


「門のところに、まだ」


「奥様は」


「お変わりありません」


板の隙間から、わずかに光が入っている。埃が動いているのが見える。わたしは笊の位置を直して、上下を入れ替えた。


ハンナの声が、いくつかの言葉を挟んで途切れた。誰に向けて話しているのかは分かる。この屋敷で、わたしの様子を知りたがる人はひとりしかいない。


いつからそうなっていたのかは、思い出せない。夫が帰宅して最初に聞くのが、今日の妻の機嫌だった時期がある。わたしはそれを、気にかけてもらっていると受け取っていた。受け取っていた自分のことは、今日はうまく思い出せない。


問い質そうと思えばできた。聞けば、ハンナは正直に答えるだろう。答えたあとで、この人が困る。


足音は厨房のほうへ戻っていった。


夕食の支度の音が、床を通って伝わってくる。今夜、夫が帰るかどうかは知らされていない。知らされていないことは、この家では珍しくない。料理番は二人分を作り、片方は朝に別の形になって出てくる。


夕方になって、日が傾いた。乾燥室を出て階段を上がり、二階の廊下の窓から門を見る。ミレーユさんはまだそこにいた。外套の裾は乾いていて、色が元に戻っている。門柱に背をつけて、道の先を見ていた。


わたしは自分が何を感じているかを確かめようとした。出てきたのは、あの人の外套は薄いという事実だけだった。冬の初めの風は、あの立ち方では防げない。


日が沈む前に、馬車が門を回ってきた。ハンナが呼んだものではない。この家の紋の入っていない、貸しの馬車だ。誰が呼んだのかは考えないことにした。


御者が降りて、扉を開ける。ミレーユさんは道の先をもう一度だけ見た。夫の馬車が来る方角だ。それから乗った。扉が閉まる音が、二階まで届いた。


車輪が砂利を噛んで、道へ出て、坂を下りていく。音は思ったより長く続いた。屋敷はその間、静かにしている。


階段を下りる途中で、下の物音が止まる。


階段の下に、ハンナが立っていた。厨房の戸口には料理番が、玄関の脇には庭番が、それぞれの持ち場のふりをして立っていた。庭番は箒を持っているのに、床は掃かれていない。料理番の手には布が握られたままで、湯気の立つ鍋はそのままにされている。全員が同じところを見ている。


馬車の音が遠ざかっても、屋敷の誰も、わたしの顔から目を離さなかった。

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