第2話 初恋との別れ?
結婚式を翌日に控えた夜。
侯爵家の屋敷は、昼間の慌ただしい宴の準備が嘘だったかのように静まり返っていた。廊下に飾られた燭台の火はすでに落とされ、静寂が館の隅々にまで満ちている。
リリーは羽織っていた薄手のショールを肩にかけ直すと、一人、屋敷の奥に広がる庭園へと足を進めた。
夜風が冷ややかに頬を撫で、どこか寂しげな草の香りを運んでくる。
見上げれば、雲の切れ間から覗く満月が、白銀の光を降り注ぎ、入り組んだ石畳や丹念に整えられた薔薇のアーチを淡く浮かび上がらせていた。
幼い頃から、この庭園はリリーにとって特別な場所だった。
厳しい貴族の教育に疲れて逃げ出したいときも。
努力が認められて、胸いっぱいに喜びを感じたときも。
誰にも言えない傷を抱えて泣きたいときも。
彼女はいつも、この場所で夜の静けさに身を委ねてきたのだ。
だが明日になれば、この慣れ親しんだ場所に身を置くことも叶わなくなる。遠く離れた北の辺境へと嫁ぐリリーにとって、今日がこの庭と過ごす最後の夜だった。
「……やっぱりここにいた」
背後から響いたのは、胸の深いところにすっと染み込んでくるような、どこか懐かしい低めの声だった。
リリーは息を飲み、ゆっくりと振り返る。
月明かりの下、庭園の入口近くに立っていたのは一人の青年だった。
深く澄んだ闇を溶かし込んだような濃紺の騎士服を身にまとい、その腰には磨き上げられた一振りの剣が収まっている。
第ニ王子直属護衛騎士――リリーの幼なじみでもあるカイル・スターリングだった。
王宮でのカイルは常に礼儀正しく、何事にも冷静沈着で、誰に対しても一切の隙を見せない優秀な騎士として名高い。
だが、リリーの前に立っている彼は違っていた。
「久しぶりだな」
そう言って口元を綻ばせる彼は、かつて二人で野山を駆け回っていた頃と何一つ変わらない、温かく優しい表情を浮かべていた。
「カイル……!」
彼を見た瞬間、押し殺していた感情が解け、自然と笑みがこぼれ落ちる。
「来てくれたのね」
「来るに決まってるだろ」
カイルは肩をすくめて見せた。その少し呆れたような、けれどどこか照れくさそうな仕草に、リリーは思わずくすりと胸を揺らす。
「……明日には嫁ぐんだからな」
「……そうね」
二人は示し合わせたわけでもなく、静かに並んで歩き始めた。
石畳を踏む足音と、草むらで鳴く虫の音だけが、夜の静寂の中に静かに響き渡る。月光が二人の影を長く伸ばし、重なりそうで重ならない絶妙な距離を保ち続けていた。
「聞いたぞ」
しばらくの静寂を破り、カイルが静かに口を開いた。
「クロフォード辺境伯と結婚するんだってな」
「ええ」
「急な話だったな」
「本当に」
自嘲気味な苦笑いを浮かべるしかない。ほんの数日前まで、自分がまったく見知らぬ辺境の地へ行くことになるとは思いもしなかったのだから。
「殿下があんなことをするなんて、思ってもみなかったもの」
「……ああ」
王子の無謀とも言える逃避行を思い返したのか、カイルは苦い表情を浮かべ、わずかに視線を落とした。
「でも」
リリーは足を止めず、そっと澄み渡る夜空を見上げた。月が輝き、その周囲に控えめな星々が散らばっている。
「少しだけ、羨ましいと思ったの」
「羨ましい?」
「殿下は、ご自分の気持ちを最後まで貫かれたでしょう?」
約束された王位も。
貴族としての立場も。
輝かしい未来すらも。
彼はそのすべてを投げ打ってでも、心から愛するただ一人を選び取ったのだ。
「私には、そんな風にすべてを捨てる勇気はなかったから」
カイルは何も答えなかった。ただ、リリーの歩幅に合わせて、静かに、優しく隣を歩き続けている。その無言の包容力が、リリーの胸を締め付けた。
「私たちも昔、話したものね」
――叶わない恋だ、と。
片や、歴史ある侯爵家の令嬢として生まれたリリー。
片や、平民の出でありながら、己の剣一本で騎士の地位を掴み取ったカイル。
幼い頃は身分の違いなど意識することもなく、ただ手をつないで笑い合っていた。
けれど成長するにつれ、社会の掟と身分の壁がどれほど高く、決して超えられないものであるを嫌というほど思い知らされてきたのだった。
「覚えてる?」
リリーが横顔を覗き込むように尋ねると、カイルはあきれたように苦笑した。
「忘れるわけねぇだろ」
「ふふ」
「お前、大泣きしながら『大人になったら絶対にカイルと結婚するの!』なんて叫んでたしな」
「そ、それはもう忘れてって言ったじゃない!」
「嫌だね」
カイルはくくっと喉を鳴らして笑う。
「かわいかったぞ」
「もう……!」
照れくささを誤魔化すように、リリーはカイルの頑丈な腕をぽんと叩いた。
カイルは大げさにその場所を押さえ、顔をしかめて見せる。
「いてぇな」
「嘘。痛いわけないでしょう?」
「……ばれたか」
二人は顔を見合わせ、声を殺して笑い合った。
幼少期の記憶が昨日のことのように蘇ってくる。何の憂いもなく、互いの存在だけを信じて笑い合えていたあの頃。
(こんな風に、飾らない自分で笑い合えるのは……きっと今日が最後)
そう理解した瞬間、あふれ出た愛おしさと切なさが重なり合い、胸の奥がキリキリと痛み出す。
二人の笑い声が風に溶けて消えると、庭園には再び重い静寂が訪れた。月光がふたりを照らし出し、離れゆく運命を残酷に浮かび上がらせる。
「リリー」
「なに?」
「……悪かった」
突然の、どこか掠れた謝罪の言葉に、リリーは足を止めて首を傾げた。
「何が?」
「俺は……何もできなかった」
そのひと言に込められたあまりにも深い悔恨の念に、リリーは胸を衝かれた。
立ちはだかる身分。
責務と立場。
国と王家に捧げた騎士としての使命。
カイルは何一つ悪くない。彼はいつだって泥臭い努力を重ね、誰よりも誠実に、己の道を切り拓いてきたのだから。
それでも彼は、リリーが望まぬ運命に呑み込まれていくのをただ指を咥えて見ていることしかできなかった自分を、責めているのだった。
リリーは穏やかに、けれどきっぱりと首を横に振った。
「謝らないで、カイル」
「でも――」
「私たち、最初からちゃんと分かっていたでしょう?」
「……ああ」
「身分を捨てて逃げ出すことも、周りを傷つけて我が通すことも、私たちにはできないって。だから……これでよかったの」
自分で言葉にしながらも、胸がちぎれるほどに痛かった。
本当は「これでよかった」なんて、これっぽっちも思えていない。
できることなら過去に戻りたかった。すべての立場を投げ出して、彼の差し出す手を取って遠くへ逃げ去りたかった。
けれど、そう言って微笑むことしか、今の自分にできる強さは残されていなかった。
カイルは夜空を仰ぎ、長く重い息を吐き出した。
「……辺境伯は、いい男らしいぞ」
「そうなの?」
「ああ。過酷な土地を守り抜き、部下や領民からの信頼も絶大だ。誠実な人間だと聞いている」
「それなら、安心ね」
「……だから」
カイルが一歩歩みを進めて立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
彼の強い眼差しが、リリーの瞳を真っ直ぐに見つめる。
「幸せになれ」
その言葉は、まるで彼が自分自身に言い聞かせる決別の誓いのようだった。
リリーは溢れそうになる涙を必死に堪え、少しだけ瞳を潤ませながら微笑んだ。
「難しいことを言うのね」
「お前ならできる。絶対にだ」
「あなたもよ」
「……俺はいい」
「よくないわ!」
リリーは幼い頃と同じように、むっと頬を膨らませてカイルを睨みつけた。
「あなたも、ちゃんと幸せになって!! 私との思い出を免罪符にして、一人で寂しく生きていくなんて絶対に許さないんだから!」
カイルは不意を突かれたように目を丸くしたあと、どこか照れくさそうに、けれど温かく笑った。
「……ああ。約束する」
その一言は、いつかの夕暮れに交わした約束と同じ、幼なじみの優しい口調だった。
二人はしばらくの間、言葉を交わさず見つめ合った。
夜風が二人の間を吹き抜けていく。
けれど、互いの胸の奥に秘めた本当の想いを、口にすることは二度となかった。
「好きだった」と。
「ずっと愛していた」と。
それを口にしてしまえば、この完璧に作り上げた理性の城壁が崩れ去ってしまう。
言えば、もう二度と離れられなくなる。
言えば、決して明日の朝を迎えることができなくなってしまうから。
だからこそ、二人はその言葉を永遠に封印することを選んだ。
「じゃあな」
カイルはそれだけ言うと、ゆっくりと背を向けた。
遠ざかっていくその凛とした背中を、リリーは一瞬たりとも見失わぬよう、静かに見送る。
「カイル」
「ん?」
振り返らないまま、低い返事だけが夜の空気に溶ける。
「元気で」
「おう」
短く、素っ気ないほどの返事。
けれど、それが彼なりの最大限の優しさであり、愛おしさの裏返しであることを、リリーは誰よりもよく知っていた。
やがて、深く美しい濃紺の騎士服は、静寂に包まれた夜の闇の中へと溶けるように消えていった。
一人残されたリリーは、胸元で両手を固く、ぎゅっと握り締めた。
(これで……本当に最後)
涙は流さない。
これから始まる新しい人生と、彼がくれた「幸せになれ」という言葉に背かないために、絶対に泣かないと決めていた。
けれど、一筋の冷たい夜風が頬を撫でて吹き抜けた瞬間、堪えきれなかった一滴の熱い雫が、頬を伝って零れ落ちた。
月光に煌めくその涙を指先でそっと拭いながら、リリーは遠い夜空に向かって、小さく、けれど晴れやかに微笑んだ。
「……さようなら、私の初恋」
静まり返った庭園で、見上げればただ青白い月だけが、二人の切ない別れをどこまでも静かに見守っていた。




