第八話「この国を、頼みましたよ」
「この私、アレクシス・ディアロ・ベスチアは、ヴァレンティ―ナ・ロマーノとの婚約を破棄する!」
どよめきが走る。
それは驚愕というより、舞台の幕が落ちる前の歓声に似ていた。
おそらくここにいる貴族の人達も、内心では私に対する不満がずっと溜まっていたのだろう。自分たちよりも国民から敬れ、ちやほやとされ、お高く留まっているように見えた聖女。
プライドが高く、生まれながらに他人を支配する事を義務付けられている彼らにとって、私という存在が虚仮にされている様は実に痛快なのかもしれない。
―――だが、それだけでは終わらなかった。
王太子殿下の声色が変わる。
さきほどまでの高揚を残しながら、ぐっと低く、冷たく沈む。
「さらに国民を欺いた罪として、聖女の称号を剥奪。ヴァレンティ―ナ・ロマーノを斬首刑に処す!」
その言葉を聞いた刹那、私の世界から音が消えた。
いや、正確には音はそこにあるのに、私の耳がそれを拒絶した。会場のざわめきも、衣擦れの音も、呼吸の音すら遠い。
まるで深い水の底に沈められたかのように、世界が鈍くなる。
大多数の鋭い目線に晒され、私の胸の奥でひゅっと冷たい風が通り抜ける。けれど不思議と恐怖は湧いてこない。
もちろん怖いはずなのに、心が叫ばない。
どこか遠い場所で場所で自分を俯瞰し、見下ろしているような感覚があった。
怖いという感情の代わりに、何かがゆっくりと固まっていく。
(……あぁ、そう)
私がこの国を護るために捧げたもの。
血を吐きながら回った村々。
倒れかけても立ち上がった夜。
祈りの言葉。
結界を張る指先の痛み。
救えた命と、救えなかった命。
―――これまでの事が、まるで走馬灯のように頭を廻る。
「うそっ、ヴァレンティ―ナ様が?―――そんな、ことって…」
隣にいたパトラの肩がわずかに跳ね、私の腕に添えられていた彼女の指先が、ぎゅっと硬くなる。
悲痛と絶望を含んだ途切れ途切れの声が、かすかに耳に届く。
(パトラ……)
私は教会に所属する人間で、選定された聖女―――それ以前に、この王国の国民なのだ。
私はこの国に産まれ堕ちた者として、この国の王族が決めた事であれば、受け入れる他ない。だが一つ、一つだけ、私はここで打ちひしがれるよりも先に、言うべき言葉を口にした。
「ではっ、一つだけっ!」
声を張り上げた。それは驚くほど掠れた声だった。
「私の犯した罪があるというなら、それは受け入れます。ですが……!」
喉の奥が熱い。
言葉の途中で、胸が苦しくなる。
なぜなら―――この国の結界に綻びが出て、実際に被害が出たことは事実だからだ。私の努力がどうであれ、結果として守り切れなかった命がある。
だからこそ、私は聖女として―――最後に出来る事をするんだ。
「私と共に王国を周っていた聖団のメンバー…彼らだけは、どうか不問にしてくださいっ!彼らは私に付き従ってくれていただけなのですっ…!どうか…どうか、それだけは…!」
「ヴァレンティーナ様!なにをっ!」
「パトラ、これからのこの国を、頼みましたよ…」
声が震えるのを抑えられない。けれど目は逸らさない。
せめてこれが決まった事ならば、私の死だけで全てを丸く収めたい。
私と共に旅をした聖団のメンバーなら、私がいなくとも、魔獣に対抗できるだけの経験と知識がある。
それならば、まだこの国は―――
「黙れっ!罪人の言葉など、聞くに値せん!」
ぷつり、と胸の奥で、何かが切れる音がした。
それは怒りでも悲しみでもない。もっと静かで、もっと決定的な音だった。
―――あぁ、そうか、私はこの人に、最初から人として扱われていなかったのだ。
婚約者としてでもない。聖女としてでもない。ましてや、同じ国を生きる者としてでもない。
私はただ、使えるうちは使い、邪魔になったら切り捨てればいい駒だった。
私はこの、アレクシス・ディアロ・ベスチアという男を侮っていた。王太子としては失格でも、まだこの国を生きる一人の人としての分別は持ち合わせていると思っていたのだ。
いや、実際に昔はそれも弁えていたのだ。だが、今となっては―――
私は胸を押さえ、その中にある宝物をそっと握りしめる。
特に意味があってのことじゃない、でも―――そうする事で、遠くなる意識をなんとか掴んでいられる気がしたんだ。
私が視線を落とさぬまま立っていると、殿下は再び声を張り上げた。
それはまるで、物語の正義役を演じるかのように。
「そんな事よりも、この悪行を密告してくれた勇気ある令嬢を皆に紹介しよう!彼女こそが、真にこの王国を愛し、正義感に溢れた本当の聖女。マチルダ・ロマーノだ!」
「……お姉さま、何故こんな事を…」
一歩前へ出てきたのは、私の妹――マチルダだった。
煌びやかなドレスに身を包み、纏められ整えられた髪。頭のてっぺんからつま先まで豪華絢爛に着飾った彼女は、いつもとは打って変わって背筋をすっと伸ばし王太子殿下の隣に立つ。
その姿勢はまさに王太子殿下の片割れに相応しい佇まいで、上座から私を心配そうに見下ろしている。
「信じられません…。いつも気高く、お優しかったお姉さまが、こんな大罪を犯すなんて…」
けれど、私にはわかる。姉である自分にだけは悟る事が出来る。その瞳の奥にあるのは、溢れんばかりの愉悦だ。
いつも私を蔑み、こき下ろしている時と、同じ目をしていた。
そして、ほんの僅かに上がっている口端を見て、この胸の中を絶望が渦巻く。
(マチルダ…そこまでして、アレクシス殿下と結ばれたかったの…?私を貶めてまで…)
その刹那―――また、マチルダと王太子殿下の眼が昏く光った。
辺りには前に感じたものよりも大きな魔の気配。
だが、もはや私はそんな事にまで、目を向ける事が出来ずに―――
「私はこの真なる聖女であるマチルダ譲と婚約を結ぶことにした!この麗しく気高い心を持つ彼女こそが、この栄えある王国の国母に相応しい!」
「お姉さまの犯した罪は、妹である私が償います…。私が責任を持って、この国を護っていきます…!」
おお、と歓声と拍手が起きる。
もう聞きたくない。何もかも聞きたくない。耳を塞いでしまいたい。
全員黙ってほしい。殺すなら早く殺してくれ。
目の前で繰り広げられている茶番を前に、私は耐え難い感情に襲われる。
もういっそ聖魔法でこの場全部を壊してしまおうか―――そんな酷い想像までもが頭の端で蠢いている。
もう全てがどうでもよくなってしまった私は、聖女としての殻も全て脱ぎ去り、このまま終わってしまいたいとさえ思うような黒い感情に襲われる。
「今すぐ罪人を牢へ連れていけ!」
殿下の命令が轟くと、この会場の脇で静かに待機していた兵士たちが一斉に動く。甲冑の擦れる音がやけに大きく響き、立ち尽くしている私へと徐々に近づいてくる。
足音がすぐそばで止まる。
槍の先が揺れる。
兵士の手が、私へ伸びる。
その瞬間―――
「まぁまぁ、少し落ち着いたらどうだい、アレクシス殿下」
軽やかで、場違いなほど穏やかな声が割って入った。
会場の空気が一瞬で変わるような、鈴の音のような凛とした声。
その軽薄な言葉とは裏腹に、反射的に首を垂れそうになるほどの、生まれながらの為政者の圧力。
会場の老若男女、誰もが言葉を失い、全員の視線が声のした方向へ吸い寄せられた。
「たとえ君主制とはいえ、君はまだ王太子だ。教会に属する神聖な聖女をそんな簡単に斬首刑には出来ないだろう?」
その声には、一寸の恐れもない。
この大広間で、王太子の面子を真正面から否定する―――それがどれほど危険な行為か、知らぬはずがないのに。
「……っ、お前は……!」
これまでずっと悦に浸っていたような殿下の表情が、初めて歪んだ。




