第3話 結婚式当日
薄いシルクのカーテンの隙間から柔らかな朝日が差し込み、静まり返った部屋を淡い金色に染め上げていた。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
重い瞼を開けても、体に力が入らない。けれど、切ない想いを置き去りにしたまま、朝は容赦なく、そして静かに訪れる。
リリーはしばらくの間、見慣れた天井の木目をじっと見つめていた。
昨夜の出来事が、すべて儚い夢だったのではないかという錯覚に襲われる。
だが、肌に残る冷たい夜風の感覚と、胸の奥に残る重い余韻が、あれが現実であったことを静かに物語っていた。
月明かりの下で佇んでいた庭園。
寂しげに、けれど温かく浮かべられたカイルの笑顔。
そして、最後に交わした「幸せになれ」という約束。
胸が痛まないと言えば嘘になる。裂けるような寂しさが、今も胸の奥で燻っている。
けれど、不思議と涙はこぼれ落ちなかった。
昨夜、あの静かな庭園で流した一筋の涙が、幼い頃から抱き続けてきた初恋に、そっと区切りをつけてくれたのかもしれなかった。
「失礼いたします」
控えめなノックの音とともに、筆頭侍女のアンナをはじめ、数人の侍女たちが静かに部屋へと入ってきた。
手には洗面器や仕立て上がったばかりの花嫁衣装を抱えているものの、誰もが俯きがちで、その表情には隠しきれない寂しさが滲み出ている。
「皆、そんな顔をしないで」
リリーが努めて明るく微笑むと、水を入れた器を持つ一人の若い侍女が、耐えきれなくなったようにポロポロと涙をこぼした。
「だって……リリー様がこんなに遠くへ行ってしまわれるなんて……」
「辺境とはいえ、二度と会えないわけではないでしょう?」
「ですが……」
リリーはベッドからゆっくりと立ち上がると、震えるその侍女の手を優しく包み込んだ。
「泣かないで」
「今日は、お祝いの日なのだから」
穏やかなその言葉に、部屋の中にいた侍女たちが堰を切ったように堪えていた涙をこぼし始める。
リリーは困ったように眉を下げて笑った。
「もう……私まで泣きたくなってしまうじゃない」
侍女たちは照れくさそうに笑い合いながら、目元を袖で拭った。
◇◇◇
静かな空気の中で、花嫁支度が整えられていく。
櫛が通されるたび、リリーの長い蜂蜜色の髪は優美に結い上げられ、繊細なレースが施された純白のヴェールが掛けられた。肌を包むドレスは重厚なシルクで仕立てられ、歩くたびに微かな衣擦れの音を響かせる。
全身を鏡に映すと、そこには美しいドレスに身を包んだ花嫁が立っていた。
けれど、その姿をいくら見つめても、どこか実感が湧いてこない。
(今日から私は、辺境伯夫人……)
口の中で、誰にも聞こえない声で呟いてみる。
その響きはまだどこか他人事のようで、自分とは遠い世界の出来事のように思えた。
「本当に、お綺麗です」
後ろに立つアンナが、目元を潤ませながら感極まった声で呟く。
「ありがとう」
「辺境伯様も、きっとこのお姿をご覧になったら驚かれますわ」
その言葉に、リリーは小さく首を傾げた。
(本当は、どんな方なのかしら……)
社交界で囁かれているのは、あまりに極端な噂ばかりだ。
若くして数々の凄惨な戦で武勲を立てた、凄腕の英雄。
先立たれた妻を今もなお愛し続けているという、一途な人。
滅多に表情を崩さない、冷酷で厳しい人。
噂の刃の奥にある、彼の本当の素顔はどんなものなのだろうか。
◇◇◇
重厚な屋敷の正面玄関には、父と母が固い表情で並んで待っていた。
母はすでに鼻を赤くし、ハンカチを強く握り締めている。
「リリー……」
「お母様」
言葉よりも先に、母の腕がリリーを力強く抱き寄せた。
鼻をくすぐる柔らかい香水の匂いと、幼い頃と何一つ変わらない包み込むような温もり。
「絶対に、幸せになるんですよ。だけど…辛くなったり、寂しくなったら、帰ってらっしゃい」
耳元で囁かれたその震える言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。
「はい」
父もまた、ゆっくりと静かに歩み寄ってきた。威厳に満ちたその顔はいつもより幾分柔らかく、眼差しには深い愛惜が宿っている。
「お前なら大丈夫だ」
短く、飾らない言葉。
けれど、その一言には口下手な父が抱くすべての想いと信頼が詰まっていた。
リリーはヴェールの裾を揺らしながら、深く、深く頭を下げる。
「今まで、本当にありがとうございました」
支えられながら豪奢な馬車へ乗り込む。
車輪が軋んだ音を立てて動き出し、窓の外で見送る両親の姿が少しずつ小さくなっていく。手を振り続ける母と、じっとこちらを見つめる父。
リリーもまた、車窓から身を乗り出すようにして笑顔で手を振り返した。
住み慣れた館が遠ざかっていく。
思い出が詰まった庭園も。
胸に刻まれた幼少期の記憶も。
愛する家族の姿も。
すべてが流れる景色の中に消えていく。
その時だった。
(……さようなら)
心の中で呟いた別れの言葉は、見慣れた景色に向けたものだけではなかった。
もう二度とこうして逢うことは叶わないであろう、幼なじみの騎士。
昨夜、月明かりの下で交わした最後の約束。
――幸せになれ。
リリーはそっと瞼を閉じ、胸の前で強く拳を握りしめた。
「約束、絶対に守るから」
馬車の揺れにかき消されるほど小さく、けれど固い決意を込めて呟いた。
◇◇◇
やがて馬車は、王都の中心に聳え立つ大聖堂の前へと到着した。
見上げれば、青空に祝福の鐘の音が重々しく響き渡っていた。
開かれた大きな扉の向こう側には、まだ見ぬ未知なる人生が静かに待っていた。
リリーは一度だけ、深く息を吸い込んだ。
そして胸を張り、静かに前を見据える。
もう、二度と後ろを振り返ることはない。




