第4話 ある辺境伯の決意
王都から遠く離れた、北の辺境領。
季節の変わり目には冷たい風が吹き荒れるその土地の、朝靄に深く包まれた小高い丘の上に、質素な小さな墓地が静かに佇んでいた。
乾いた草木を揺らす風の音と、遠くで鳴く小さな鳥の羽ばたきだけが響く静寂の一角。
そこに、一人の男が立ち尽くしている。
身にまとっているのは、王都での婚礼のために仕立てられた上質な黒の礼装。風に揺れる髪は少し伸び、その隙間から覗く鋭い灰色の瞳は、足元にある小さな墓石だけをじっと見つめていた。
刻まれた文字の前には、まだ朝露を纏った白い百合の花束が供えられている。
生前、彼女が誰よりも愛し、大切に育んでいた花だ。
「……今日だ」
男――ヴィンセント・クロフォードは、低くかすれた声で静かに口を開いた。
当然、返事など返ってくるはずもない。
三年前、流行病によってこの冷たい土の下へと眠るようになった最愛の妻は、もう二度と優しく微笑みかけてはくれないのだ。
「王命を受けた」
冷たい風が吹き抜け、白い百合の花弁が微かに揺れる。
「断ることは……できなかった。領民を守る立場にある以上、王国の意思を突っぱねるわけにはいかなかった」
誰に言い訳をするわけでもない。
ただ、溢れ出しそうになる胸の内の苦痛を吐き出すように、彼は一つひとつ言葉を繋ぐ。
「すまない」
深く掠れたその一言だけが、あまりにも重く、悲しく、静かな墓地に響き渡った。
彼は亡き妻との約束を破るつもりなど、一度だってなかった。
生涯、彼女だけを愛し続ける。
息を引き取る直前、白く痩せこけた彼女の手を握り締め、そう誓ったのだ。
その誓いだけを唯一の支えとして、彼は心が死んだかのようなこの三年間を必死に生き抜いてきた。
なのに今日、自分は王命という抗えぬ権力によって、別の女性と夫婦の契りを交わす。愛してもいない、見たこともない女性と。
「……許してくれ」
永い沈黙のあと、ヴィンセントは手袋を嵌めた手を墓石へとそっと添えた。冷たい石の感触が、彼の皮膚を通して心まで冷やしていく。
その瞳には溢れんばかりの深い悲しみが宿っていたが、一滴の涙すらこぼれ落ちることはなかった。
彼の涙は、三年前のあの日、彼女の鼓動が止まった瞬間にすべて枯れ果ててしまったのだ。
それ以来、彼は笑うことも、泣くことも、感情を露わにすることすらほとんどなくなっていた。
「旦那様」
背後から、遠慮がちな控えめな声がかかる。
振り返ると、長年クロフォード家に仕える執事のエドガーが、深く深く頭を下げていた。
「そろそろお時間でございます。王都への馬車の準備が整いました」
「ああ」
ヴィンセントは最後にもう一度だけ、名が刻まれた墓石を愛おしそうに見つめた。
「行ってくる」
ただそれだけの言葉を残し、彼は一度も振り返ることなく、力強い足取りで踵を返した。
◇◇◇
王都へと向かう豪奢な馬車の中には、重苦しい沈黙がずっと流れていた。
向かいの席に座るエドガーは、窓の外を固い表情で見つめ続ける主人へ何度も話しかけようとしては、言葉を飲み込んで口を閉ざしていた。
やがて、彼は意を決したように静かに口を開いた。
「……旦那様。奥様も、きっとお許しくださいます。領地とクロフォード家を守るためのご決断であることを、誰よりもご理解されているはずです」
ヴィンセントは流れる外の景色から視線を一切動かさない。
「そういう話ではない」
短く、低く、冷ややかな返事。
「ですが……」
「これは愛ではない」
その声には、一切の感情の起伏が存在しなかった。あまりに平坦で、冷徹な響きだった。
「ただ陛下の命に従い、形だけの妻を迎えるだけだ」
それ以上、この話を続けるつもりはないと言わんばかりに、ヴィンセントは完全に口を閉ざした。
エドガーもそれ以上は何も言えなかった。
主人がどれほど亡き妻を深く愛していたか、そして彼女を失ってからの三年間、どれほど深い孤独の中で苦しんできたかを一番近くで見守ってきたのは、自分自身だったからだ。
◇◇◇
王都の大聖堂。
絢爛豪華な装飾が施された広場には、大勢の貴族たちが集まり、口々にざわめき合っていた。
「北の辺境伯がお見えになったぞ」
「……なんという気迫だ。やはり数々の戦を潜り抜けてきた男は違う」
「戦場の英雄そのものだな。だが、噂通り一度も笑みを見せない」
飛び交う好奇と畏怖の視線、ひそひそ話にも、ヴィンセントは全く耳を貸さなかった。
ただ重い足取りで祭壇の前へと歩みを進め、背筋を伸ばして立つ。
周囲を見渡すこともしない。知人に挨拶を交わすこともしない。
(早く……終わってくれ)
ただそれだけを、虚無に包まれた心の中で願っていた。
やがて、重厚な大聖堂の扉が重々しい音を立てて静かに開かれた。
パイプオルガンの荘厳な音色が響き渡る中、純白の花嫁衣装をまとった一人の女性が、老侯爵に手を引かれて、ゆっくりとバージンロードを歩いてくる。
光を浴びて柔らかに煌めく、蜂蜜色の美しい髪。
慎み深く、けれど気品に満ちた佇まい。
緊張を隠すように、静かに浮かべられた可憐な笑み。
噂通り、息をのむほどに美しい女性だった。
(……随分と若い)
彼女の姿を目にしたヴィンセントが最初に抱いた感想は、拍子抜けするほど冷めたそれだけだった。
そして同時に、可哀想な女性だ、とも思う。
王子に一方的に婚約を破棄され、その身勝手な不祥事を揉み消すための穴埋めとして、子連れでもないとはいえ妻を亡くした一回りも年上の男へ嫁がされる。
彼女もまた、この愚かな政治的都合による被害者なのだ。
だが、湧き上がったのは哀れみだけで、それ以上の特別な感情は何一つとして湧いてこなかった。
彼の心は、三年前のあの冷たい朝で完全に止まったままだったのだから。
◇◇◇
神聖な結婚の儀式は、粛々と滞りなく進んでいった。
老神官が神への祈りと祝福の言葉を述べ、互いに誓いの言葉を交わし、冷たい指輪を互いの薬指へと嵌める。
式が終わると同時に、大聖堂内に割れんばかりの拍手が響き渡った。
集まった貴族たちが口々に「絵になるお二人だ」「なんとお似合いの二人だろう」と祝福の声を贈る。
だが、その賑やかな歓声も、ヴィンセントの耳にはどこか遠くの出来事のように空虚にしか聞こえなかった。
ふと隣に立つ新しい妻を見る。
リリーと呼ばれたその女性は、集まった人々に向けて、崩れることのない穏やかな笑みを絶やさずに立っていた。
彼女がこの結婚をどう思っているかは知らないが、なんにせよ、最初から期待などさせない方がいい。
情などという生半可なものを持たせる前に、自分のスタンスをはっきりと言葉で伝えるべきだ。彼女が傷つくことのないように。
ヴィンセントは心の中で、静かにそう結論づけた。
その日の夕刻。
式を終え、二人だけを乗せた黒塗りの馬車は、西日を浴びながら北の辺境へと向けて力強く走り出した。
これから始まるのは、世間一般で言えば夫婦としての新しい生活。
けれどヴィンセントの中で、その言葉になんの価値も意味もなかった。
この結婚は、ただ王命によって義務付けられた不本意な契約に過ぎない。
だから屋敷へ到着したら、一番に彼女へはっきりと告げよう。
決して余計な期待は抱かないように。
自分の心が、この先も永遠に変わることはないのだから。




